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[転載]歴史を勉強しよう その7 「南京虐殺」

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日本軍による1937年,国民政府首都南京に対する攻略、12月13日から約6週間の
日本軍の国民政府軍捕虜、敗残兵、便衣隊(民間人の衣服を身に着けたゲリラ)そして民間人への残虐行為に関する、中国および日本のサイトや書かれたものは非常に多く存在する。

これらの著作物の唯一の難点は、第三者が観察し、記録した合理的な証拠に基づいた内容に薄いことだ。
当時の南京は日本軍の攻撃にパニック状態になり、国民政府軍の指揮命令系統が統一されてなく、それを
恐れた欧米人、外交官、ジャーナリストなどが殆ど同地を離れ、ジョン・ラーベ以下数名の欧米人しか残っていなかった。

第二次大戦後の戦勝国による裁判で、松井石根陸軍大将、第6軍師団長谷寿夫中将が、日本軍の南京の残虐行為の責任をもって処刑された。
この根拠は中国側のこの6週間に30万人の民間人が殺害されたと言う主張で、現在でも一部欧米人、または日本人にも、このプロパガンダを信じている人たちがいる。

この数字(大体中国統計は正確なのかの議論に戻るときりはないが)には以下のような幾つかの矛盾がある。
1)当時の南京住民はそれほどおろかでない、周辺も含め25万人の人口の殆どが避難していた。避難してなくても根こそぎ殺すことは大量破壊兵器を使用しなければ不可能だ。30万人は人口より大きい数字だ。
2)欧米人など第3者の証言が極端に少ない。
3)米国に残された写真の数々は後に作られた合成写真だ。(筆者がニューヨークタイムズ紙に指摘した。)
4)殺略方法。洞冨雄先生の言うように機関銃を使う、またガソリンで焼殺する、は非現実的だ。
(どんな兵器でも逃げる人間を殺略することにかけては効率が良くない。特に機関銃はそうだ。)
5)便衣隊は国際法上、処刑されてしかるべき存在だ。

朝日新聞は全面的に本多 勝一記者記事の通り、中国側の言う「南京大虐殺」は存在したとしている。
30万人を殺害するに、この攻撃での日本軍の装備で現実的であったのは、20万人の一人一人の兵士が、銃剣で中国人一人を必ず刺殺すれば20万人はいく。しかしその必然性、合理性はあったのか。

むしろ国民政府は門を閉じて撤退する自軍兵士の混乱をいたずらに招いたと言う。あるいは捕虜は大量逃亡するために寒い河を渡ろうとして大量溺死したとも言われている。

どんな戦闘にしろ、明確な命令指示なしに、最高責任指導者(蒋介石)が真っ先に撤退したら、その混乱は想像を絶する。
日本軍の行為で責められるべきものは、その後の重慶無差別都市爆撃だ。これによる民間人の犠牲は
痛ましい。もし日本軍が核兵器を保持していたらためらずに使用したに違いない。

画像は軍用犬を同行する「残虐なる」日本軍兵士。「中国戦線の日本兵より」(この犬達も国民政府の捕虜になれば食されてしまったかもしれぬ。)

転載元: 日本の武器兵器


[転載]「日本兵は残虐」は、嘘でしょ



この画像は日本軍が中国大陸へ行ったときのものだという。これを見るかぎり中国人が「残虐な日本人」を恐れているようには感じられない。ちなみに場所は「帰化城」という所だという。
そういえば朝鮮系中国人の金文学さんの著書などでも、日本軍の占領を経験した当時の一般中国人に聞いた証言があるのだけれど、日本人を憎むような声はなかった。その例を一つ。
「日本人は残虐だ、悪人だと言うけれど、わたしはそんな日本人には会ったことはない。われわれは仲良くやりましたよ」(平成16年発行『「反日」に狂う中国「友好」とおもねる日本』祥伝社) 



中国大陸での写真が見られるサイトを下に記したが、それらの写真を見て分かることは、当時の日本軍の礼儀正しさ、優しさ、そして勇敢だったということである。
とはいうものの現在の中国政府が言っていることが、「まったくの嘘」と言いたいのではなく、当時の中国大陸は混乱状態(政府が存在しないのは当然)にあったこと、戦時下であったこと、中国軍の兵士は降参したフリをして日本人を騙して再び襲ってくること、などがあり日本軍も対処に困っていたということを考慮に入れてもらいたいのである。
ひとつだけはっきり言えるのは、日本軍が一方的に悪かったという考え方は卑怯である、ということだ。

中国大陸での日本軍の写真を、もう少し見てみたいという人は下記へ!

