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[転載]朝鮮学校
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[転載]コレが朝鮮学校の実状か。
※明らかに「おかしな」判決である。
先日記事にした朝鮮学校無償化の是非が争われた大阪地裁の異様な判決、国は当然の事ながら控訴しているが、やはりこの大阪地裁判決は朝鮮学校の実状を何ら反映していない代物だった。週刊新潮がそれを明らかにしている。
※それは「差別」じゃない、「区別」の問題だ。
関西大学の李英和教授によれば
「(朝鮮学校の)教師たちは朝鮮大学校出身者でほとんどが教員免許を持っていない」
のだと言う。「無償化」の要件は
「法令に基づいた適正な運営がされていること」
だが、これでどう「法令に基づいた」教育が出来ると言うのだろうか?
※教育基本法2条
教育基本法は第2条で「教育の目標」を定めている。特に五、だが、
《伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。》
と定めている。授業で使われるハングルの教科書を独自に入手し、翻訳を続けている現代朝鮮史家の萩原遼氏によると朝鮮学校では
「日本のことを『日帝』と呼び、その悪行を史実とは違う形で無茶苦茶に書き連ねて金王朝を賛美」
していると言う。また、2002年、当時の小泉首相が訪朝し、金正日が公式に拉致を認め謝罪した日朝首脳会談については
《歴史的な朝日平壌宣言が発表された》
と言う一行で片付けており、勿論「拉致問題」の「らの字」も登場しない。嘘出鱈目の歴史を教え、反日を煽り、自分達が日本に対して仕出かした犯罪行為については黙殺、それの何処が教育基本法が言う「他国を尊重」だと言うのだろうか?この一事を以てしても
「朝鮮学校が『法令に基づいた適正な運営』」
をしていない事に疑いの余地はない。
※朝鮮学校は「学校」の名に値しない。
またこの大阪地裁判決は
「朝鮮総連が、朝鮮学校へ『一定の関与』をしていることを認めながらも、現場が不当な教育を強いられてはいない」
と結論したが、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の代表で元大阪経済大学准教授の山田文明氏によれば
「子供たちは、課外授業と称して北への忠誠を尽くす政治団体に強制的に入れられる」
「日本の小中にあたる初級学校や中級学校には『少年団』があって、北朝鮮の学校と同じ制服を着て同じ敬礼の仕方を教えられる。」
「『元帥様の幼き日々』といったレクチャーを通して、金王朝礼賛の洗脳教育が頻繁に行われている」
のだと言う。
「政治団体に『強制的に』入れられる」
「金王朝礼賛の洗脳教育が頻繁に行われている」
時点で
「現場が不当な教育を強いられている」
のは明白だが、このおかしな判決を出した裁判長西田隆裕はその実態を理解していないのか?それとも「確信犯」的に北朝鮮擁護の判決を出したのか?いずれにしても判決が朝鮮学校の実状を何ら考慮していない事だけは間違いない。
※朝鮮学校無償化の結論はこの一言で足りる。
その上神戸朝鮮高級学校OBの男性によれば
「教師たちは、在日で学齢期の子供がいる家庭を訪問して、絶対に入学せよと指導します。拒んだ家には何度も執拗に押しかける。まるで宗教の勧誘です。一度、学校に入ってしまえば就職、結婚もそのコミュニティの中で完結しますし、献金も求められる。総連の組織拡大、ひいては北の政権維持に利用されている」
のだと言う。それでも
「現場が不当な教育を強いられてはいない」
と言い切れるのか?
在日朝鮮人は親族の多くがまだ北にいて、人質に取られているのと同じなのだと言う。そのため、入学を余儀なくされているのだとも言うが、それの何が
「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な人間の育成」
に繋がると言うのか?
※教育基本法14条
学校の政治教育について は教育基本法14条で
《特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。》
と、定めている。言うまでもなく北朝鮮は「一党独裁」体制なので、金一族を礼賛する教育を行っている時点でそれは
「特定政党を支持する政治教育」
そのものであり、明らかに教育基本法14条に抵触する。それでも
「朝鮮学校が法令に基づいた適正な運営を行っている」
と言えるのか?
※「違う」と言うなら名誉毀損で告訴してはどうか?
週刊新潮の記事が事実に反する、と言うなら朝鮮学校は週刊新潮を名誉毀損で訴えて反証すれば良いがどうせそんな事は出来っこない。控訴審では「常識的な判決」が出るものと信じたいが、「敵」は朝鮮学校や朝鮮総連だけでなく、この様な「アカでバカ」な裁判官もいる、と言う事だ。この件の大阪地裁判決での「唯一の収穫」はそういう裁判官が「誰なのか?」が明確になった事だけである。油断大敵である。
※ストレートに考えれば答えは明白なのである。
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[転載]は~い♡ 朝鮮学校も無償になるよ~ん ♡
高木とかいう大臣の顔は知らん!
朝鮮学校への高校授業料無償化を認めるらしい。
民主党もアホだな・・・。
拉致問題担当大臣?
そんな輩の顔も知らん!
高木くん!
まずは、朝鮮学校へ行って、
「日帝野郎!」って歓迎されて、
金親子の写真に敬礼して、
洗脳された子供たちが使っている
教科書を見て来なよ!
普通の神経ならば、援助できないよ(笑)。
中には「税金を納めているから無償にしろ!」
と戯れ言をおっしゃる朝鮮支援団体の
「キムチ野郎」もいらっしゃると思います。
あんたらの払った微々たる税金は、
拉致被害にあった方々のために
大切に使っております。
まずは、腐った教科書を焼き捨てて、
金親子の写真を焼き捨てて、
「キムチョンのための正しい日本語会話」
という教科書を使用してから意見しなさい。
そうしたら、家庭科の授業のキムチ作りの
材料費ぐらいは援助してあげますニダ。
テロリストも子供のためにこんな教科書は使わないよ・・・。
思いやり内閣・・・・。
脱帽・・・。
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[転載]【バ大阪】これは朝鮮学校では無いニカ!
これは朝鮮学校ではありません!
在日に対して行われる【民族学級】では無い。
巷で拾った大阪の驚くニュースです、
【日本文化】を先に習うべきだろう!
公然と授業として【朝鮮語】・【朝鮮文化】を日本の生徒に教えている
大阪の【公立小学校】の姿ですから驚きです。
在日に対して行われる【民族学級】では無い。
巷で拾った大阪の驚くニュースです、
【日本文化】を先に習うべきだろう!
公然と授業として【朝鮮語】・【朝鮮文化】を日本の生徒に教えている
大阪の【公立小学校】の姿ですから驚きです。
ここは日本国ダ!
ウリナラ(우리나라)と言うのは朝鮮語で【我が国】と言う意味だ。
南鮮国(한국)クイズで良いはず無いだろ。
こんな可笑しな授業を導入している【公立小学校=国費】の真意を知りたい。
巷のコメント
こりゃ教職員全員【在日南鮮人】か?
国賊ダ、それとも未だ併合していて、【一方言】と見下しているニカ?
【日本民族】の教育を押し付けられたニダと、吠えた連中が、
ウリナラ(우리나라)と言うのは朝鮮語で【我が国】と言う意味だ。
南鮮国(한국)クイズで良いはず無いだろ。
こんな可笑しな授業を導入している【公立小学校=国費】の真意を知りたい。
巷のコメント
こりゃ教職員全員【在日南鮮人】か?
国賊ダ、それとも未だ併合していて、【一方言】と見下しているニカ?
【日本民族】の教育を押し付けられたニダと、吠えた連中が、
同じ事を日本国内でやっているわけニダ。
自分達は【許される】と考える思考回路に腹が立つ。
統治していた時代に押し付けていたと言うなら、日本語しか話せ無いが。
南米やアフリカ等は自民族の言葉は公では通用し無い地域が殆ど。
朝鮮総督府はそんな事はしてません
自分達は【許される】と考える思考回路に腹が立つ。
統治していた時代に押し付けていたと言うなら、日本語しか話せ無いが。
南米やアフリカ等は自民族の言葉は公では通用し無い地域が殆ど。
朝鮮総督府はそんな事はしてません
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[転載]ポツダム宣言をまとめた面々
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第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が~戦争犯罪人~として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判のこ
第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が~戦争犯罪人~として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判のことである。
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[転載]李氏朝鮮
李氏朝鮮
李氏朝鮮/李朝/朝鮮(王朝)朝鮮語表記中国語表記英語表記
ハングル: | 조선(왕조)시대/이씨조선/리조(봉건)시대 |
朝鮮の漢字: | 朝鮮(王朝)時代/李氏朝鮮/李朝(封建)時代 |
日本語読み: | ちょうせん(おうちょう)/ りちょう(ほうけん)じだい |
片仮名転写: | チョソン(ワンジョ)/ リジョ(ボンゴン)シデ |
ラテン文字転写: | RR:Joseon wangjo MR:Chosŏn wangjo |
繁体字: | 李氏朝鮮/李朝/朝鮮王朝 |
簡体字: | 李氏朝鲜/李朝/朝鲜王朝 |
ピンイン: | Lǐshì Cháoxiǎn/Lǐcháo/Cháoxiǎn Wángcháo |
アルファベット: | Joseon Dynasty/Joseon/Chosŏn/Choson/Chosun |
朝鮮の歴史 | ||||||||||
考古学 | 櫛目文土器時代8000 BC-1500 BC 無文土器時代1500 BC-300 AD | |||||||||
伝説 | 檀君朝鮮 | |||||||||
史前 | 箕子朝鮮 | |||||||||
燕 | ||||||||||
辰国 | 衛氏朝鮮 | |||||||||
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡 | |||||||
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 濊 貊 | 沃 沮 | ||||||
三国 | 伽耶 42- 562 | 百済 346-660 | 高句麗 前37-668 | |||||||
新羅 356- | ||||||||||
南北国 | 唐熊津・安東都護府 | |||||||||
統一新羅 鶏林州都督府 676-892 | 安東 都護府 668-756 | 渤海 698 -926 | ||||||||
後三国 | 新羅 -935 | 後 百済 892 -936 | 後高句麗 901 -918 | 遼 | 女真 | |||||
統一 王朝 | 高麗918- | 金 | ||||||||
元遼陽行省 (東寧・双城・耽羅) | ||||||||||
元朝 | ||||||||||
高麗1356-1392 | ||||||||||
李氏朝鮮1392-1897 | ||||||||||
大韓帝国1897-1910 | ||||||||||
近代 | 日本統治1910-1945 | |||||||||
現代 | 連合軍軍政期1945-1948 | |||||||||
大韓民国 1948- | 朝鮮民主主義 人民共和国 1948- | |||||||||
Portal:朝鮮 |
李氏朝鮮(りしちょうせん、韓国語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。
1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる[1])が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。
1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。
大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。
日本への併合と朝鮮王朝の滅亡
1904年になると、日露戦争が勃発し、日本が勝利する。1905年には第二次日韓協約が締結された。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。これら一連の主権接収の責任者となったのは伊藤博文であった。一方、高宗も1907年オランダのハーグに密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るが(ハーグ密使事件)、この主張は国際社会に拒絶された。これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及び韓国統監伊藤博文は高宗に譲位するよう迫り、同年退位した。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である純宗が即位した。
1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。日本政府内では併合派と反対派が拮抗しており議論が紛糾していた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は併合派に対して異論を唱え、併合には反対の姿勢をとった。彼が併合に反対する理由として述べたのは、
- 現在の保護国化状態でも実質的には併合した場合と同じく朝鮮を支配でき、又韓国進出の口実として用いてきた『韓国の独立富強』という建前を捨てることは却って益なしである。
- 加えて財政支出の増大を招くことからも併合は勧められず、今は国内の産業育成に力を注ぐべきである。ということであった。
1909年10月26日に伊藤博文が安重根によって暗殺されると、韓日合邦を要求する声明書が朝鮮人によって出されるなど併合派が優勢となり韓国併合および大韓帝国の滅亡は決定的なものとなった。日本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉を進め、1910年8月22日に韓国併合ニ関スル条約が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は完全に消滅した。なお、韓国皇族は日本の皇族に準じる地位(王公族)に封ぜられ、処刑もしくは追放などの厳罰処置は行われなかった。
日本に併合されて(大韓帝国が滅亡して)まもなく、朝鮮人の一部宗教家や学生らによる三・一独立運動又は「三・一鮮人暴動」と呼ばれる反日蜂起が起こったが、朝鮮総督府当局の鎮圧により終息した。
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[転載]古代の朝鮮半島
暗黒半島・李氏朝鮮①』宮脇淳子 AJER2012.12.20(3)
古代の朝鮮半島
衛氏朝鮮・漢四郡・原三国時代
朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた[17]。戦国時代、燕は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、中国商人の権益を保護していた[18]。秦代は遼東郡の保護下にあった[19]。
秦末漢初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(清川江以南)から撤退させた。紀元前197年、漢朝は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満が清川江を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、衛氏朝鮮が成立した[20]。
- 考古学的に証明できる朝鮮の最初の国家。建国者から名乗って衛満朝鮮とも。中国の燕を出自[21]とする中国人亡命者である衛満が朝鮮半島北部に建国した。衛氏朝鮮は三代衞右渠の時の紀元前108年に漢の武帝に滅ぼされた。その故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島中・西北部を統治した。
- 原三国時代(BC108 - 2世紀中葉)
- 遼東郡東部都尉(平安北道)
- 楽浪郡(平安南道・黄海北道)
- 帯方郡(黄海南道。ただし、京畿道まで含むとする説もある。)
- 北沃沮(咸鏡北道)
- 東沃沮(咸鏡南道)
- 濊(ワイ)(江原道)
- 馬韓(京畿道・忠清北道・忠清南道・全羅北道・全羅南道。ただし、京畿道・忠清北道・忠清南道を含まないとする説もある。)
- 辰韓(慶尚北道・慶尚南道)
三国時代
詳細は「三国時代 (朝鮮半島)」を参照
高句麗・百済・新羅の三国が並立。唐は660年に百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に安東都護府を設置、百済の故地に熊津都督府を設置する。さらに、新羅を鶏林州都督府として半島全域を藩属国から羈縻州としたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から冊封を許された。
- 伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争ったが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収された。伽耶諸国の呼称については、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅あるいは任那と表記されることが多く、広開土王碑文には「任那加羅」という並列表記も見られる。日本の学界ではかつては任那という呼称が支配的であったが、1980年代後半からは「伽耶諸国」と呼ばれることが一般的となっている[24]。
- 伽耶諸国の地域(半島南部)は史書[25]や碑文[26]の記録から日本(ヤマト王権)の強い影響力があったことは有力視されているが、その影響力の範囲を巡って多くの説が存在する。宋書倭国伝では478年、倭王武が宋の順帝に上表文を奏上し「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任命されたと記されており、倭が六国の諸軍事に少なくとも影響力を行使している状況を認めている。詳細は伽耶・任那を参照。[27]
- 于山国は6世紀初めに新羅に服属した。
5世紀後半から6世紀半ばに、日本のものと同じ前方後円墳が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。全羅南道では、日本にしかない原石からつくられた勾玉をつけた装飾品が出土している。また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している[28]。
統一新羅時代、或いは南北国時代
詳細は「南北国時代」を参照
新羅による三国統一後、ほぼ同時期に渤海が旧高句麗の支配地域に建国され、両者は渤海が滅亡するまで並立していた。ただし、渤海を朝鮮の歴史の一部とみなすべきか否かについては賛否両論があり、渤海を朝鮮史の一部とする1975年以降の韓国では統一新羅・渤海並立時代を「南北国時代」と称しているが[29]、渤海を朝鮮史へ組み込むことに否定的な日本・中国などでは「統一新羅時代(中国語版記事)」と称される。
後三国時代
詳細は「後三国時代」を参照
新羅・後高句麗・後百済の三国が並立。最終的に後高句麗を継承した高麗によって統一された(936年)。
中世の朝鮮半島
高麗
詳細は「高麗」を参照
- 918年王建が高麗を建国。
- 933年後唐の冊封を受ける。
- 935年新羅の敬順王、高麗に国を譲渡し、滅亡。
- 936年後百済を滅ぼし朝鮮半島統一。
- 976年田柴科制の創設。
- 1010年契丹の侵入を撃退。
- 1018年契丹の再侵入。姜邯賛の活躍により契丹軍を殲滅(亀州大捷)。
- 1033年千里長城の建設開始。
- 1126年李資謙の乱(ko:이자겸)。金に服属。
- 1135年妙清の乱(ko:묘청)。
- 1170年庚寅の乱。以後武人政権が続く。
- 1196年崔忠献によるクーデター。崔氏政権の始まり。
- 1232年モンゴル帝国の侵略始まる(→モンゴルの高麗侵攻)。
- 1259年高麗の太子(のちの元宗王)がフビライに降り、モンゴル帝国(元)の属国化。
- 1260年忠烈王は、大ハーンに即位したフビライの娘婿となる。これ以来、代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)はモンゴル貴族や時には皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後、高麗王に任命されるのが習慣となる。4代の高麗王は元皇族の娘婿となる。
- 1270年-1273年武人派の軍隊三別抄のモンゴルに対する反乱。日本に対し軍事的援助を要請。
- 1274年・1281年忠烈王の要請に応えた元の協力を得ての2度の日本侵攻(元寇文永の役、弘安の役)への侵略出兵により、逆に甚大な被害を受ける[31][32]。
- 1289年元の征東行省が常設され、元朝の領土化。
- 1350年この頃より倭寇に悩まされるようになる(「前期倭寇」〜15世紀前半)。
- 1351年恭愍王即位(〜1374年)。
- 1354年恭愍王による反元運動が始まる。
- 1356年元軍が高麗から撤退(双城総管府を回復)。
- 1365年辛旽による改革政治(〜71)。
- 1374年恭愍王が暗殺される。禑王が即位(〜88)。
- 1388年親明派の武将李成桂(女真族ともいわれる[13])がクーデターを起こし実権者になる(威化島回軍)。
- 1391年科田法の制定。
- 1392年鄭夢周が暗殺される。
- 征東等処行中書省(征東行省)
- 東寧府
- 双城総管府
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[転載]古代からの歴史にみる日本列島と朝鮮半島
朝鮮の歴史
朝鮮の歴史 | ||||||||||
考古学 | 櫛目文土器時代8000 BC-1500 BC 無文土器時代1500 BC-300 AD | |||||||||
伝説 | 檀君朝鮮 | |||||||||
史前 | 箕子朝鮮 | |||||||||
燕 | ||||||||||
辰国 | 衛氏朝鮮 | |||||||||
原三国 | 辰韓 | 弁韓 | 漢四郡 | |||||||
馬韓 | 帯方郡 | 楽浪郡 | 濊 貊 | 沃 沮 | ||||||
三国 | 伽耶 42- 562 | 百済 346-660 | 高句麗 前37-668 | |||||||
新羅 356- | ||||||||||
南北国 | 唐熊津・安東都護府 | |||||||||
統一新羅 鶏林州都督府 676-892 | 安東 都護府 668-756 | 渤海 698 -926 | ||||||||
後三国 | 新羅 -935 | 後 百済 892 -936 | 後高句麗 901 -918 | 遼 | 女真 | |||||
統一 王朝 | 高麗918- | 金 | ||||||||
元遼陽行省 (東寧・双城・耽羅) | ||||||||||
元朝 | ||||||||||
高麗1356-1392 | ||||||||||
李氏朝鮮1392-1897 | ||||||||||
大韓帝国1897-1910 | ||||||||||
近代 | 日本統治1910-1945 | |||||||||
現代 | 連合軍軍政期1945-1948 | |||||||||
大韓民国 1948- | 朝鮮民主主義 人民共和国 1948- | |||||||||
Portal:朝鮮 |
古代からの歴史にみる日本列島と朝鮮半島 1/2
概説
朝鮮半島では、石器などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、現在の朝鮮民族との繋がりは明らかでない。約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで東シナ海の大部分は陸地であり、日本列島と陸続きだったが海面上昇により切り離され、紀元前4000年ころまで海進は進んだ。
紀元前4000年頃に櫛目文土器が出現する。櫛目文土器はウラル系民族、とりわけフィン・ウゴル系民族と関連しており、最古のものが遼河地域の興隆窪文化(紀元前6200年-紀元前5400年)の遺跡で発見されている[1]ことから、遼河文明の担い手であるウラル系民族が朝鮮に櫛目文土器をもたらしたことが考えられる。よって朝鮮民族の基層はウラル系民族の可能性がある。
紀元前4000年頃から南部・西部で陸での稲作が始まったとする意見もあるが、証拠となる物は見つかっていない。
朝鮮半島において学術的な検証が可能となる最初の国家は箕子朝鮮、ある程度実情が分かるのは衛氏朝鮮からである。箕子朝鮮が興った明確な時期は解らないが、史記等の記述や考古調査から前12世紀に殷王朝王族の箕子が朝鮮の地を治め始め、後に周王朝が侯国に封じたとする[2]。衛氏朝鮮は前194年に燕出身の将軍であった衛満が箕子朝鮮の王・準王を追い出して建国した[3]。衛氏朝鮮は三代衛右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡として400年間直轄支配(植民地ともいわれる[4])されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った。
4世紀中頃に、満州の鴨緑江付近で興った高句麗が南下して楽浪郡北部を征服、百済も楽浪郡や帯方郡の多くの部分を征服するが、4世紀末までに百済は高句麗により朝鮮半島半島北部から駆逐され、朝鮮半島北部は高句麗によって征服された。
高句麗は4世紀の広開土王の代に、仏教を篤信するとともに、南に領土を拡大し最盛期を迎える。その領土は満州南部から朝鮮半島北部にわたった。なお、高句麗を中国の地方政権とするか、朝鮮の歴史に含めるかについては議論がある(高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題)。
百済は371年、漢山城(今のソウル松坡区)を都としていたが、高句麗の攻撃により落城し、扶余に遷都した。また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、大和朝廷に従属し、儒教や仏教を大和朝廷へ伝えた。南端部には倭国の影響下にあって[6](旧説では「支配下」にあったとする[7])諸小国の雑居する任那加羅があった。
倭国が大陸での支配力を失うと伽耶は特定の国(金官伽耶・高霊伽耶など)が主導する形になったが、倭国への朝貢は途絶えることなく行われていた[8][9]後に諸国は西側が百済に併合され東部も新羅により滅ぼされた。高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。
一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。
しかしながら、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避けるとき、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」などと、秦や六国からの居住者が建国したように、中国人や北方異民族の移住があり、新羅自身も『三国史記』によると4代目の王が倭国北東[10]から渡来した王であったり、『三国志東夷伝』によると馬韓(百済の前身)より辰韓(新羅の前身)へ代々王を遣わしていた記述があるなど、朝鮮民族としての意識の形成がいつ頃から生じたものか不明瞭である。新羅の後に興った高麗が高句麗継承を主張し、『三国史記』や『三国遺事』を編纂したことからすると、朝鮮民族としての民族意識の萌芽は高麗の時期に形成された可能性が高い。
7世紀に新羅は唐が高句麗、百済を相次いで滅ぼす戦いに参戦した。その後、新羅は唐を突如裏切って唐の行政府に駐留する部隊を殲滅する反乱を起こすと、朝鮮半島の大部分を統一した[11]。しかし唐・新羅戦争に敗北して、自らを大唐国新羅郡と名乗った。高句麗の故地にはツングース系の韃靼族とされる[12]大祚栄が渤海を建国した[9]が渤海を朝鮮の歴史で扱うか否かについては議論がある(東北工程参照)。10世紀に新羅は地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして南北にわたる初の統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。
高麗は13世紀にモンゴル帝国(元)の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、14世紀に元が北へ逃げると親明を掲げる女真族ともいわれる[13]李成桂が建国した李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。李氏朝鮮の全盛期には、女真族に対する侵略がたびたび行われた。遂には当時半島北部に勢力を持っていた建州女真の大酋李満住が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入った。
朝鮮は15世紀4代国王、世宗の時、黄金期を迎える。世宗は訓民正音(ハングル:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、女真との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。蒋英実などを重用し、天文観測機構の設置や、機器(渾天儀、簡儀)の製作、時間を表す仰釜日晷、自撃漏などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。
16世紀に豊臣秀吉の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と李舜臣の活躍と秀吉の死去により国土を回復した。17世紀には女真族が建てた清の侵攻を受け、衆寡敵せず大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。
1776年に22代国王の正祖が即位する。正祖は即位初期には洪国栄などを重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は老論という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、蕩平策を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、正祖の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、水原華城(世界遺産)の設計や建築に関わった丁若や朴斉家、洪大容、柳得恭などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、北学派や実学派を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、1800年、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。[14]
19世紀末から欧米列強が来訪、開国を要求、そして日本、清、ロシアが朝鮮半島の権益をめぐって対立、日清戦争後に結ばれた下関条約締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(朝鮮から国号を変更)として独立するも、伊藤博文を安重根が暗殺し、1910年に全土が日本に併合された。第二次世界大戦での日本の敗戦に伴い、連合国軍によって朝鮮半島のほぼ中央を走る北緯38度線を境に南北に分割統治され、その後に各々独立、南に韓国、これに反抗する済州島は済州島四・三事件で鎮圧がなされ、北には北朝鮮が建国された。1950年に北側から赤化統一を目指して朝鮮戦争が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立しており、南北統一を如何に果たすかが両国間の課題となっている。
なお、李氏朝鮮末期から日本統治期、米ソ占領期、朝鮮戦争とその後の混乱期にかけて、様々な理由で清(中国)、ロシア(後にソ連)、日本など朝鮮半島外に相当数の人々が移住していき、在外韓国朝鮮社会が形成されていった。
先史時代・古朝鮮時代
先史時代
考古学的な実証ある事項はここに記す。また、考古学的知見は新事実の発見や分析の発展で変遷することがある。
詳細は「朝鮮の先史時代」を参照
- 旧石器時代「ko:한국의 구석기 시대」も参照
- 新石器時代(櫛目文土器時代/侯目文土器) BC4000年(もしくは5000年) - BC1000年
- 無文土器時代(BC1000年頃 - BC100年)
古朝鮮時代
考古学的考証のない事項はここに記す。
- 大同江文化
- 北朝鮮では、5000年前に平壌を中心とした大同江流域で、エジプト、メソポタミア、インダス、黄河の世界四大文明に匹敵する「大同江文化」が栄えたとし、世界最初の古代文明は古代朝鮮を加えた「世界五大文明」だとしている。
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南京総攻撃の時に南京市民を殺したのは、蒋介石の中国軍で、日本は南京市民を助けました
南京総攻撃
- 12月9日(木曜)
日本軍は江南を席巻した。南京城はすでに包囲された。今後の交戦は百害あって一利なし。江寧の地は旧都にして中華民国の首都である。明の孝陵、中山陵など古跡名所が多くあり東亜文化の精髄の感がある。
日本軍は抵抗する者に対しては寛恕しないが、無辜の民衆および敵意なき中国軍隊に対しては寛大をもってこれを冒さない。
文化財は保護する熱意がある。
しかし、交戦を継続すれば、南京は戦禍を免れず、千載の文化は灰に帰す。
貴軍に勧告する。南京城を平和裡に開放せよ。回答は10日正午中山路句容道上の歩哨線で受領する。— 投降勧告(原文中国語、現代日本語による抄訳)、大日本陸軍総司令官 松井石根