転載元: 風の向くまま★気の向くまま★日本はいずこへ

[転載]ハリウッドで挑戦を仕掛ける中国映画化運動ー「南京大虐殺」の映画化宣伝ー2

敗者虐めの「南京大虐殺事件」の連発はもう嫌になります。去る6月に上海紙の「文匠報」(匠の中に斤の代わりに、准の字が入る)が1937年の日本軍の南京で起きた事件を題材にした映画がハリウッドで製作が決まり、世界で同時公開がされるとほうじました。映画のタイトルは「南京、クリスマス、1937」で当時南京に居た米国宣教師の目をとおして旧日本軍がやった残虐行為の数々を描くストーリー。
クリント、イーストウッドが監督を務め、メリル、ストリープが演出が予定されていると
発表しました。当時在南京の外国記者や宣教師からの生の記事と、CA.出身の
アイリス、チャンの本の内容をそのまま採用した映画となると、こんな事件を知らない
一般の欧米人は仰天するでしょう。ただこれらの記者の共通する事は、日本軍が数千人単位で
殺害したのは見たが、精精合計で最大2-3万人であったというのです。

南京の人口20万人が精精であったのに、アイリス、チャンの「南京大虐殺事件」では35万人の
民間人を殺害したとかかれています。当然在米の中国系団体はアイリスチャンの支援
をやった第二次世界大戦アジア史保存連盟などの団体が宣伝に関与したと信じます。
クリント、イーストウッドは中国と日本で広まっているこの噂に対して「絶対に違う」
と宣言します。この団体は英語で略称「ALPHA]と呼びます。どうも此処が情報元である様です。
だが、偽情報でありました。これを実現する為に、あらゆるプラス要素を利用しようとします。
この団体は日本が国連常任理事国に候補した時事も反対運動をやりました。成功したと
自負しています。反対署名を4200万人も集めた実績を持ちます。

この映画の土台となった小説「紫金山が燃えるとき」の作者が自分の小説の映画化は聞いた事が
ないともうしました。この種の団体が個々の州の議会に働きかけて、南京大虐殺事件の
歴史を初等教育の教科書に記述させる運動が進みます。

過去61年間平和と財政援助に尽くした日本の文化、誇り、努力、功績が立った一つの
反日映画で台無しになる可能性があります。ハリウッドも興行で儲かる予想が大きければ、
映画化決定もあるでしょう。でなんとなく大もうけしそうな娯楽映画になるでしょう。
事実なる内容ならば受けてたちましょう。でも誇大、捏造、歪曲で製作されたら、
たまりません。啓蒙教育を始めましょう。

ハリウッド俳優のリチャード、ギア氏に監督を依頼して、日本製作で欧米俳優の出演も混ぜて、
「反証、南京、クリスマス、1937」を製作して見ましょう。ギア氏はハリウッドの俳優のなかで
反中国の先鋒であります。昨年訪日して小泉総理とダンスを見せた男優です。

この虚実と捏造映画の実現運動に対して、日本側は先手を打って啓蒙宣伝をする必要があります。


鳳山高雄。
09-12-06.

「昨日は9-11事件5周年記念日でした」。

転載元: 台湾日本美国雑談あれこれ

南京陥落直前の人口が20万人、そこへ唐生智将軍率いる5万の軍勢が立て籠もっていたが、

[転載]【拡散希望】南京虐殺30万人説は大嘘



拡散希望!・転載可!

【中国・南京虐殺30万人説・日本軍・嘘・櫻井よしこ】
南京虐殺30万人説は大嘘

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中国が主張する南京虐殺30万人説 
当時の人口20万しかおらず


 中国共産党は、自らの「政権」の正当性を保つためなら、「嘘」を主張することもいとわない。例えば、南京大虐殺では、日本軍が1937年12月に南京を占領した後、6週間以内に30万人以上の中国人を虐殺したと、中国は主張している。しかし、明星大学戦後教育史研究センターの勝岡寛次氏は「30万人はありえない」という。

当時の南京の人口は、多く見積もっても20万人程度で、30万人殺すことは不可能。しかも、陥落から1か月後に南京安全区の国際委員会が人口をチェックしたところ、25万人に増えていた。日本軍による大虐殺が起きた町に、なぜ続々と中国人が集まってきたのでしょう

 虐殺の証拠とされる写真も捏造だらけだ。

 生首が並んでいる写真は、実は中国軍が切り落とした馬賊の首だったり、寒さの厳しい12月なのに日本兵が半袖だったり。亜細亜大学の東中野修道教授の調査では、証拠とされた写真143枚すべてに加工の跡や事実と異なる点が認められた。

 さらに、東京裁判で虐殺の証拠として採用された書物『戦争とは何か』にも疑問が投げかけられている。その編著者で、英紙特派員だったハロルド・ティンパーリーは、国民党中央宣伝部(情報部)の顧問で、党から資金提供を受けていたことが明らかになっている。

※SAPIO2015年9月号

引用元 


支那人が主張する

南京大虐殺

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写真:捏造写真とも言われる画像




私は最初から

こんなこと信じていませんでした

なぜならば



支那人が主張する

6週間以内に30万人殺害

私の計算が間違いでなければ

1日当たり、約7142人

殺害しないと成立しない数字である

この数字、ISISでも無理でしょう




今回のニュースでのキーポイントは

当時の南京の人口は
多く見積もっても20万人程度

そう!30万人の殺害は不可能

勘定が合わないのです






こんな写真を見つけました


陥落2日後に水餃子を食べる日本兵

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大虐殺実行中であれば恐ろしい日本兵に平然と支那人が接するわけがない。
(撮影:佐藤振寿カメラマン)



陥落2日後、水餃子を食べる難民

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大虐殺が行われているのならのんびりと水餃子なんか食っていられない。
(撮影:佐藤振寿カメラマン)


これらの写真を見て

日本兵が虐殺したと思えますか?