もし貴軍が責任者を派遣するときは、必要の協定をむすぶ。
回答がない場合は、日本軍はやむをえず南京城攻略を開始する。
- 午後、中国軍は南京市内の銃撃の邪魔になるものや日本軍に役立つ物を取り除くために放火し、北西以外の方角から煙がのぼった(ヴォートリン日記)[89]。マクダニエル特派員は中国兵が灯油を家にかけて火をつけている所を目撃した[89]。焼け出された人が城内に避難した[89]。ダーディン記者は、中国軍は防衛作業として城内の建物の全面的焼却作戦を開始し、南門近くの住民を安全区に追い立て、地区がまるごと燃やされ、同様に下関駅近くの新村も焼却され、湯山の軍事施設、政府高官の宏壮な邸宅も放火されたと報道した[87]。南京は北部と東部が火に囲まれた[90]。
- 夜、淳化鎮の日本軍は、スパイから守備兵交代があると教えられた大校場軍事飛行場(光華門側)を襲撃し占領したが、中国軍が反撃、便衣兵が大校場の兵舎に放火し、炎の中で猛反撃に遭った[25]。
- アメリカ大使館のアチソンらは下関からボートに乗り、アメリカ砲艦パナイ号に乗船した[25]。
- 12月10日(金曜)
- 12月11日
- 12月12日(日曜)
- 早朝、敵の大型船5隻が揚子江を上流に逃走中との報告を受け野戦重砲13聯隊が射撃したが、英砲艦レディーバード号が含まれていた(レディバード号事件)[82]。3隻は中国軍、避難民を満載したといわれる[82]。
- 中国軍によって、紫金山、南京対岸の浦口の長江岸全体が放火され、埠頭や倉庫も含め燃え、下関の半分も燃えた[95]。
- 午前7時、井上軽装甲車隊と独立軽装甲車第二中隊は右の雨花台の中国軍を攻撃、さらに独立軽装甲車第二中隊は中華門外の元部隊本部とみられる集落でガソリン200缶を鹵獲し、本道左方の中国軍400〜500を機関銃で射撃した[82]。同隊は夕刻、500メートル退却して夜をてっした[82]。
- 12時20分、第10軍の第6師団歩兵47聯隊は中華門西の一部を占領[82]。日本軍が西門近くの城壁を登り始めると、中国軍第88師団の新兵が逃亡を開始し、中国軍の瓦解が始まり、夕方までには大方の部隊が下関門に向かった[87]。中国兵は軍服を脱ぎ、平服に着替えた[87]。それを目撃したダーディン記者は「それは滑稽ともいえる光景であった。隊形を整えて下関に向かい行進している最中、多くの兵隊が軍服を脱いでいた。あるものは露地に飛び込み、一般市民に変装した。なかには素っ裸の兵隊がいて、市民の衣服をはぎ取っていた。」と報じた[87]。
- 正午過ぎ、日本海軍第十二航空隊と第十三航空隊が揚子江上の合衆国艦隊パナイを誤爆したパナイ号事件が起きる[96]。反日世論が起きる騒動になったが、12月26日に事態収拾した。アメリカでは真珠湾攻撃の序曲とみなされることもある[97]
- 13師団山田支隊は鎮江を出発し、揚子江を移動[82]。
- 第9師団右翼隊(7i,35i)は中山門東南城壁に近迫し、200メートルの水濠の渡河準備を行った[82]。
- 114師団は将軍山方面より周家凸、雨花台の線に進出し、一部は城壁に突入、師団主力は雨花台、周家凸の線以南に集結[79]。
- 18時、16師団は488高地を占領し、紫禁山を占領。日本軍は城壁を突破し南京城内に進入した[21]。
- 唐将軍の逃亡と挹江門事件
- 20時、唐生智は全軍に各隊に包囲の突破を指令する[21]とともに、自分は長江左岸にポートで逃走した[25]。この逃走計画は参謀本部の将校にさえも知らされていなかった[25]。中国軍は渡河撤退を一切考えていないと公言していたし、河にはわずかなジャンク船とランチしかなかった[25]。揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて安全区(難民区)に逃れた[72][98]。
- また、唐司令官は陣地死守を命じ揚子江の無断渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討ちが始まった[72]。
- この時点で唐将軍は渡河して逃亡していた。北部の長江へつながる挹江門には督戦隊が置かれて撤退する中国軍と同士撃ちとなった (挹江門事件)。[99]。ミニー・ヴォートリンによれば、中国軍の統制が取れなくなり城内殆どの場所で掠奪が行われており、中国軍が城壁外側のすべての家屋と城内の家屋も焼き払った事は酷い過ちだ。被害者は中国の貧しい人々であり、なぜ南京を破壊せず引渡さなかったのだろうかと日記に綴った[100]。
- ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は将軍だけが逃亡し、その他の将兵らが「ねずみとりの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らをとらえて木っ端微塵にするような状況にすすんで置かれることを選んだ」と翌年に報じた[25]。
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1937年 12月 南京陥落後に日本軍は南京市民を救護しました
南京陥落
- 12月13日
- 午前3時10分、紫禁山から向かった16師団歩兵33聯隊は中山門を占領[79]。同隊中隊長は全員戦死した[79]。午前8時30分、16師団戦車第一大隊は中山門に到着した[79]。13師団山田支隊は烏龍山砲台を占領[82]。
- 揚子江を渡ってきた国崎支隊は南京の対岸浦口を占領し、敵の退路を遮断した[82]。
- 午前9時頃[101]、南京城内の新路口5番の民家に賊が押し入り、生存者で当時7〜8歳の夏淑琴の祖父、祖母、五女(0歳)を殺害し、夏夫人(母)と長女(16歳)次女(14歳)を強姦後に殺害した新路口事件が発生した。ジョン・マギーはこの賊を日本兵として東京裁判で供述した。
- 夕方、南京城が陥落し、日本軍が占領した[21][5]。ダーディン記者は「最初の日本軍の一縦隊が南門から入り、市のロータリー広場に通ずる中山路を行軍しはじめると、中国人は包囲攻撃が終わった安堵感と、日本軍は平和と秩序を回復してくれるはずだという大きな期待から、一般市民が数人ずつかたまって、大きな歓声をあげた」と報じた[87]。
- 独立軽装甲車第二中隊は雨花台北麓の兵工廟でドック内の中国人遺体400〜500を発見し、同隊本部曹長藤田清は中国軍が退却の際の処理かと推定した[82]。藤田は雨花台付近で婦女子や非戦闘員の遺体は目撃しなかった[82]。
- 中国敗残兵は外国人に身を任せてきて、ダーディン記者に何十挺もの銃を押しつけた[87]。日本軍は捕虜政策を実施せず、第16師団中島今朝吾師団長の12月13日の日記が捕虜殺害の証拠として論じられることもある[5]が、東中野修道は異論を唱えている[102](南京事件論争)。中国共産党の毛沢東は延安で南京陥落を聞いて大喜びし、祝杯をあげたという[103]。
- 午後7時、2~300の中国軍が、上海派遣軍独立攻城重砲兵第2大隊を襲撃するが、撃退される[104]
- ロイター通信のスミス記者によれば、13日夜、中国敗残兵や中国人市民が食料品店から掠奪をした[105]。また中華門付近での戦闘では中国の戦死者は1000人以上となった[105]。
掃討戦
- 12月14日
- 午前4時、第13師団山田旅団(山田栴二隊)は幕府山に向かい、先遣隊が午前8時占領、山田旅団は捕虜14,777を上元門外の学校に収容[106])。
- 南京城内の敗残兵掃蕩を開始(-16日)[107][108]。掃蕩にあたっては(1)外国権益への留意(2)住民に対する配慮 (3)失火放火に厳重注意とされ、犯せば厳罰と通達された(4)将校の指揮する掃蕩隊でなければ認められず、下士官の指揮では認めない(5)無用の部隊の侵入は認めない(富山と金沢部隊が実行している)(6)掃蕩を終えて帰還する時刻を定めた(7)捕虜は一箇所に集め、その食料は師団に請求することが命令され、通訳をつけて問題を起さないように注意もあったという[108]。主にこの日以降、捕虜、敗残兵の数千人単位の殺害が何か所も殺害が行われたが、一部民間人の殺害・暴行も含めて、その中には戦時国際法違反の疑いもあるとして戦後追求された(南京事件(南京大虐殺))[109]。
- 昼になってもまだ抵抗を続ける中国部隊があった、彼らは日本軍に包囲されている現状も知らずに戦っていた[87]。
- 午後2時頃堯化門において約7000〜7200名の中国兵が降伏してきたため、午後6時に歩兵第38連隊一中隊護衛をつけ仙鶴門鎮北側に集め、17,8日頃、中央刑務所(第一監獄所)に護送した[104][110][111]。
- A・T・スティール記者がシカゴ・デイリー・ニューズで”NANKING MASSACRE STORY”(南京大虐殺物語)を報道[112]
- ロイター通信のスミス記者によれば、14日朝までに日本軍は市民に危害を加えなかったが、14日昼になると6〜10人で徒党を組んだ日本兵が「連隊徽章を外して」、民家を見境なく「組織的に、徹底的に掠奪し」、15日までに中国人と欧米人の民家からは家財道具や壁掛け時計が掠奪されたとスミスはいう[105]。
- 東京では40万人が南京攻略祝賀の提灯行列を行った[5]
- 15日
- 第13師団山田支隊が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜とし、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容したところ、夜に半数が逃亡した(戦史叢書[113])とするが、山田栴二日記では捕虜の仕末について本間騎兵少尉を南京に派遣すると「皆殺せとのことなり」とある(これに関する論争は幕府山事件(山田支隊の捕虜処断))[106]。
- ジョン・ラーベは、日本軍が安全区に隠れていた中国兵1300人を捕えたので、射殺されると予想し、スマイスと日本大使館補福田篤泰に救援を依頼した[114]。またラーベは、中国軍が済南で日本人捕虜2000人を射殺したとも日記に書いた[114]。
- ダーディン記者は、交通部近くの防空壕に潜む100人以上の中国部隊に戦車砲で発砲がなされるのを見たり、整壕での10人ほどの兵隊の銃殺など、3つの集団処刑を目撃した[87]。
- 日本軍がすでに占領統治を開始した北京にある天安⾨広場には5万人の北京市民が集まり、日の丸 と五⾊旗を振って南京陥落を祝っている[115]姿が写真に残っているが、その前日に北京では、日本の傀儡政権である中華民国臨時政府 (北京)が設立していた[116]。
- 16日
- 日本軍司令部は、軍服を捨て武器を隠し平服を着た中国兵25,000人が市内にいると発表[117]。
- 17日
日本占領下の南京
- 12月21日
- 各兵団は城内から退出[124]
- 12月22日
- 第16師団歩兵第30旅団が警備を担当[124]。
- 12月23日
- 陶錫山委員長の下、南京自治委員会が設立され、治安はかなり回復した[125][126]。(写真)
兵民分離査問工作
- 12月24日
- 第16師団憲兵隊と南京安全区国際委員会が合同し南京難民区の兵民分離査問工作が開始された(翌年1月5日に終了)[127]。
- 難民所の金陵大学テニスコートから200〜300人が五台山と漢西門外に連れ出され殺害された[128][5]。
- 午前10時、ミニー・ヴォートリンに日本将校が娼婦100人を募集することを要請し、慰安所(regular licensed place)設置の理解を求めた[129](宋維木は設置されたとする[5])。
- 12月28日
- 28日までに安全区の外国大使館に隠れていた中国軍将校23名、下士官54名、兵1498名が摘発された(日本憲兵隊報告[130][131])。中国軍指揮官Wang Hsianglao(王信労)は民間人を装い、国際避難民の第4地区を指揮していた。88師副師長Ma Poushang(馬跑香)中将は安全区内で反日攪乱行為の活動を続け、ほか小銃17挺とHuan An(黄安)大尉も発見された[130]。この中国軍将兵は、掠奪、脅迫、レイプを繰り返していたと報告された[130]。さらに大使館に隣接する防空壕からは、チェコ式機関銃21挺(弾丸60発)、機関銃3挺、水冷式重機関銃10挺(弾丸3,000発)、小銃50挺(弾丸42,000)、手榴弾7,000個、小型野砲1台(重迫撃砲弾2,000個、砲弾500個)など兵器が発見された[130]。
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[転載]改訂:日中友好を日本国民は切望している
あちらと、こちらに相反する情報を
もたらす事から離間の計は始まる。
互いに争えば、それを仕掛けた第三者が
漁夫の利を得るのだ。
日中を離間させようとしているのは
米国でありその手先の江沢民派閥であり
北朝鮮済州島人脈である。
追記、
その中核は欧米ユダヤ金融資本である。
(新華社通信の原爆に対する記事を追加)
「背景資料:米国は何故、日本に原子爆弾を投下したのか」
新華網日本語 2015-08-07 16:29:12
http://jp.xinhuanet.com/2015-08/07/c_134492304.htm
【新華社北京8月7日】日本は毎年8月に大規模な記念行事を開催し、第二次世界大戦の「被害者」としての日本のイメージを映し出しているが、日本が原子爆弾の攻撃に遭った歴史的背景を提起する場面は少ない。事実上、日本こそが正真正銘の戦争加害国であり、好戦的な日本軍国主義こそが日本が原子爆弾の爆撃を受けた真の意味での災いの元凶と言える。
1945年7月26日、米国、英国と中国の3カ国は『ポツダム宣言』を発表し、日本に速やかに無条件降伏するように勧告したが、日本政府は取り合わなかった。
同盟軍が太平洋戦場で次々と勝利し、ソ連が『日ソ中立条約』を一方的に廃止するにつれて,日本のファシズムは失敗に終わる運命を回避できなくなった。しかし、日本は国を挙げて上層から下層までが頑強に抵抗する決意を示し、時機が到来して情勢が逆転し、転機を勝ち取るという幻想を抱き続けた。日本の軍隊は共倒れの激闘を繰り広げる決戦計画さえも策定し、本土防御部隊を懸命に増員した。
同盟軍の当時の作戦計画によると、日本に投降を迫るためには、戦争が1946年末まで続く可能性があった。日本本土に進攻した場合は、約2,000万人の軍人と民間人が死亡し、このうち同盟軍50万人も含まれると推計された。
1945年7月16日、1発目の原子爆弾の爆発実験に成功した。同盟国はこの殺傷力が極めて強力な兵器の悪影響と使用者が負うべき責任について把握していた。しかし、旧日本軍はフィリピンでのマニラ大虐殺、「バターン死の行進」、中国での南京大虐殺、米国での真珠湾攻撃など、その残酷さと野蛮さは同盟国を憤慨させるには十分だった。同盟軍は日本軍国主義の好戦的な本質について、甚大な代償を払わせることなく、致命的な脅威を与えることなしに、日本が武器を捨てることは絶対にないため、アジア各国の民衆が払う代償がより悲惨かつ重くなることは間違いないと判断した。
原子爆弾の作用は巨大で、原爆投下が日本の投降を早めた。1945年8月15日、日本は無条件降伏を宣言し、9月2日に降伏文書に署名した。第二次世界大戦はこれにより終結した。
「ベルギーのメディア、日本が「再軍事化」のプロセスを推進しつつあると伝える」
新華網日本語 2015-08-08 06:24:35
http://jp.xinhuanet.com/2015-08/08/c_134492165.htm
【新華社ブリュッセル8月8日】ベルギーの主流メディアである『Le Soir』は5日、評論員の文章を掲載し、広島の原爆投下から70年後に、日本は自衛隊の「再軍事化」のプロセスを推進しつつあると伝えた。
文章は、真の軍隊を設立するために、日本はここ数年で軍事予算を絶えず増加させ、また軍備能力を向上させている。2012年と2013年の日本の軍事支出はそれぞれ世界5位と8位で、フランスとイギリスおよびドイツに相当するレベルにあると指摘する。
文章は、広島の原爆投下並びに日本の敗戦降伏から70年後に、日本の国会は自衛隊の「再軍事化」の推進を趣旨とする一連の法案のために投票を行っている。これらの法案の成立において、日本を軍事大国にさせるために、安倍政権は日本の戦後の平和憲法に対して「再解釈」することを望んでいると伝えている。
また日本メディアの報道によると、日本政府は今年の年末に2016年度の予算案の編成を計画しており、その中の防衛予算が初めて5兆円(約 2490億人民元)を突破する可能性があるという。
侵略戦争を発動した日本にできるだけ早い降伏を促すため、米軍は1945年8月6日と9日にそれぞれ日本の広島市と長崎市に原爆を投下した。同年8月15日、日本は降伏を宣言した。
「ダグラス・マッカーサー司令官の告白 1951年5月3日『自虐史観を持つべきは、日本ではなくアメリカ』」
2014/03/14 00:41
http://mizu888.at.webry.info/201403/article_44.html?pc=on
「マッカーサーの告白」
日本の皆さん、先の大戦はアメリカが悪かったのです。日本は何も悪くありません。日本は自衛戦争をしたのです。
イギリスのチャーチルに頼まれて、対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込んだのです。アメリカは日本を戦争に誘い込むためにイジメにイジメぬきました。そして最後通牒としてハルノートを突き付けました。...
中国大陸から出て行けだの、石油を輸入させないなど、アメリカに何の権利があったというのでしょう。当時、アジアのほとんどの国が白人の植民地でした。白人はよくて日本人は許さなかったのです。ハルノートのことは、私もアメリカの国民も知りませんでした。
あんな物を突き付けられたら、どんな小さな国でも戦争に立ち上がるでしょう。戦争になれば圧倒的な武力でアメリカが勝つことは戦う前から分かっていました。我々は戦後、日本が二度と白人支配の脅威とならないよう周到な計画を建てました。アメリカは知っていたのです。国を弱体化する一番の方法はその国から自信と誇りを奪い、歴史を捏造することだと。
戦後アメリカはそれを忠実に実行していきました。日本がアジアを白人の植民地から解放しようとしたという本当の理由を隠すため大東亜戦争という名称を禁止し代わりに太平洋戦争という名称を使わせました。
東京裁判はお芝居だったのです。アメリカが作った憲法を日本に押し付け、戦争ができない国にしました。公職追放をしてまともな日本人を追い払い、代わりに反日的な左翼分子を大学など要職にばら撒きました。
その教え子たちが今マスコミ・政界などで反日活動をしているのです。
徹底的に検閲を行い、アメリカにとって都合の悪い情報は日本国民に知らせないようにしました。ラジオ・テレビを使って戦前の日本は悪い国だった、戦争に負けて良かったのだと日本国民を騙しました。これらの政策が功を奏し今に至るまで独立国として自立できない状態が続いているのです。
私は反省しています。自虐史観を持つべきは、日本ではなくアメリカなのです。戦争終結に不必要な原子爆弾を二つも使って何十万人という民間人を虐殺しました。最後に私が生きていた時の証言を記して謝罪の言葉としたいと思います。
「私は日本について誤解をしていました。日本の戦争の目的は侵略ではなく自衛のためだったのです。太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の過ちは、共産主義を中国において強大にさせたことでした。東京裁判は誤りだったのです。
日本は八千万人に近い膨大な人口を抱え、その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接した何れにも劣らぬ優秀なものです。
歴史上のどの時点においてか、日本の労働力は人間が怠けているときよりも働き、生産している時の方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでよいようなものを発見していたのです。
これまで巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だという事を意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らには手を加えるべき材料を得ることができませんでした。
日本原産の動植物は、蚕を除いてほとんどないも同然でした。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない。錫がない、ゴムがない、他にもないものばかりでした。その全てがアジアの海域に存在したのです。
もしこれらの原料の供給を絶ちきられたら一千万から一千二百万の失業者が日本に発生するであろうことを彼らは恐れたのです。
したがって日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が自衛の必要に迫られてのことだったのです」
アメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会にて
1951年5月3日
ダグラス・マッカーサー
(ソース)
http://www.sdh-fact.com/CL02_1/82_S4.pdf
もたらす事から離間の計は始まる。
互いに争えば、それを仕掛けた第三者が
漁夫の利を得るのだ。
日中を離間させようとしているのは
米国でありその手先の江沢民派閥であり
北朝鮮済州島人脈である。
追記、
その中核は欧米ユダヤ金融資本である。
(新華社通信の原爆に対する記事を追加)
「背景資料:米国は何故、日本に原子爆弾を投下したのか」
新華網日本語 2015-08-07 16:29:12
http://jp.xinhuanet.com/2015-08/07/c_134492304.htm
【新華社北京8月7日】日本は毎年8月に大規模な記念行事を開催し、第二次世界大戦の「被害者」としての日本のイメージを映し出しているが、日本が原子爆弾の攻撃に遭った歴史的背景を提起する場面は少ない。事実上、日本こそが正真正銘の戦争加害国であり、好戦的な日本軍国主義こそが日本が原子爆弾の爆撃を受けた真の意味での災いの元凶と言える。
1945年7月26日、米国、英国と中国の3カ国は『ポツダム宣言』を発表し、日本に速やかに無条件降伏するように勧告したが、日本政府は取り合わなかった。
同盟軍が太平洋戦場で次々と勝利し、ソ連が『日ソ中立条約』を一方的に廃止するにつれて,日本のファシズムは失敗に終わる運命を回避できなくなった。しかし、日本は国を挙げて上層から下層までが頑強に抵抗する決意を示し、時機が到来して情勢が逆転し、転機を勝ち取るという幻想を抱き続けた。日本の軍隊は共倒れの激闘を繰り広げる決戦計画さえも策定し、本土防御部隊を懸命に増員した。
同盟軍の当時の作戦計画によると、日本に投降を迫るためには、戦争が1946年末まで続く可能性があった。日本本土に進攻した場合は、約2,000万人の軍人と民間人が死亡し、このうち同盟軍50万人も含まれると推計された。
1945年7月16日、1発目の原子爆弾の爆発実験に成功した。同盟国はこの殺傷力が極めて強力な兵器の悪影響と使用者が負うべき責任について把握していた。しかし、旧日本軍はフィリピンでのマニラ大虐殺、「バターン死の行進」、中国での南京大虐殺、米国での真珠湾攻撃など、その残酷さと野蛮さは同盟国を憤慨させるには十分だった。同盟軍は日本軍国主義の好戦的な本質について、甚大な代償を払わせることなく、致命的な脅威を与えることなしに、日本が武器を捨てることは絶対にないため、アジア各国の民衆が払う代償がより悲惨かつ重くなることは間違いないと判断した。
原子爆弾の作用は巨大で、原爆投下が日本の投降を早めた。1945年8月15日、日本は無条件降伏を宣言し、9月2日に降伏文書に署名した。第二次世界大戦はこれにより終結した。
「ベルギーのメディア、日本が「再軍事化」のプロセスを推進しつつあると伝える」
新華網日本語 2015-08-08 06:24:35
http://jp.xinhuanet.com/2015-08/08/c_134492165.htm
【新華社ブリュッセル8月8日】ベルギーの主流メディアである『Le Soir』は5日、評論員の文章を掲載し、広島の原爆投下から70年後に、日本は自衛隊の「再軍事化」のプロセスを推進しつつあると伝えた。
文章は、真の軍隊を設立するために、日本はここ数年で軍事予算を絶えず増加させ、また軍備能力を向上させている。2012年と2013年の日本の軍事支出はそれぞれ世界5位と8位で、フランスとイギリスおよびドイツに相当するレベルにあると指摘する。
文章は、広島の原爆投下並びに日本の敗戦降伏から70年後に、日本の国会は自衛隊の「再軍事化」の推進を趣旨とする一連の法案のために投票を行っている。これらの法案の成立において、日本を軍事大国にさせるために、安倍政権は日本の戦後の平和憲法に対して「再解釈」することを望んでいると伝えている。
また日本メディアの報道によると、日本政府は今年の年末に2016年度の予算案の編成を計画しており、その中の防衛予算が初めて5兆円(約 2490億人民元)を突破する可能性があるという。
侵略戦争を発動した日本にできるだけ早い降伏を促すため、米軍は1945年8月6日と9日にそれぞれ日本の広島市と長崎市に原爆を投下した。同年8月15日、日本は降伏を宣言した。
「ダグラス・マッカーサー司令官の告白 1951年5月3日『自虐史観を持つべきは、日本ではなくアメリカ』」
2014/03/14 00:41
http://mizu888.at.webry.info/201403/article_44.html?pc=on
「マッカーサーの告白」
日本の皆さん、先の大戦はアメリカが悪かったのです。日本は何も悪くありません。日本は自衛戦争をしたのです。
イギリスのチャーチルに頼まれて、対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込んだのです。アメリカは日本を戦争に誘い込むためにイジメにイジメぬきました。そして最後通牒としてハルノートを突き付けました。...