先日の日曜日に放映した

そこまで言って委員会

ここで、櫻井よしこ氏が発言した

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非常に興味深いお話がある


時間のない方は動画5分ぐらいから見てください




ここで驚異的な発言がありました



中国の大学教授が発した言葉

南京大虐殺の犠牲者数は国民の感情に比例する




南京虐殺30万人説は大嘘です!

今後反日感情が高まるとさらに増えます




許されざる支那人の大嘘!

日本国民に拡散しなければなりません!

拡散のご協力

お願いいたします!

島 風

転載元: どうなの?日本

[転載]歴史の捏造、偽書に黙ってはおれない 許せない 世界のマスコミ対日観

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慰安婦問題  異常な反応日米離間あおる (情報源 産経新聞H19.3.27)
慰安婦問題について「強制性はなかった」と述べた安倍普三首相の発言に対し、異常ともいえる反応が海外メディアから相次いでいる。《安倍首相はいったい「日本軍の性奴隷」のどの部分が理解できず謝罪を渋るのか。背景となる事実は論争の余地のないものだ。第二次大戦中、日本軍は朝鮮をはじめとする日本の植民地から女性を募集し、日本の兵士に性的サービスを提供する場所を設置した。これらは商業的な売春一宿ではなかった。明示的であれ暗黙であれ、これら女性を集める上で力が用いられた。 そこで行われたことは、レイプの連続であり、売春ではなかった》 (6日付の米紙、ニューヨーク・タイムズ) 《前線における日本兵の不満を鎮めるために性的奴隷が参謀本部により許可された。日本軍の野戦壕の売看宿に送り込まれるために、数万人(歴史家によると約20万人、大半が韓国女性)が強制連行され、売られた。多くの慰安婦が劣悪な取り扱いに耐えきれず死亡し、多くが自殺した》(5日付のフランス紙、リベラシオン)-。
 まるで旧日本軍が強制的な「慰安婦狩り」を大々的に行ったかのような報道ぶりだ。安倍首相に対する非難も激しい。《人間は子供のころから、小さなことでもうそをつかないように…育てられる。しかし、明らかに証明され、明白になっている犯罪について、かたくなにうそをつき続けることをいとわない大人がいる》(6日付のオーストリアの主要日刊紙、プレッセ)
《安部首相の発言にアジアはもちろん、西欧メディアまで批判する理由は何か、首相自身がよく省察せよ。歴史を恣意で裁いてはならない》(7日付の韓国紙、中央日報)。同日付の米紙、ロサンゼルス・タイムズにいたっては天皇陛下による謝罪に言及。天皇は…かつて天皇の名の下でなされたすべての犯罪行為に対し、強い説得力ある謝罪を述べることができるはずである》とまで主張している。
 今回の騒ぎは米下院外交委員会でマイク・ホンダ議員が慰安婦問題で日本政府の謝罪を求める決議案を提出したことが発端となった。決議案は旧日本軍によって1930年代から強制的に若い女性たちが世界に知られる性的奴隷にされたと主張するが、これがいかに「客観的事実に基づいていない」 (安倍首相)
かは、言うまでもない。決議案は慰安婦の募集に「官憲などの加担」 「甘言、強圧」などがあったとした93年の河野洋平官房長官談話を根拠にしている。しかし、対日批判を繰り広げる韓国に配慮するため、明確な裏付けや証拠がないまま談話が書かれたことは、談話作成にかかわった石原信雄官房副長官(当時)がすでに明らかにしている。そもそも強制の事実に対しては、「元慰安婦」という女性たちの証言にも、各方面から疑問が投げかけられている。 かつて朝鮮総督府事務官を務めた大師堂経慰氏は、自らの体験を振り返り「女性の強制連行などということが一般住民に動揺を与えることもなく実行できるなど、考えられないことだ。各地で動揺が起きて当然であり、われわれの耳に入らないはずはない」と述べている(『慰安婦強制連行はなかった』展転社)。それが真実だろう。
 安倍首相は11日、国内メディアで「心の傷を負い、大変な苦労をされた方々に心からおわびを申し上げている」と語ったが、《慰安婦たちにとって最終的な慰めというものはないかもしれないが、正義は実現されるべきだ》(16日付の米紙、ボストン・グローブ)と、日本批判はやむ気配がない。
 ロサンゼルス・タイムズ(前出)は《第二次大戦中の残虐行為を過小評価する人々を抑えられなかった自民党の失態は…日本の国際的評価まで損ねてしまった。…戦時中の行為を全面的に認めようとしない日本の態度は、日米同盟の潜在力の足かせともなっている》とまで言い切っている。しかし、こうした歪曲された決議案や根拠のない報道こそいたずらに日米離間をあおるものであり、あまりにも危険である。    (宇都宮尚志)

コメント:東中野教授、藤岡教授の共著がアメリカで出版できなかったと聞き、悲しくなった。やはり、未だに日本の姿が理解されないでいることに、西洋列強の世界観の一現実を突きつけら、空しさを感じるのは私だけではなかろう。みなさーん!いかがですか!キッシンジャーがブッシュ大統領の懐刀として来る31日フジTVで特別番組が組まれあるメッセージが示されるでしょうが。イラン・イラク問題への問題ならば・・・日本人はこの現実を見極め天の道、声に耳を傾ける時のように感じてならない。

『正論』はクリックして大きくして読んでください。

転載元: Uchujin

[転載]アルコス事件


アルコスは1920年10月にロンドンで設立、資金はソ連政府が出資したもののイギリス国内法に基づいて設立された。ソ連からは製品や亜麻毛皮マンガン鉱を輸出し、その売り上げで食料繊維石炭などを輸入。1923年5月29日には外国為替銀行としてアルコス銀行を設置し、貿易関連の資金決済や訪ソ旅行者のための外貨両替にあたった。だが1925年時点でMI5が、アルコスがソ連の対外諜報活動の拠点となっていることを内偵していた。

アルコス事件

英国は、ソ連のブハーリンらが広東政府を援助し、ストライキなどの労働運動を指揮していたとして1927年5月12日、ロンドンのソ連ハウス(アルコス株式会社、ソ連貿易代表団)を強制捜索、ソ連が中国など諸外国で工作をおこなっている証拠書類が押収された(アルコス事件[37]。イギリスは南京事件はコミンテルンの指揮の下に発動されたとして関係先を捜索、5月26日、ソ連と断交した
蒋介石の北伐軍が山東省に接近するにしたがい、日本は1927年 5月28日、山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護のため、山東省へ軍を派遣する山東出兵を決定。日本と関東州大連天津から南下した日本軍は治安維持活動を開始。しかし北伐軍は張作霖に敗北し山東省に入ることなく撤退したため、日本軍もすぐに撤退。
同1927年7月、漢口政府も蒋介石にならって共産党員を追放した[40]。8月19日には武漢政府も容共政策放棄を声明し、南京国民政府に合流、蒋介石の権力は強固なものとなった。 9月田中義一首相と蒋介石が会談し北伐・対共産主義戦に対する支援と日本の満州国での権益を認める密約を結ぶ。蒋介石は上海での記者会見で「われわれは、満州における日本の政治的、経済的な利益を無視し得ない。また、日露戦争における日本国民の驚くべき精神の発揚を認識している。孫先生(孫文)もこれを認めていたし、満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と語った[43]
10月には中国共産党が江西省に革命根拠地を創設。1927年12月11日には中国共産党が武装蜂起で広州を制圧、ソビエト政権を樹立するが、その後中国地方軍に鎮圧され、共産党員と7人のロシア人は処刑された(広州コミューン)[40]。蒋介石はソ連に国交断絶を宣言した[44]


アルコス事件

1927年5月12日ロンドン金融街にある5階建てのソ連ハウスと呼ばれた建物を100人以上の警官が急襲した。そこにはアルコスとソ連貿易代表団の事務所があり、千人以上のソ連の職員や従業員が常駐していた。この捜索は2昼夜に亘った[1]。そしてボールドウィン政権はソ連が「大英帝国と南北アメリカのいたる場所においての軍事的スパイ活動および破壊活動」のためにアルコスを使ったとして非難した。この一件はアルコス事件として知られるようになる。ソ連と英国間の外交関係と貿易協定は、この事件の直後に解消された。英・ソ連の国交断絶は1927年5月26日[2]であった。

事件の背景

ソビエトは国権回復の気運の高い中国南部の新興勢力に加担し、その中でイギリスの名声と利益を損なう反英運動などが激しく行われてから、両国の関係は悪化していた[3]。1927年3月24日に起きた南京事件にはソビエトの関係があるとして行われた同年4月6日の北京のソ連大使館官舎の家宅捜索では、ロシア人・中国人80名以上が検挙されるとともに、北京における工作活動、あるいは暴力に訴えるための4,120名に及ぶ宣伝部員等の名簿並びにイギリス、フランス、日本に対する反抗的策動を目的とする委員会の調印文書など共産化の陰謀を示す書類が見つかり、その内容はイギリス下院においてもチェンバレン外相から発表されていた[4]。イギリス国内に限ってもソビエトの官憲と商務官がイギリスの国家を危うくする宣伝と陰謀を行っていたことはイギリス政府の承知するところであり、このことについてソビエトに対して行った警告も6回に及んでいた。アルコス事件に関してボールドウィン首相自ら行った報告では、アルコス事件の直前にはイギリス空軍の秘密書類がソビエトの工作員の手に入り、別の重要文書もアルコスに渡ったことの確証を得ていたとされた[5]