中国大陸から出て行けだの、石油を輸入させないなど、アメリカに何の権利があったというのでしょう。当時、アジアのほとんどの国が白人の植民地でした。白人はよくて日本人は許さなかったのです。ハルノートのことは、私もアメリカの国民も知りませんでした。
あんな物を突き付けられたら、どんな小さな国でも戦争に立ち上がるでしょう。戦争になれば圧倒的な武力でアメリカが勝つことは戦う前から分かっていました。我々は戦後、日本が二度と白人支配の脅威とならないよう周到な計画を建てました。アメリカは知っていたのです。国を弱体化する一番の方法はその国から自信と誇りを奪い、歴史を捏造することだと。
戦後アメリカはそれを忠実に実行していきました。日本がアジアを白人の植民地から解放しようとしたという本当の理由を隠すため大東亜戦争という名称を禁止し代わりに太平洋戦争という名称を使わせました。
東京裁判はお芝居だったのです。アメリカが作った憲法を日本に押し付け、戦争ができない国にしました。公職追放をしてまともな日本人を追い払い、代わりに反日的な左翼分子を大学など要職にばら撒きました。
その教え子たちが今マスコミ・政界などで反日活動をしているのです。
徹底的に検閲を行い、アメリカにとって都合の悪い情報は日本国民に知らせないようにしました。ラジオ・テレビを使って戦前の日本は悪い国だった、戦争に負けて良かったのだと日本国民を騙しました。これらの政策が功を奏し今に至るまで独立国として自立できない状態が続いているのです。
私は反省しています。自虐史観を持つべきは、日本ではなくアメリカなのです。戦争終結に不必要な原子爆弾を二つも使って何十万人という民間人を虐殺しました。最後に私が生きていた時の証言を記して謝罪の言葉としたいと思います。
「私は日本について誤解をしていました。日本の戦争の目的は侵略ではなく自衛のためだったのです。太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の過ちは、共産主義を中国において強大にさせたことでした。東京裁判は誤りだったのです。
日本は八千万人に近い膨大な人口を抱え、その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接した何れにも劣らぬ優秀なものです。
歴史上のどの時点においてか、日本の労働力は人間が怠けているときよりも働き、生産している時の方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでよいようなものを発見していたのです。
これまで巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だという事を意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らには手を加えるべき材料を得ることができませんでした。
日本原産の動植物は、蚕を除いてほとんどないも同然でした。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない。錫がない、ゴムがない、他にもないものばかりでした。その全てがアジアの海域に存在したのです。
もしこれらの原料の供給を絶ちきられたら一千万から一千二百万の失業者が日本に発生するであろうことを彼らは恐れたのです。
したがって日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が自衛の必要に迫られてのことだったのです」
アメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会にて
1951年5月3日
ダグラス・マッカーサー
(ソース)
http://www.sdh-fact.com/CL02_1/82_S4.pdf
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[転載]責任なし41 南京、虐殺話の製作・Yahoo!掲示板でrekisisiranai さんが語った真実の歴史●南京虐殺の話のまとめ
南京事件、虐殺話の製作
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071128-00000029-scn-cn
南京事件記念館リニューアル、生々しいブロンズ像
11月28日16時50分配信 サーチナ・中国情報局
拡張工事を経て、12月13日にリニューアルオープンする南京大虐殺犠牲同胞記念館では、新館南側の広場に事件当時の南京の様子を生々しく表現したとされるブロンズ像を設置する作業が始まった。中国新聞社が伝えた。
―――――
Yahoo!掲示板
投稿者 :
rekisisiranai
日本の戦争責任
責任なし41 南京、虐殺話の製作
これは「責任なし40大虐殺は中国の伝統」の続きです。
中国は南京に大量の便衣兵を残して攪乱戦術に出ました。
その結果ラーベ達外国人は日本軍を統制の取れない野獣の集団と見ました。
一方、日本軍は攪乱の元凶便衣兵を摘発し処刑しようとするのですが、それは外国人から見て市民を殺す残虐行為にしか見えません。だからよけいに非難しました。
中国は、これを大いに利用しました。ティンパーレやベイツ教授などを金で雇って日本軍の残虐行為を書かせ、世界に宣伝してもらったのです。
‐‐‐‐
その材料は、
一、13日の戦闘で出た大量の戦死者や投降兵の処刑
二、第13師団が、大量の捕虜をこっそり揚子江の対岸に逃がそうとして失敗し、殺してしまった件
三、潜伏便衣兵の摘発と処刑
四、ラーベ達外国人への駆け込み報告(大部分は便衣隊の犯行と思われる)
五、日本人兵士が吹いた残虐武勇伝や毎日新聞に掲載された“百人斬り”などのホラ話
六、国中から募集した、日本軍の残虐行為に見える写真(その殆どは偽物、その内訳は次の通り)
1、中国軍がやった残虐行為を日本軍にすりかえた物。
2、遥か昔から売られている残酷写真に日本軍がやったと説明をつけた物。
3、農作業の行き帰りを護衛している写真に、日本軍が強制連行していると説明をつけた物。
4、負傷して足を失った中国兵を看護している衛生所の写真に、逃げられない様に足を切ったと説明をつけた物。
5、ポルノ写真に日本兵の性犯罪の様な説明をつけた物。
6、スタジオで撮影したもの。特に打ち首の写真など。
その他利用できる物は何でも利用しました。
‐‐‐‐
ここで、中身を検討しますと
一は本来、戦闘ですから、虐殺に入れるのは筋違いです。
二は虐殺と言うより事故でしょう。
三はグレーゾーンです。ここでは間違われて処刑された民間人もあるでしょう。
しかしながら、ここで、日本を非難するのは筋違いです。
元々は、中国が便衣隊戦法という《民間人巻き添え戦法》をとった事に原因があるのです。
意図的に民間人に犠牲が出るようにしているのですから。非は中国にあります。
四は基本的に便衣隊の仕業でしょう。
五、百人斬りのホラ話の証明
向井少尉は砲兵隊所属です。砲兵は大砲を引っ張って移動するもの。
先頭を行ってる歩兵でもないのにどうやって人斬り競争が出来るのでしょうか。その間に敵の砲撃を受けたらどうします。
しかも彼は12月2日に迫撃砲弾で脚及び右手を負傷し、後続の看護班に収容されて、15日まで加療しています。
担架に乗って帰隊したのは15、16日、それ以後も治療を続けています。
ちなみに南京が占領されたのは13日。どうやって百人斬りが出来たのでしょうか。これは浅海記者の作り話なのです。
‐‐‐‐
虐殺数についても、ラーベ達は4~5万と見ていましたが、中国はこれを、20万、30万、40万、50万、百万とエスカレートさせて行き、最終的に30万に決定しました。後は、それにふさわしいデータを集め、捏造して行くだけです。
このようにして南京大虐殺の話は作られて行き、これを「自分は善人に見られたい」、と願う日本人たちが支えて行ったのです。
この事件の中には、捕虜を処刑したり、民間人を便衣隊と間違えて摘発・処刑した事も含まれています。
しかしながら、この件で我々が罪の意識を持つのは間違いです。仮に残虐行為が有ったとしてもです
この戦争は元々、中国が仕掛けたものです。日本は何度も和平を提案しました。それを蹴ったのは中国です。
そして、南京では、降伏勧告を拒否しながら、司令官だけが逃げ出して混乱を作りだしたのです。
また、市民に害の及ぶ便衣隊戦法を意図的にとってるのも中国です。
そういう中国のデタラメさが、中国の市民を虐殺 (事実と仮定して) したのです。
この事件の全責任は中国にあります。日本に責任はありません。
ましてやデッチあげや虚構を含んでいる分には何をか言わんでしょう。
虐殺の話はここまでにして次からは本筋に戻ります。
つづく
>ティンパーレやベイツ教授などを金で雇って日本軍の残虐行為を書かせ、世界に宣伝してもらったのです。
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虚報の情報源は宣伝工作員のベイツ
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http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/8019570.html
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嘘吐き宣伝工作員同士の音信
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/8120325.html
>六、国中から募集した、日本軍の残虐行為に見える写真(その殆どは偽物、その内訳は次の通り)
> 1、中国軍がやった残虐行為を日本軍にすりかえた物。
>・・・・・
> 3、農作業の行き帰りを護衛している写真に、日本軍が強制連行していると説明をつけた物。
●関連記事
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●済南事件の日本人犠牲者の検死写真が『レイプ・オブ・ナンキン』や支那の教科書では731部隊の人体実験と掲載
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続き★責任なし28 上海戦3 中国の嘘と呼応する人2
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反日捏造野郎、都留文科大学教授、笠原十九司の捏造を暴く
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/27417068.html
>三はグレーゾーンです。ここでは間違われて処刑された民間人もあるでしょう。
> しかしながら、ここで、日本を非難するのは筋違いです。
これに関しては、私の見解は異なる。
日本軍が便衣兵と間違えて民間人を処刑したことはなかった。
便衣兵の摘出(兵民分離)作業は正確に行なわれ、間違って民間人を処刑することはなかった。
●関連記事
南京虐殺は嘘78・便衣兵の処断は当たり前2
現実問題として処断しなければ一般住民と日本軍将兵の犠牲者は急増した
兵民分離(便衣兵摘出)作業に間違いはなかった
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12257289.htm
責任なし38 便衣隊狩りは正当
Yahoo!掲示板でrekisisiranai さんが語った真実の歴史
便衣兵摘出(兵民分離)作業は簡単で正確だった
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/27807109.html
>虐殺数についても、ラーベ達は4~5万と見ていましたが、・・・
●関連記事
南京虐殺は嘘32 嘘吐き安全区国際委員会
組織ぐるみで嘘を吐いていた背景
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/8206370.html
南京虐殺は嘘33 嘘吐きラーベのデマ宣伝工作
支那軍将校を自宅に匿っていたトンデモない安全区国際委員長
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/8283236.html
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[転載]【アパホテル・南京大虐殺ねつ造】アパホテル、 中国大激怒! 日本国民は賞賛の理由...
【アパホテル・南京大虐殺ねつ造】アパホテル、 中国大激怒! 日本国民は賞賛の理由...
客室設置の書籍について
弊社ホテル客室に設置している『本当の日本の歴史 理論近現代史』等について、南京大虐殺を否定するものだとして批判的に取り上げる動画がインターネット上にアップされたことをきっかけに、昨日からご意見やお問い合わせをいただいていますので、ここで弊社の見解を述べさせていただきます。
ご指摘のあった書籍は、本当の日本の歴史を広く知っていただくことを目的として、弊社グループ代表の元谷外志雄が「藤誠志」のペンネームで月刊誌『Apple Town』に連載している社会時評エッセイを1年分まとめたものに、まえがきとして解説を付して制作したもので、日本語の他に、英語訳も付いています。
本書籍の中の近現代史にかかわる部分については、いわゆる定説と言われるものに囚われず、著者が数多くの資料等を解析し、理論的に導き出した見解に基づいて書かれたものです。国によって歴史認識や歴史教育が異なることは認識していますが、本書籍は特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです。
ご指摘のあった書籍は、本当の日本の歴史を広く知っていただくことを目的として、弊社グループ代表の元谷外志雄が「藤誠志」のペンネームで月刊誌『Apple Town』に連載している社会時評エッセイを1年分まとめたものに、まえがきとして解説を付して制作したもので、日本語の他に、英語訳も付いています。
本書籍の中の近現代史にかかわる部分については、いわゆる定説と言われるものに囚われず、著者が数多くの資料等を解析し、理論的に導き出した見解に基づいて書かれたものです。国によって歴史認識や歴史教育が異なることは認識していますが、本書籍は特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです。
したがって、異なる立場の方から批判されたことを以って、本書籍を客室から撤去することは考えておりません。日本には言論の自由が保証されており、一方的な圧力によって主張を撤回するようなことは許されてはならないと考えます。なお、末尾に本書籍P6に記載しています、南京大虐殺に関する見解を掲載いたしますので、事実に基づいて本書籍の記載内容の誤りをご指摘いただけるのであれば、参考にさせていただきたいと考えています。
『本当の日本の歴史 理論近現代史学』P6
二、南京三十万人大虐殺
中国は日本軍が南京で三十万人を虐殺したと主張しているが、そもそも当時の南京市の人口は二十万人であり、三十万人を虐殺し、その一ヶ月後には人口が二十五万人に増えていたなどあり得ないことだ。しかも国民党中央宣伝部に雇われていた二人を除いて、欧米人など第三国の人が虐殺を目撃した日記も手紙も写真も、記録したものが一つもないことなど、更には、上海大学の朱学勤教授が「いわゆる南京大虐殺の被害者名簿というものは、ただの一人分も存在していない」と論文で発表したにもかかわらず、辞職もさせられていないことなどから、いわゆる南京虐殺事件が中国側のでっちあげであり、存在しなかったことは明らかである。
そもそも日本軍が南京に侵攻したのは、一九三六年、張学良が蒋介石を西安で拉致監禁した西安事件をきっかけに、コミンテルンの指導で第二次国共合作が成立したことで、国民党政府軍は中国共産党への攻撃をやめ、国民党政府軍に共産党勢力が入り込み、日本軍を挑発して、日本を戦争へ引きずり込んでいったことが背景にある。
一九三七年七月七日、中国盧溝橋付近で北京議定書に基づき合法的に駐留していた日本軍の軍事演習中に、日本軍とその近くにいた国民党政府軍の双方に対して実弾が発射されたことをきっかけに、戦闘状態になった(盧溝橋事件)。この双方への発砲は、後に中国共産党国家主席となった劉少奇(りゅうしょうき)が指示したものであることを、彼自身が告白している。事件不拡大を望んだ日本軍は、その四日後には停戦協定を結んでいる。
しかし、日本を激怒させ国民党政府軍と戦争をさせる為に、同年七月二十九日、中国保安隊によって日本人婦女子を含む二百二十三人が残虐に虐殺された「通州事件」や、同年八月九日に起こった「大山大尉惨殺事件」、更には、同年八月十三日、国民党政府軍に潜入していたコミンテルンのスパイである南京上海防衛隊司令官の張治中(ちょうじちゅう)の謀略によって、上海に合法的に駐留していた日本海軍陸戦隊四千二百人に対して、三万人の国民党政府軍が総攻撃を仕掛けた第二次上海事変を起こすなど、中国は日本に対して次々に挑発を繰り返し、それまで自重し冷静な対応を取っていた日本も、中国との全面戦争を余儀なくされたのであり、不当に日本が中国を侵略したわけではない。
上海事変で勝利した日本軍は、敗走する国民党政府軍を追撃し、国民党政府の首都であった南京を攻略し、同年十二月十三日に南京占領。このとき敗残兵が住民に対して略奪、虐殺を行なった。それらの敗残兵が民間人の衣服を奪って便衣兵(ゲリラ)となったことから、日本軍は便衣兵の掃討作戦を行った。便衣兵(ゲリラ)の殺害は国際法上認められているものであり、一般住民を虐殺したのはこの敗残兵達(督戦隊が撃ち殺したのは、逃亡中国兵であった。)であった。しかし、こうした事実が歪められて、情報謀略戦として、「南京三十万人虐殺説」が流布されたのである。そもそも既に南京を攻略した日本軍にとって、南京で虐殺行為をする理由はない。一方、通州事件や大山大尉惨殺事件、第二次上海事件などでの日本人に対する残虐行為には、日本軍を挑発し、国民党政府軍との戦争に引きずり込むというコミンテルンの明確な意図があったのである。
理論 近現代史学
数々の事実を付き合わせ、あり得ることかあり得ないことか考えて、矛盾なく、理論的に説明ができる近現代史が、理論近現代史である
「南京大虐殺」が「虚構である」証拠の数々
「南京大虐殺」が「虚構である」証拠の数々
1.まず、「『南京大虐殺なること』に関する『犠牲者名簿なるもの』は唯の一人分も無い。」(上海大学歴史学部・朱学勤教授による。平成十九年十二月二十日付産経新聞)。この一点だけ捉えても「南京大虐殺なること」が如何に荒唐無稽な作り話であるかは既に立証された様なものである。(仮に、「南京大虐殺」なることが真実であるならば、「三十万人」という数字の何割かの「犠牲者名簿」が存在しないはずがない。)
2.「南京大虐殺」の犠牲者は、「三十万人」ということになっているが、日本軍が南京を制圧した昭和十二年十二月十三日当時、南京市内には、約二十万人の民間人しかいなかったという記録があり、併せて、約一カ月後、昭和十三年一月十四日の時点では、人口が五万人以上増えて、約二十五万人~三十万人になっていたという「南京安全区国際委員会記録」が残っている(田中正明著『南京事件の総括』二十九頁)。
3.日本軍が南京を占領する約一カ月前、昭和十二年十一月より翌年の九月迄、蒋介石率いる国民党は、ほぼ毎日の様に、欧米のマスコミ関係者を集めて、記者会見を開き、日本軍に対するイメージダウンの目的で、日本軍の不法行為等について嘘八百の発表、宣伝工作を続けていた。そして、その回数は延べ三〇〇回にも及んだという。処が、当時、国民党は「南京大虐殺」などという事を一度も言ったことが無かったという。何故か?それは、その様な事は全く起きていなかったから言わなかっただけである。仮に、当時、南京で「大虐殺」が起きていたならば、其の事を其の記者会見の場で取り上げないはずがなかったであろう。
4.「南京大虐殺記念館」等に展示されている写真は、全て合成写真または、「通州事件」等、中国人が日本人を虐殺した写真を始めとする、全く別の写真であることが、東中野修道教授(亜細亜大学)によって証明されている。もしも、南京大虐殺なる事が真実であるならば、その証拠写真が一枚も無いはずがない(東中野修道・小林進・福永慎次郎共著『南京事件「証拠写真」を検証する』草思社)。 (所謂)「南京大虐殺なること」が有ったと問答無用で決めつけたのは、「極東国際軍事裁判」、(所謂)「東京裁判」の中である。それでは同裁判の内容は一体如何なるものであったのか? 東京裁判を傍聴した冨士信夫氏は、『南京大虐殺はこうしてつくられた』(展転社)の中で、「南京大虐殺」なることが全くの虚構であることを裁判記録として記している。
5.朝日新聞は昭和十二年十二月二十日の朝刊半頁を費やして、『甦る平和都市南京』と題する(平和この上ない、当時の南京の)写真特集を掲載している。この風景こそ虐殺否定の何よりの証拠と言えよう(『南京大虐殺の総括』三十二頁)。
6.「南京に大虐殺が有ったと言う様な記録は、中国側の第一級公式資料である何應欽上将の軍事報告の中にさえ、その片鱗も見出せない。」(『南京事件の総括』八十二頁)。
7.「当時、朝日、東日、読売、日経、など全国紙の各支局を始め、地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣していた。これらのプレスマンが異口同音に言うことは、『東京裁判で、南京でのあの様な事件が有ったと聞いて驚いた。』」(同百十一頁)。
8.「中国国民党が、作り話を含めて、日本軍の不法行為を糾弾する為に、一九三八年七月七日、国民党の中央宣伝部が「印刷」した蒋介石の『国民に告ぐる書』のどこを探しても、そこには『南京大虐殺』の文字は見当たらない」(同二百九十六頁)。
その他、多々ある。
2.「南京大虐殺」の犠牲者は、「三十万人」ということになっているが、日本軍が南京を制圧した昭和十二年十二月十三日当時、南京市内には、約二十万人の民間人しかいなかったという記録があり、併せて、約一カ月後、昭和十三年一月十四日の時点では、人口が五万人以上増えて、約二十五万人~三十万人になっていたという「南京安全区国際委員会記録」が残っている(田中正明著『南京事件の総括』二十九頁)。
3.日本軍が南京を占領する約一カ月前、昭和十二年十一月より翌年の九月迄、蒋介石率いる国民党は、ほぼ毎日の様に、欧米のマスコミ関係者を集めて、記者会見を開き、日本軍に対するイメージダウンの目的で、日本軍の不法行為等について嘘八百の発表、宣伝工作を続けていた。そして、その回数は延べ三〇〇回にも及んだという。処が、当時、国民党は「南京大虐殺」などという事を一度も言ったことが無かったという。何故か?それは、その様な事は全く起きていなかったから言わなかっただけである。仮に、当時、南京で「大虐殺」が起きていたならば、其の事を其の記者会見の場で取り上げないはずがなかったであろう。
4.「南京大虐殺記念館」等に展示されている写真は、全て合成写真または、「通州事件」等、中国人が日本人を虐殺した写真を始めとする、全く別の写真であることが、東中野修道教授(亜細亜大学)によって証明されている。もしも、南京大虐殺なる事が真実であるならば、その証拠写真が一枚も無いはずがない(東中野修道・小林進・福永慎次郎共著『南京事件「証拠写真」を検証する』草思社)。 (所謂)「南京大虐殺なること」が有ったと問答無用で決めつけたのは、「極東国際軍事裁判」、(所謂)「東京裁判」の中である。それでは同裁判の内容は一体如何なるものであったのか? 東京裁判を傍聴した冨士信夫氏は、『南京大虐殺はこうしてつくられた』(展転社)の中で、「南京大虐殺」なることが全くの虚構であることを裁判記録として記している。
5.朝日新聞は昭和十二年十二月二十日の朝刊半頁を費やして、『甦る平和都市南京』と題する(平和この上ない、当時の南京の)写真特集を掲載している。この風景こそ虐殺否定の何よりの証拠と言えよう(『南京大虐殺の総括』三十二頁)。
6.「南京に大虐殺が有ったと言う様な記録は、中国側の第一級公式資料である何應欽上将の軍事報告の中にさえ、その片鱗も見出せない。」(『南京事件の総括』八十二頁)。
7.「当時、朝日、東日、読売、日経、など全国紙の各支局を始め、地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣していた。これらのプレスマンが異口同音に言うことは、『東京裁判で、南京でのあの様な事件が有ったと聞いて驚いた。』」(同百十一頁)。
8.「中国国民党が、作り話を含めて、日本軍の不法行為を糾弾する為に、一九三八年七月七日、国民党の中央宣伝部が「印刷」した蒋介石の『国民に告ぐる書』のどこを探しても、そこには『南京大虐殺』の文字は見当たらない」(同二百九十六頁)。
その他、多々ある。
アパホテルの南京大虐殺論争 やっぱり大虐殺はなかった
The Liberty Web (会員登録)-2017/01/23
いわゆる「南京大虐殺」を否定する本が、アパホテルの客室に置いてあるとして、中国外務省がこのほど批判の声を上げた。 ... 系アメリカ人のアイリス・チャンや、A級戦犯の東條英機元首相らの霊言も行っており、歴史の真実を追求している。
アパホテル炎上に神対応し日本人絶賛!「アッパレ!」「支持します ...
borderline.blue/アパホテル炎上に神対応し日本人絶賛!「ア... - キャッシュ
2017年1月17日 - アパホテルが南京大虐さつが捏造であるという主張を含むアパグループ社長の「本当の 日本の歴史 理論近現代史 II」が中国で炎上している件についてまさに「神対応」と言って よい対応で日本人が大絶賛している。その神対応が是非知ってお ...
quasimoto2.exblog.jp/23559656/ - キャッシュ
2017年1月19日 - アパホテルみなさん、こんにちは。 いやはや、「南京大虐殺」というアルニダ歴史捏造プロパガンダを批判検証する本を出版販売しているアパホテル...
日本を激怒させ国民党政府軍と戦争をさせる為に、同年七月二十九日、中国保安隊によって日本人婦女子を含む二百二十三人が残虐に虐殺された「通州事件」や、同年八月九日に起こった「大山大尉惨殺事件」、更には、1937年八月十三日、国民党政府軍に潜入していたコミンテルンのスパイである南京上海防衛隊司令官の張治中(ちょうじちゅう)の謀略によって、上海に合法的に駐留していた日本海軍陸戦隊四千二百人に対して、三万人の国民党政府軍が総攻撃を仕掛けた第二次上海事変を起こすなど、中国は日本に対して次々に挑発を繰り返し、それまで自重し冷静な対応を取っていた日本も、中国との全面戦争を余儀なくされたのであり、不当に日本が中国を侵略したわけではない。
上海事変で勝利した日本軍は、敗走する国民党政府軍を追撃し、国民党政府の首都であった南京を攻略し、同年十二月十三日に南京占領。このとき敗残兵が住民に対して略奪、虐殺を行なった。それらの敗残兵が民間人の衣服を奪って便衣兵(ゲリラ)となったことから、日本軍は便衣兵の掃討作戦を行った。便衣兵(ゲリラ)の殺害は国際法上認められているものであり、一般住民を虐殺したのはこの敗残兵達(督戦隊が撃ち殺したのは、逃亡中国兵であった。)であった。しかし、こうした事実が歪められて、情報謀略戦として、「南京三十万人虐殺説」が流布されたのである。
そもそも既に南京を攻略した日本軍にとって、南京で虐殺行為をする理由はない。
一方、通州事件や大山大尉惨殺事件、第二次上海事件などでの日本人に対する残虐行為には、日本軍を挑発し、国民党政府軍との戦争に引きずり込むというコミンテルンの明確な意図があったのである。
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[転載]南京大虐殺ねつ造資料の嘘を暴く!part3「程瑞芳氏の虐殺を記した日記」
南京大虐殺ねつ造資料の嘘を暴く!part3「程瑞芳氏の虐殺を記した日記」
2016/04/05 に公開
~ユネスコ記憶遺産 南京事件 ねつ造資料の嘘を暴く!~
中国の申請内容 その3「虐殺を記した日記」
【中国の主張】
■2001年12月に見つかったとされる程瑞芳氏の日記
■中国の申請資料には、「南京大虐殺を記憶するために、程氏の日記は重要な資料の一つ」と記載
■日本軍が安全区に侵入し、2万人以上の強姦、市民を連行・虐殺
【検 証】
■「聞くところによると~」「~そうだ」などの伝聞表現ばかり
■肝心の虐殺を自分で目撃したという記述がどこにもない
■強姦は日本兵によるものかはっきりしない目撃が1件あったのみ
■南京の出生記録に出産や中絶が増えたという記録が一つもない
■国民党軍の一部が軍服を脱いで安全区に逃げ込み抵抗→民間人の虐殺ではなく、軍同士の戦闘行為。 国民党軍のゲリラ行為は国際法違反
【結 論】
自分で目撃した虐殺の記述はなく、裏付け調査のない日記 「証拠」能力なし
中国の申請内容 その3「虐殺を記した日記」
【中国の主張】
■2001年12月に見つかったとされる程瑞芳氏の日記
■中国の申請資料には、「南京大虐殺を記憶するために、程氏の日記は重要な資料の一つ」と記載
■日本軍が安全区に侵入し、2万人以上の強姦、市民を連行・虐殺
【検 証】
■「聞くところによると~」「~そうだ」などの伝聞表現ばかり
■肝心の虐殺を自分で目撃したという記述がどこにもない
■強姦は日本兵によるものかはっきりしない目撃が1件あったのみ
■南京の出生記録に出産や中絶が増えたという記録が一つもない
■国民党軍の一部が軍服を脱いで安全区に逃げ込み抵抗→民間人の虐殺ではなく、軍同士の戦闘行為。 国民党軍のゲリラ行為は国際法違反
【結 論】
自分で目撃した虐殺の記述はなく、裏付け調査のない日記 「証拠」能力なし
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[転載]ユネスコ「南京大虐殺」資料の登録に、識者が続々と反論!!