アルコス本部捜査

1927年5月12日午後4時、私服の捜査員50名がアルコス本部事務所に突如として殺到した。イギリス官憲は最初に外部との連絡を絶つように電話線を切った。表門、裏門とも警官の一部によって厳重に見張られ[6]外部との往来は一切遮断、屋内に居たものの外出は禁止され、郵便配達夫や至急電報の配達も入場を認められなかった。捜査員は内部に侵入、各室のあらゆる書類の提示を要求した。午後8時には増援隊を加えて捜索が続けられた。押収し検閲を要した文書は2万におよび、ピストル6丁も押収された。この捜索をあらかじめ承知していたイギリス政府の閣僚は、ボールドウィン首相、チェンバレン外相と捜査の責任者であったジョインソン・ヒックス (Sir William Joynson-Hicks) 内相の3人のみであった[7][8]

ソビエトの抗議

ソビエト代理大使ロゼンゴルツは事件の翌朝、イギリス外相チェンバレンを訪問し、アルコス本部の捜索は治外法権の侵害であり、商務官、大使館書記官など多数のロシア官憲の身体検査を行ったことが不都合であるとして、正式に抗議した[8]。5月17日には同様の内容がソビエト代理外務委員長リトヴィノフ名義の抗議書として、モスクワ駐在英国大使に手交された[9]

捜査結果の公表と国交断絶

1927年5月24日、イギリス首相ボールドウィンは、アルコスを捜索した結果を次のように発表している[5]
  • アルコスの地下室には写真部と暗号電信部が存在し、その部屋ではロシア商務官が特権を用いて国際的な共産化の宣伝、加えて政治と軍事上の秘密活動を行っていたことを示す証拠書類を発見した。
  • ソビエト外交官と商務官とアルコスの人員は、互いに連絡を取るため三者の区別がないことが確認された。
  • アルコスの捜索の際に商務官首脳の事務室の隣に秘密の部屋が発見され、そこでは多数の書類が焼却されていたが、諸国の共産党員から通信の名簿が押収された。それによると、ロンドンのアルコスはアメリカ、メキシコ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカの共産化宣伝と政治・軍事に関する諜報活動の本部であることが確認された。
  • ソビエトはイギリス船員に対する共産主義の宣伝を大規模に行っていたことが判明した。
  • 押収された多数の暗号電報の中に、ソビエトの外務人民委員チチェーリンから北京大使館に出されたものがあり、それは大使の後継者決定まではボロディンはモスクワより直接指揮命令を受けるという訓電の写しであった[10]。他にも南京事件についてイギリス政府の収集した証拠を覆す宣伝材料を電報で取り寄せ、これをイギリス労働党とその機関紙『デーリーヘラルド』 (Daily Herald) に供給することを指示する訓電、加えて中国問題、イギリスの労働法改正法案などに関する宣伝文書並びにイギリス労働団体との往復文書も見つかった。
ボールドウィンはこのようなソビエト官憲の特権乱用、宣伝、国際的諜報活動はイギリスが見過ごすことのできないものとして、対ソビエト方針としてソビエトとの通商条約を破棄し、ソビエト商務官と外交官のロンドンからの退去とモスクワ駐在のイギリス外交官の召還を要求、5月26日下院において承認された。

転載元: 日中国交正常化45周年・南京事件80年に学ぶ

[転載]【南京事件と便衣兵】国際法違反である便衣兵との戦いは戦時戦闘行動であり虐殺ではない

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便衣兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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便衣兵(べんいへい)とは、一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人のことである。国際法違反であり、捕虜となっても裁判にかけられ処刑される。

目次

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転載元: tearface 風雲急を告げる!