中国の「南京大虐殺」資料がユネスコ記憶遺産に登録された問題で、保守系の識者でつくる団体が28日、東京・千代田区で、「『南京大虐殺』の歴史捏造を正す国民大集会」を開き、リレー方式で複数の識者が登壇。約900人の参加者が、熱心に耳を傾けた。
冒頭で、事務局長の水島総・日本文化チャンネル桜代表が挨拶。「戦後70年、私たち日本国民は、いまだ歴史のねつ造を晴らすことができないまま来た。今回、中国共産党が11項目の資料を登録したが、彼らが出したものを一つひとつ粉砕していくことで、逆に、歴史のねつ造を晴らすことができる」
多くの国民に正しい歴史認識を
その後、議長を務める渡部昇一・上智大学名誉教授、中山成彬・前衆議員、外交評論家の加瀬英明氏、近現代史研究家の阿羅健一氏、藤岡信勝・拓殖大学客員教授、近現代史研究家の水間政憲氏などが、次々と登壇。それぞれ、南京大虐殺が存在しないことや、多くの国民に正しい歴史認識を持ってもらい、広げてほしいと訴えた。
以下は、主な登壇者の発言。
「父は南京戦に参加していた」
「当時の国民党政府は、民間に日本の爆弾が落ちたことを国際社会に訴えていたのに、大虐殺のことは訴えていない。大虐殺の責任を取らされ、A級戦犯にされた松井石根大将が、戦後、『初めて聞いた』と言ったのは嘘ではない」(渡部氏)
「父は南京戦に参加した第六師団で新兵の指導係をしていた。日本の軍律が厳しかったことや、大陸には軍閥が入り乱れており、日本軍が来ると人々がホッとしていたことなどを聞かされていた。もちろん、南京大虐殺は『あったはずがない』と言っていた」(中山氏)
「8年前、九段会館で、南京戦に参加した兵士に集まってもらい、証言してもらった。ある元・下士官の方は、『南京陥落から10日後ぐらいに、夜店の出ていた南京の街を、銃も持たずに一人でぶらぶら歩いた』と語っていた。その時つくってもらった印鑑を見せてくれた」(加瀬氏)
歴史戦は、国防の戦い
今回、中国がユネスコ記憶遺産に登録申請していた「南京」資料に対して、日本政府は反論らしい反論をほとんどしてこなかった。だが、歴史戦で敗れれば、日本人の誇りだけでなく、長期的に国力も失われていく。
中国の狙いは、歴史戦で精神的に日本人を敗北させた後、外交面での隷属を強いたり、沖縄をはじめとする日本の領土侵略を考えているはずだ。第二のチベット、第二のウイグルにしようとしているのは、火を見るよりも明らかだ。歴史戦は、国防の戦いと言っても過言ではない。( The Liberty 格 )
【関連記事】
2015年11月9日付本欄 マスコミの黙殺が招いた、ユネスコ記憶遺産への「南京」登録
2015年11月1日付本欄 ユネスコ記憶遺産 歴史ねつ造をとめなかった「不作為」の罪 岸田外相の責任を問う
2015年12月号記事 ユネスコの誤審 「南京」記憶遺産 決定の舞台裏 - 現地ルポ× 8カ月追跡取材
2015年10月13日付本欄 幸福実現党が会見 「南京」記憶遺産の撤回を、水間・阿羅氏とともに求める
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モンゴル力士「疑惑の互助会」が相撲界を蝕んでいる
newsplusalpha.net/archives/5462929.html - キャッシュ
九州場所が閉幕しても、日馬富士の「暴行事件」はその余波を広げ続けている。
相撲界を激震させた大騒動には、モンゴル力士による「互助会」なる存在が大きく関与していた。
厳しい掟のもと、和を乱す者には容赦ない制裁が加えられる。相撲界を跋扈する「疑惑の同胞組織」の実態とは──。
日がたつにつれ続々と「新証言」が飛び出し、事実が明らかになっていく。
横綱・日馬富士(33)が平幕の貴ノ岩(27)を暴行した事件は収まる気配を見せるどころか、ますます大ゴトへと発展している。
「モンゴル互助会」──。これは相撲界に隠然とささやかれる、モンゴル出身力士による親睦組織のことである。
今回のモンゴル力士同士の暴力事件は、この互助会の存在抜きには、語ることができないのだ。
「92年に旭鷲山、旭天鵬、旭天山ら6人の力士が、モンゴルで行われた新弟子検査に合格する形で、初めて日本の相撲界にやって来ました」
モンゴル力士が日本の相撲界に根づくきっかけをこう解説するのは、ベテラン相撲記者である。
「それまで大相撲の外国人力士といえば、小錦や曙らハワイ勢が幅を利かせていましたが、
小柄でもモンゴル相撲の下地があって下半身がしっかりしたモンゴル勢は強くなる要素があった。
その後も朝青龍や日馬富士、白鵬(32)が登場し、現在に至るまでのモンゴル人力士の系譜ができました。
彼らは衣食住全ての面で文化や価値観が日本とは違う。ましてや、同時に異国の地にやって来た6人は結束も固く、互いを励まし合うようによく飲み会、懇親会を開いていた。これが『モンゴル互助会』のスタートです。早くに出世した旭鷲山、旭天鵬の代わりに旭天山が他の部屋の同胞力士に声をかけ、コミュニティーが築かれていきました」
当時のモンゴルは社会主義から生まれ変わったばかりで、6人の力士も貧しかった。
その中で、彼らは着々と勢力を拡大していく。有望力士をスカウトしようと、親方衆も次々とモンゴルを訪れた。
外国人力士が増えすぎたこともあり、朝青龍が初土俵から最速で横綱昇進する直前の02年、
「各部屋に入門できる外国人は1人だけ」というルールも誕生した。角界関係者によれば、
「今は、モンゴル人の新弟子が入門するには、空きが出るのを待たなければいけない状況です。
モンゴル国内ではその順番待ちをする若い力士予備軍を、組織的に大量に抱えているとも言われます。
待機組は一定の年齢に達すると『縁がなかった』と諦め、代わりに若い力士を加える、という話も聞いていますね」
モンゴル互助会は、10年に暴力事件を起こすまで、朝青龍がトップに君臨。強制引退させられたあと、その座は白鵬へと移る。
「互助会は基本的にモンゴル人同士のものです。しかし、モンゴル人以外の力士も関わりを持つことがある。
いい例は、巡業や稽古総見の際、白鵬が現れると全員が水をつけに行くことです。これ自体、白鵬に恭順の意を示していることの表れであり、事実、白鵬はモンゴルだけでなく、日本人力士をも仕切っていると言っていい。大関時代の稀勢の里だけは、水をつけに行くことはありませんでしたが」(前出・ベテラン相撲記者)
白鵬が相撲界を半ば「支配」している構図をかいま見る一コマである。
モンゴル力士のコミュニティーでは、「誰かの奥さんが誰かの血縁者だという関係もよくある。例えば、玉鷲(33)の妻は、幕下・旭蒼天(24)の実姉です。
そうしたつながりが、お互いの結束をいっそう強くしている面がありますね」(相撲部屋関係者)
相撲界を激震させた大騒動には、モンゴル力士による「互助会」なる存在が大きく関与していた。
厳しい掟のもと、和を乱す者には容赦ない制裁が加えられる。相撲界を跋扈する「疑惑の同胞組織」の実態とは──。
日がたつにつれ続々と「新証言」が飛び出し、事実が明らかになっていく。
横綱・日馬富士(33)が平幕の貴ノ岩(27)を暴行した事件は収まる気配を見せるどころか、ますます大ゴトへと発展している。
「モンゴル互助会」──。これは相撲界に隠然とささやかれる、モンゴル出身力士による親睦組織のことである。
今回のモンゴル力士同士の暴力事件は、この互助会の存在抜きには、語ることができないのだ。
「92年に旭鷲山、旭天鵬、旭天山ら6人の力士が、モンゴルで行われた新弟子検査に合格する形で、初めて日本の相撲界にやって来ました」
モンゴル力士が日本の相撲界に根づくきっかけをこう解説するのは、ベテラン相撲記者である。
「それまで大相撲の外国人力士といえば、小錦や曙らハワイ勢が幅を利かせていましたが、
小柄でもモンゴル相撲の下地があって下半身がしっかりしたモンゴル勢は強くなる要素があった。
その後も朝青龍や日馬富士、白鵬(32)が登場し、現在に至るまでのモンゴル人力士の系譜ができました。
彼らは衣食住全ての面で文化や価値観が日本とは違う。ましてや、同時に異国の地にやって来た6人は結束も固く、互いを励まし合うようによく飲み会、懇親会を開いていた。これが『モンゴル互助会』のスタートです。早くに出世した旭鷲山、旭天鵬の代わりに旭天山が他の部屋の同胞力士に声をかけ、コミュニティーが築かれていきました」
当時のモンゴルは社会主義から生まれ変わったばかりで、6人の力士も貧しかった。
その中で、彼らは着々と勢力を拡大していく。有望力士をスカウトしようと、親方衆も次々とモンゴルを訪れた。
外国人力士が増えすぎたこともあり、朝青龍が初土俵から最速で横綱昇進する直前の02年、
「各部屋に入門できる外国人は1人だけ」というルールも誕生した。角界関係者によれば、
「今は、モンゴル人の新弟子が入門するには、空きが出るのを待たなければいけない状況です。
モンゴル国内ではその順番待ちをする若い力士予備軍を、組織的に大量に抱えているとも言われます。
待機組は一定の年齢に達すると『縁がなかった』と諦め、代わりに若い力士を加える、という話も聞いていますね」
モンゴル互助会は、10年に暴力事件を起こすまで、朝青龍がトップに君臨。強制引退させられたあと、その座は白鵬へと移る。
「互助会は基本的にモンゴル人同士のものです。しかし、モンゴル人以外の力士も関わりを持つことがある。
いい例は、巡業や稽古総見の際、白鵬が現れると全員が水をつけに行くことです。これ自体、白鵬に恭順の意を示していることの表れであり、事実、白鵬はモンゴルだけでなく、日本人力士をも仕切っていると言っていい。大関時代の稀勢の里だけは、水をつけに行くことはありませんでしたが」(前出・ベテラン相撲記者)
白鵬が相撲界を半ば「支配」している構図をかいま見る一コマである。
モンゴル力士のコミュニティーでは、「誰かの奥さんが誰かの血縁者だという関係もよくある。例えば、玉鷲(33)の妻は、幕下・旭蒼天(24)の実姉です。
そうしたつながりが、お互いの結束をいっそう強くしている面がありますね」(相撲部屋関係者)
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14時間前 - モンゴル力士「疑惑の互助会」が相撲界を蝕んでいる(2)秩序を乱す重大なルール違反. モンゴル力士のコミュニティーでは、. 「誰かの奥さんが誰かの血縁者だという関係もよく ある。例えば、玉鷲(33)の妻は、幕下・旭蒼天(24)の実姉です。
2017年11月30日号で、今回の暴行事件の現場では、貴ノ岩が日馬富士に「この八百長野郎!」とつぶやいた、と報じた。さらに好角家の漫画家・やくみつる氏も「モンゴル人力士には、星の回し合いが目に余る時期もあった」とコメント。
「実はそれにまつわる、今回の暴力事件の伏線となった出来事があるんです」
と言って、驚きのエピソードを明かすのは、前出・相撲部屋関係者である。
「今年の初場所、稀勢の里が14日目に初優勝を飾りました。実はこの日、白鵬は貴ノ岩に敗れ、それが稀勢の里の優勝につながった。これに白鵬が激怒したそうです。白鵬は春場所前、時津風部屋へ出稽古に出かけていますが、(白鵬が所属する)宮城野部屋の力士を使って、貴ノ岩にも声をかけている。ところが白鵬の“報復”を恐れた貴ノ岩は、その誘いの電話を無視した。師匠である貴乃花親方(45)の言いつけを忠実に守った形ですが、白鵬にとってはモンゴル互助会の秩序を乱し、あ・うんの掟を破る重大な“ルール違反”。なんとかしなければと思っていたはずです」
白鵬の激怒と報復、貴乃花親方の言いつけ、重大なルール違反‥‥。いったい、どういうことなのか。
「白鵬をトップとする互助会の力士は、相撲界での地位をなるべく安泰なものにしたい。その手段となるのが、星の回し合いです」
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14時間前 - おっさんフォース」管理人、みつーです。 連日、マスコミの報道では相撲界の事を中心に されていますね。 真相は未だ解明していませんが、 週刊誌などの報道では、. 随分 突っ込んだ表現がされています。 「モンゴル互助会」による八百長相撲 ...
blogos.com/article/262105/ - キャッシュ
2017年11月29日 - それこそ「モンゴル互助会問題」にほかならない。事件の詳細が次第に明らかになってき た時、多くの人はこんな疑問を持たなかっただろうか。モンゴル力士の間では、これだけ 有無を言わせぬ「上下関係」があって、「果たして本場所でガチンコ ...
chiebukuro.yahoo.co.jp > 知恵袋トップ > タグ - キャッシュ
「モンゴル互助会」タグが付いているQ&Aの一覧ページです。「モンゴル互助会」に関連 する疑問をYahoo!知恵袋で解消しよう!
モンゴル 互助会に関するニュース
-Yahoo!ニュース毎日、毎日、日馬富士暴行事件のテレビでの大報道が続いている。そして毎回、お決まりの「1日も早い解決が待たれます」で番組が幕を閉じるから、いつまでたっても終わらない。 はっきり言って、この問題は解決で...-Yahoo!ニュース 個人-1日前
hs34728.hatenablog.com/entry/2017/11/29/234052 - キャッシュ
2017年11月29日 - その裏には「モンゴル互助会」への批判があるわけだが、当然、それは他のモンゴル勢 の耳にも入る。暴行事件が起きた10月25日の夜には、日馬富士ら参加者たちから、 そうした貴ノ岩の“態度の悪さ”への叱責が始まり、その最中にスマホを ...
news.infoseek.co.jp > ... > 新着ニュース > スポーツ > スポーツ総合 - キャッシュ
14時間前 - 九州場所が閉幕しても、日馬富士の「暴行事件」はその余波を広げ続けている。相撲界 を激震させた大騒動には、モンゴル力士による「互助会」なる存在が大きく関与していた。 厳しい掟のもと、和を乱す者には容赦ない制裁が加えられる。
news4wide.livedoor.biz/archives/2164144.html - キャッシュ
2017年11月30日 - 日本相撲協会が30日、東京・両国国技館で定例の理事会を開いた。「週刊新潮」に対し て抗議文を送ることを決議したと発表した。 週刊新潮は12月7日号で「『貴乃花』停戦 条件は『モンゴル互助会』殲滅」、のタイトルで、モンゴル出身力士同士 ...
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[転載]【貴乃花親方の狙いはただ一つ?】モンゴル会に囁かれる”八百長ユニオン”の黒い霧
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[転載]大相撲疑獄! どうも 根っこは 「モンゴル互助会」の八百長???