[転載]蒋介石ら中国首脳部の南京脱出と日本軍南京城攻略要領(1937年12月7日)













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映画 南京の真実 記録映画編(南京陥落後)

2009/05/06 にアップロード
南京「大虐殺」なる歴史の捏造が「真実」として、世界の共通認識とされ、同盟国の米国 だけでなく、世界中の人々に定着し、日本の国益を大きく損ね続けているばかりか、益々 その害悪は巨大になり、そこから生まれる反日、侮日意識が、中国共産党に悪用され、我 が国の存亡に関わる事態になりつつあります。 「情報戦争勃発」とも言えるこの危機的事態に、チャンネル桜、水島総監督は、誤った歴 史認識を是正し、プロパガンダ攻勢に反撃すべく、南京攻略戦の正確な検証と真実を全世 界に伝える映画を製作しました。その資料として、南京陥落、日本軍入城、そしてその直後の模様を伝える当時の記録映画は非常に貴重なものです。

蒋介石ら中国首脳部の南京脱出と日本軍南京城攻略要領(12月7日)

12月7日(火曜)
  • 夜明け直前、総統蒋介石夫妻はアメリカ人パイロットの操縦する大型単葉機で南京を脱出した[71]。またファルケンハウゼンドイツ軍事顧問団や、南京市長ら政府高官もすべて一両日のうちに脱出した[71]。中国軍は防衛司令長官唐生智を残して中国政府高官が南京を脱出した為、無政府状態となり市民は混乱状態に陥り、安全区(難民区)に避難した[21]。中国軍は撤退する際に、日本軍に利用されないために多くの建物を焼き払う清野作戦を実施した[72][73]ニューヨーク・タイムズダーディン記者は「湯山と南京の間、公路沿いにだいたい一マイルおきに堡塁が設けられている。首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。 ある谷では一村が丸々焼けていた。木々や竹林は切り倒され、竹の切り株は日本軍歩兵を妨害するべく鋭い刃物状にされた」と報道[74]。中国軍の南京周辺の焼き払いによって焼け出された市民が難民となって城内に流入し、食料難と暴動が市内で発生し、中国軍は治安維持と称して漢奸として少しでも怪しいものは手当たり次第に100名が銃殺された[75]。なお11月までの漢奸狩りで嫌疑をかけられた市民2000名、12月初旬には連日殺害された[76]
國民軍軍事委員會第一軍令部徐永昌は下関碼頭一帯で渡河待機避難民は3日も待っているが、まだ渡れぬ者があると日記に書いた[63]
  • 中支那方面軍司令官松井石根南京城攻略要領を示達し、敵兵が抵抗する場合は攻撃し、掃蕩戦を行うことのほか、掠奪などの不法行為が、特に外国人の大使館や安全区(中立地帯)において絶対にないように各部隊に命じ、違反した者は厳罰に処するとした[77]。松井は作成にあたって、国際法顧問斎藤良衛博士の意見を取り入れるように塚田攻参謀に命じ、情報参謀中山寧人が各国総領事を訪ねて改めて位置を確認し、これを各部隊に朱書きして手交した[78]
南京城の攻略および入城に関する注意事項
1.日本軍が外国の首都に入城するのは有史以來の盛事であり、世界が注目する大事件であるため、正々堂々将來の模範たるべき心構えをもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為などは絶対に無いように。
2.部隊の軍紀風紀を厳粛にし、中国軍民をして日本軍の威武に敬仰帰服せしめ、いやしくも名誉を毀損するような行為が絶対に無いように。
3.外国権益、特に外交機関には絶対に接近しないこと。中立地帯には必要のないもの立入を禁止する。所要の地点に歩哨を配置する。 中山陵革命志士の墓、明孝陵に立入を禁止する。
4入城した部隊は選抜し、城内外の外国権益の位置を撤退して把握し、絶対に過誤のないように歩哨を配置する。
5
掠奪行為、不注意といえども失火したものは厳罰に処す。憲兵を入城させ不法行為を摘発する。
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転載元: 美しい国と心を護る

1937年12月南京 中国軍による焼き払い …   堅壁清野  中国軍による残虐行為



堅壁清野

   
堅壁清野(けんぺきせいや)は、焦土作戦の一種。清野作戦ともいう[1]。城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)ことで、進攻してきた敵軍は何も接収できないようにして[2]疲弊させ、持久戦を有利に運ぶ狙いで行われる。


古代[ソースを編集]

中国では古来からの戦法とされ[3]、古くは『後漢紀』巻四にも現れる。また白蓮教の乱の際の勒保龔景瀚ヌルハチを敗走させた袁崇煥などの策がある[4]

中国国民党による作戦

日中戦争支那事変)期に中国国民党軍によって堅壁清野は行われた。国民党軍は日本軍・中国共産党軍の双方に対しこの作戦を取った。焦土化の対象は、軍事施設や食糧倉庫のみならず田畑や民家にまで及び、南京戦の際には、日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物をすべて焼却した[1]。国民党軍により南京城壁の周囲1〜2kmの居住区全域と、南京城から半径16km以内にある道路沿いの村落と民家を焼き払い、焦土化された[1][5]

1937年12月 南京において中国軍は撤退する際に、日本軍に利用されないために多くの建物を焼き払う清野作戦を実施した[6][7]

ニューヨーク・タイムズダーディン記者は「湯山と南京の間、公路沿いにだいたい一マイルおきに堡塁が設けられている。首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。 ある谷では一村が丸々焼けていた。木々や竹林は切り倒され、竹の切り株は日本軍歩兵を妨害するべく鋭い刃物状にされた」と報道した[8]

1937年12月8日 N.Y.Timesダーディン記者は、中山陵園の中国高官邸宅、半径一〇マイル以内の建物や障害物、中山門外・中山陵東南の谷全体、中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村が中国軍によって焼かれたと報じた[9]

1937年12月9日 午後、中国軍は南京市内の銃撃の邪魔になるものや日本軍に役立つ物を取り除くために放火し、北西以外の方角から煙がのぼった(ヴォートリン日記[10]。マクダニエル特派員は中国兵が灯油を家にかけて火をつけている所を目撃した[10]。焼け出された人が城内に避難した[10]ダーディン記者は、中国軍は防衛作業として城内の建物の全面的焼却作戦を開始し、南門近くの住民を安全区に追い立て、地区がまるごと燃やされ、同様に下関駅近くの新村も焼却され、湯山の軍事施設、政府高官の宏壮な邸宅も放火されたと報道した[11]。南京は北部と東部が火に囲まれた[12]

12月12日 中国軍によって、紫金山南京対岸の浦口長江岸全体が放火され、埠頭や倉庫も含め燃え、下関の半分も燃えた[13]。 南京の唐司令官は陣地死守を命じ揚子江の無断渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討ちが始まった[6]。この時点で唐将軍は渡河して逃亡していた。
北部の長江へつながる挹江門には督戦隊が置かれて撤退する中国軍と同士撃ちとなった (挹江門事件)[14]

ミニー・ヴォートリンによれば、中国軍の統制が取れなくなり城内殆どの場所で掠奪が行われており、中国軍が城壁外側のすべての家屋と城内の家屋も焼き払った事は酷い過ちだ。被害者は中国の貧しい人々であり、なぜ南京を破壊せず引渡さなかったのだろうかと日記に綴った[15]

ニューヨーク・タイムズダーディン記者は将軍だけが逃亡し、その他の将兵らが「ねずみとりの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らをとらえて木っ端微塵にするような状況にすすんで置かれることを選んだ」と翌年に報じた[16]

中華民国陸軍軍官学校出身の朝鮮人将校崔徳新は、中国国民党軍を率いて共産ゲリラ討伐戦術で堅壁清野作戦を実施した[17]

韓国軍による作戦

国民党軍将校であった崔徳新は、第二次大戦後帰国し、その後の朝鮮戦争でも韓国陸軍第11師団長として共産主義ゲリラ討伐のために堅壁清野作戦を実施した[17]。堅壁清野作戦は「必ず確保すべき戦略拠点は壁を築くように堅固に確保し、やむを得ず放棄する地域は人員と物資を清掃し、敵が留まることが出来ないよう野原にする」という内容であった[17]
1951年2月7日、第11師団第9連隊第3大隊は山清郡今西地域芳谷里佳峴村に進撃し、家屋を焼き払った。金目の物を集めた後、村の住民123人を渓谷に突き落としたり、四列横隊に並ばせて銃殺[17]、さらに芳谷村民212名、咸陽郡休川地域桐江里村民60名、花渓里、自恵里と咸陽郡柳林の西洲,蓀谷,池谷村の軍警察の家族以外の住民310名を虐殺し、犠牲者は計705名にのぼった(山清・咸陽虐殺事件)[17]。さらに2月9日居昌郡神院で民家78世帯に放火し、住民80名余を殺戮[17]。2月10日、苽亭里、中楡里、大峴里、臥龍里の全民家を焼き払い、疎開させるという理由で住民を連行し、隊列に遅れた老人20名余を射殺し、女子ども100名余を大峴里担凉渓谷で虐殺した[17]。2月11日には、神院初等学校に強制収容した苽亭里,中楡里の全住民と大峴里,臥龍里の住民1000名のうち軍警察、公務員、青年防衛隊の家族をのぞく540名余の住民を珀珊渓谷に集め、機関銃などで射殺し、焼却した[17]。この居昌虐殺事件の犠牲者は719名であった[17]。山清・咸陽と居昌の事件の犠牲者総計は1424名にのぼった。

1937年12月 中国軍による焼き払いの狂宴 … 中国軍による残虐行為

 ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は、断末魔の南京とその周辺における“焼き払いの狂宴”を次のようにレポートしている。
 