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[転載]【南京大虐殺】昭和13(1937)年12月13日、南京陥落時の人口は?
一般市民・・・約20万人、中国軍兵士・・・約3.5~5万
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1リットルの瓶詰めの酒を、どう飲もうと、どうこぼそうと、1リットルの酒は1リットルである。
20万人しかいない人間を、30万人殺すことはできない。
.
こんなことは、3才の子供でもわかりきったことである。
昭和12(1937)年12月、日本軍が南京を攻略したとき、南京城内にいた市民は一体何人いたのか?
.
虐殺された人間の数は、はじめそこにいた人間の数以上には絶対ならない。
南京事件を論ずる際の、これが最も基本的な問題である。
.
馬超俊・南京市長は12月1日、全市民に対して「南京安全区国際委員会 」が管理する安全区(難民区)内に避難せよと命令した。
一方、国際安全委員会に対しては、米、麦、金と警察官若干を委托して、自分も蒋介石総統らの後を追って南京を脱出した。
.
すでに、上、中流階級の市民や官公吏は揚子江上流などに避難ずみで、残った市民はほとんど下層の市民のみであった。
まず、南京の広さについて説明しておく必要がある。
.
中国の首都といえば、いかにも広大な都市のごとく想像されるむきもあろうが、京都や北京、上海とは比較にならぬ小さな町である。しかもこの狭い城内に飛行場もあれば、小高い山も、畑もある。
いま私の手許に1937年に中国が発行した南京の地図がある。
.
これを見ても、東西5キロ、つまり一番幅広い中山門から漢中門まで歩いて1時間ほどで横切る事ができる。
南の中華門から最北の悒江(ゆうこう)門まで約11キロ、歩いても2時間たらずである。
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総面積は城外の下関まで加えて約40平方キロ。
東京都世田谷区が58.81平方キロであるから、その5分の4弱の広さである。
.
都市で言えば、鎌倉市が39.53キロゆえこれとほぼ同じ広さと思えばまちがいない。
さて、このような狭い町の一角に、3.8平方キロを区切って"安全区"を設け、第三国人からなる国際安全委員会がここを管理していた。
.
この"安全区"(難民区)に南京市民を全員を収容して保護に当たったのである。
この国際委員会は、日本軍が入城した12月13日から翌年の2月9日までの間に、日本大使館および米・英・独大使館宛に、61通の文書を手交または発送している。
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主として日本軍の非行や治安・食糧その他日本軍に対する要求を訴えたもので、実に巨細にわたって毎日のごとく記録している。
まぎれもなくこの61通の公文書は、同時資料であり、第一級史料といえよう。
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残念ながら日本外務省は終戦時これを焼却して現存しないが、この61通の文章は徐淑希博士の「南京安全区档案」とマンチェスター・ガーディアンの特派員ティンパーリーの「戦争とは何か」(What war means : the Japanese terror in China : a documentary record /compiled and edited by H.J.Timperley) の中に全文がおさめられており、東京裁判にも証拠書類として提出された。
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この全文の中に、3回にわたって、「安全区内の難民の総人口は20万人である。」と記述されている。
米副領事のエスピーの本国への報告にも、またラーベ委員長のドイツ大使館への報告にも、「南京の人口は20万人」と報告されている。
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しかし、ドイツ・フランクフルター紙の特派員で陥落直前南京を脱出したリリー・アベック女史が「文芸春秋」(昭和13(1938)年・2)に「南京脱出記」を書いている。
それによると、自分の脱出時には、「漸(ようや)く、15万人を数ふる小都市に成り下がっていった」とある。
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また、米紙には「(※注1)日本軍は15万人の南京市民が避難した安全区をちょっぴり可愛がった」と書いている。
さらに日本軍の捕虜となった張群思少佐は「南京衛戊軍の兵力数5万、非戦闘員10万」と述べており、同じく捕虜となり、のち汪兆銘政府の軍官学校長に就任した劉啓雄少将(当時雨花台陣地を守備した旅長)は、市民数「概(おおむ)ね20万」と言う。
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松井大将は「陣中日誌」の12月20日に、「避難区ニ収容セラレアル支那人ハ概シテ細民層ニ属スルモノナルモ、其数十二万余ニ達シ」と記述している。
以上の資料を総合してみると、当時の南京の人口は、12~13万から最高20万の間とみて間違いない。
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唐生智麾下(きか)の南京防衛軍は3.5万から5万であることは間違いなく、目一杯多く見積もって、合わせて25万、少なく見積もって16~17万である。
防衛軍と市民、一人残らず殺害しても16万ないし25万なのである。
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それがどうして30万なのか?
幽霊でも殺さなければ30万虐殺にはならない。
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そこで虐殺派は、何とか住民の人口を増やそうとする。
洞富雄氏は「日本軍が南京攻撃が開始されたとき、城内に残留していた市民の数は25万ないし30万であったといわれている」
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「敗残兵の掃討が終わった後の南京には、20万人近い市民が居住していたものといわれる」
「とすればその差10万ないし5万が被虐殺者ということになる」(洞富雄(ほらとみお)著「南京事件」(新人物往来社)179ページ)。
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「いわれている」「いわれる」というだけで何の根拠もない。洞(ほら)氏がただ想像し、憶測(おくそく)しているだけの話で、信憑性は全くない。
洞氏同様、南京に30万、40万の大屠殺があったことを実証しなければならない南京市文史資料研究会編『証言・南京大屠殺』は、やはり南京の人口の水増しを図っている。
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「われわれの研究によれば、難民区の人口は最も多い時で29万に達した。虐殺の末期、日寇が難民に難民区を離れるように強迫した時(日本側は)25万だと称していた。2ヶ月たらずの間に4万人が減ったのである。減少の原因はもちろん数多くあるが、重要な原因は、日寇が難民を大量に虐殺したことによるものであることは確かである。」(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 日本語訳(青木書店)178ページ)
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いったいこの29万人というのは、どこから持ってきたのか数字なのか?
洞氏と同様、何の根拠もない。
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あったら教えて頂きたい。
東京裁判でロヴィン弁護士が「南京ニ於(おい)テ殺害サレタ数ハ30万トナッテ居(お)リマスガ、私ノ承知シテ居(い)ル範囲ニ於キマシテハ南京ノ人口ハ20万デアリマス」とズバリこの問題の本質を突く質問をした。
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するとウエッブ裁判長はあわてて、「今ハソレヲ持チ出ス時デハアリマセン」とこの発言を封じてしまった。(「極東国際軍事裁判速記録」58号21・8・29)。
かくして、ついに東京裁判においても、南京市民の人口問題にはふれることなく、ただ10万とか、20万とか、12万7000とか、その数値さえも定かでない殺害数字を並べた珍無類の判決だけが下された。
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以後、虐殺論者は、人口問題を敬遠するか、または洞氏のように単なる推測数字を並べて水増しをはかるかのいずれかである。
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1リットルの瓶詰めの酒を、どう飲もうと、どうこぼそうと、1リットルの酒は1リットルである。
20万人しかいない人間を、30万人殺すことはできない。
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こんなことは、3才の子供でもわかりきったことである。
昭和12(1937)年12月、日本軍が南京を攻略したとき、南京城内にいた市民は一体何人いたのか?
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虐殺された人間の数は、はじめそこにいた人間の数以上には絶対ならない。
南京事件を論ずる際の、これが最も基本的な問題である。
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馬超俊・南京市長は12月1日、全市民に対して「南京安全区国際委員会 」が管理する安全区(難民区)内に避難せよと命令した。
一方、国際安全委員会に対しては、米、麦、金と警察官若干を委托して、自分も蒋介石総統らの後を追って南京を脱出した。
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すでに、上、中流階級の市民や官公吏は揚子江上流などに避難ずみで、残った市民はほとんど下層の市民のみであった。
まず、南京の広さについて説明しておく必要がある。
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中国の首都といえば、いかにも広大な都市のごとく想像されるむきもあろうが、京都や北京、上海とは比較にならぬ小さな町である。しかもこの狭い城内に飛行場もあれば、小高い山も、畑もある。
いま私の手許に1937年に中国が発行した南京の地図がある。
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これを見ても、東西5キロ、つまり一番幅広い中山門から漢中門まで歩いて1時間ほどで横切る事ができる。
南の中華門から最北の悒江(ゆうこう)門まで約11キロ、歩いても2時間たらずである。
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総面積は城外の下関まで加えて約40平方キロ。
東京都世田谷区が58.81平方キロであるから、その5分の4弱の広さである。
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都市で言えば、鎌倉市が39.53キロゆえこれとほぼ同じ広さと思えばまちがいない。
さて、このような狭い町の一角に、3.8平方キロを区切って"安全区"を設け、第三国人からなる国際安全委員会がここを管理していた。
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この"安全区"(難民区)に南京市民を全員を収容して保護に当たったのである。
この国際委員会は、日本軍が入城した12月13日から翌年の2月9日までの間に、日本大使館および米・英・独大使館宛に、61通の文書を手交または発送している。
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主として日本軍の非行や治安・食糧その他日本軍に対する要求を訴えたもので、実に巨細にわたって毎日のごとく記録している。
まぎれもなくこの61通の公文書は、同時資料であり、第一級史料といえよう。
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残念ながら日本外務省は終戦時これを焼却して現存しないが、この61通の文章は徐淑希博士の「南京安全区档案」とマンチェスター・ガーディアンの特派員ティンパーリーの「戦争とは何か」(What war means : the Japanese terror in China : a documentary record /compiled and edited by H.J.Timperley) の中に全文がおさめられており、東京裁判にも証拠書類として提出された。
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この全文の中に、3回にわたって、「安全区内の難民の総人口は20万人である。」と記述されている。
米副領事のエスピーの本国への報告にも、またラーベ委員長のドイツ大使館への報告にも、「南京の人口は20万人」と報告されている。
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しかし、ドイツ・フランクフルター紙の特派員で陥落直前南京を脱出したリリー・アベック女史が「文芸春秋」(昭和13(1938)年・2)に「南京脱出記」を書いている。
それによると、自分の脱出時には、「漸(ようや)く、15万人を数ふる小都市に成り下がっていった」とある。
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また、米紙には「(※注1)日本軍は15万人の南京市民が避難した安全区をちょっぴり可愛がった」と書いている。
さらに日本軍の捕虜となった張群思少佐は「南京衛戊軍の兵力数5万、非戦闘員10万」と述べており、同じく捕虜となり、のち汪兆銘政府の軍官学校長に就任した劉啓雄少将(当時雨花台陣地を守備した旅長)は、市民数「概(おおむ)ね20万」と言う。
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松井大将は「陣中日誌」の12月20日に、「避難区ニ収容セラレアル支那人ハ概シテ細民層ニ属スルモノナルモ、其数十二万余ニ達シ」と記述している。
以上の資料を総合してみると、当時の南京の人口は、12~13万から最高20万の間とみて間違いない。
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唐生智麾下(きか)の南京防衛軍は3.5万から5万であることは間違いなく、目一杯多く見積もって、合わせて25万、少なく見積もって16~17万である。
防衛軍と市民、一人残らず殺害しても16万ないし25万なのである。
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それがどうして30万なのか?
幽霊でも殺さなければ30万虐殺にはならない。
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そこで虐殺派は、何とか住民の人口を増やそうとする。
洞富雄氏は「日本軍が南京攻撃が開始されたとき、城内に残留していた市民の数は25万ないし30万であったといわれている」
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「敗残兵の掃討が終わった後の南京には、20万人近い市民が居住していたものといわれる」
「とすればその差10万ないし5万が被虐殺者ということになる」(洞富雄(ほらとみお)著「南京事件」(新人物往来社)179ページ)。
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「いわれている」「いわれる」というだけで何の根拠もない。洞(ほら)氏がただ想像し、憶測(おくそく)しているだけの話で、信憑性は全くない。
洞氏同様、南京に30万、40万の大屠殺があったことを実証しなければならない南京市文史資料研究会編『証言・南京大屠殺』は、やはり南京の人口の水増しを図っている。
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「われわれの研究によれば、難民区の人口は最も多い時で29万に達した。虐殺の末期、日寇が難民に難民区を離れるように強迫した時(日本側は)25万だと称していた。2ヶ月たらずの間に4万人が減ったのである。減少の原因はもちろん数多くあるが、重要な原因は、日寇が難民を大量に虐殺したことによるものであることは確かである。」(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 日本語訳(青木書店)178ページ)
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いったいこの29万人というのは、どこから持ってきたのか数字なのか?
洞氏と同様、何の根拠もない。
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あったら教えて頂きたい。
東京裁判でロヴィン弁護士が「南京ニ於(おい)テ殺害サレタ数ハ30万トナッテ居(お)リマスガ、私ノ承知シテ居(い)ル範囲ニ於キマシテハ南京ノ人口ハ20万デアリマス」とズバリこの問題の本質を突く質問をした。
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するとウエッブ裁判長はあわてて、「今ハソレヲ持チ出ス時デハアリマセン」とこの発言を封じてしまった。(「極東国際軍事裁判速記録」58号21・8・29)。
かくして、ついに東京裁判においても、南京市民の人口問題にはふれることなく、ただ10万とか、20万とか、12万7000とか、その数値さえも定かでない殺害数字を並べた珍無類の判決だけが下された。
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以後、虐殺論者は、人口問題を敬遠するか、または洞氏のように単なる推測数字を並べて水増しをはかるかのいずれかである。
マギー牧師撮影の16ミリフィルムに残る南京脱出の様子
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http://www.history.gr.jp/~nanking/reason01.html
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数字の水増しは、特亜の常識。
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