 「日本軍が句容をこえて(12月7日)、進撃しはじめたことが中国軍による焼き払いの狂宴の合図となったが、これは明らかに城壁周辺で抵抗するために土壇場の準備を行っているものであった。
 中国の「ウエストポイント」である湯山には、砲兵学校と歩兵学校、それに蒋将軍の夏期臨時司令部が置かれているが、そこから南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
 村ぐるみ焼き払われたのである。
 中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられたが、これらの地区はそれ自体小さな市をなしているのである。
 中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。
 これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きいが、おそらく実際の包囲期間中における日本軍の爆撃によって、また占領後の日本軍部隊によって生じた損害に等しいであろう
 中国軍部は、南京市周辺全域の焼き払いを軍事上の必要からだ、といつも説明してきた。
 城壁周辺での決戦で日本軍が利用できそうなあらゆる障害物、あらゆる隠れ家、あらゆる施設を破壊することが必要だというのだ。
 この目的のために、建物ばかりでなく、樹木・竹やぶ・茂みなどもすっかり焼き払われた。
 「中立国の観察者の信じるところでは、この焼き払いもまた、かなりの程度は中国人の“もったいぶったジェスチュア”であって、怒りと欲求不満のはけ口であった。
 それは、中国軍が失えば日本軍が使用するかもしれないものはすべて破壊したいという欲望の表れであり、極端な《焦土化》政策の表れであって、日本軍が占領する中国の各地方を、征服者には何の役に立たない焦土にしておこうというのであった・・・・」(AII287ページ)。
 
 金陵大学のベイツ教授はこう述べている。

 「南京の城壁に直接に接する市街地と南京の東南京郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置としておこなったものである。それが適切であったかなかったかわれわれの決定しうることではない」(AII212ページ)。
 南京陥落を前にして、中国軍が戦術として用いた「空室清野作戦」、すなわち公共建築物や公邸、私邸などの焼き払いの狂宴がいかにものすごいものであったか、この一文でも理解できよう。
 「南京攻略に先だって何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害」よりもさらに甚大な破壊と、放火と掠奪が行われたというのである。しかも、東京裁判ではこれらの焼き払いと掠奪の狂宴は、すべて日本軍の仕業に置き換えられ、《南京における日本軍の暴虐事件》として告発されているのである。

[転載]南京虐殺は嘘1 人口からの考察1

そもそも、日本軍による占領後に南京の人口が増えたのだから、虐殺なんてあった筈がない。


南京で戦闘が始まった12月12日の夜には南京の人口は20万人で、しかも、ほぼ全市民が安全区に避難していた。


まずは、南京の人口推移から。


●1937年11月~12月の南京の人口推移


1937/11/23日「50万」
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である」
南京市政府書簡(南京事件P220 笠原十九司)


11/27「30~40万」
在留外国人に対して「避難勧告」が出された。
「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」
米大使館報告 (アメリカ資料編P90)


12/6「約20万」
なぜ。金持ちを、約80万という恵まれた市民を逃がしたんだ?
(ラーベの日記P96)

陥落直前の南京の人口に関する資料
―――――――――――――――――――
安全委員会公文書【20万人の市民】
ステール【10万人の市民】
アベンド【10万人以上】
ダーディン【10万を越す非戦闘員たち+民間人は5万以上】
ラーベ【20万人】
リリー・アベック【15万人】
米ライフ紙【15万人の南京市民】
張群思少佐【非戦闘員10万】
劉啓雄少将【20万】
松井大将【12万余】
―――――――――――――――――――

以上の資料を総合してみると、12月13日、南京陥落時点の南京の人口は、【10万人から最高20万人】の間とみて間違いなく、陥落後の生存人口が約25万人(安全委員会公文書)だから人口は増えた。



■日本軍が南京を占領してからは、減るどころか逆に増えている。

そして、南京で戦闘が始まる前に、多くの市民が南京を脱出したが、そのうちの多くは日本軍が開放した上海に行っていた。


もう一度、南京の人口推移を長い期間で見てみる。


●1937年前半(支那事変以前)~1938年9月の南京の人口推移


1937年前半  「100万人」
 ↓
11月初旬~11月23日 「50万人」(支那軍が南京に来て減少)
 ↓
11月27日  「30~40万」
 ↓
12月13日  「20万」
 ↓
1938年1月14日 「25万人」(日本軍が占領し支那軍が南京を去ったため増加に転じる)
 ↓
1938年9月23日 「40~50万人」


・1938年9月23日「40~50万人」の資料

『文藝春秋』P193 第十六巻 第十九號 昭和十三年十一月特別號 (1938年)
 従軍通信/上海より廬州まで/瀧井孝作
 九月二十三日。晴。南京にて。
 午前九時、特務機関に行く。大西大佐より南京施政状況の説明あり。人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり。


しばらく南京に戻って来なかった人々のうち、漢口に行っていた25万人は支那の政府関係者が多く、上海に行っていた25万人は一般市民だから、やはり市民は日本軍の居る上海に行っていたのだ。








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[転載]南京虐殺は嘘2 人口からの考察2(全員避難)

そもそも、日本軍占領後に南京の人口が増えたのだから、虐殺があった筈がない。

南京で戦闘が始まった12月12日の夜、南京の人口は20万人で、全ての善良な市民が安全区に避難していた。

前回、南京戦前に多くの南京市民が日本軍の居る上海などに脱出し、日本軍の南京占領1ヶ月後には南京の人口が増加に転じていたことを述べた。

今回、南京で戦闘が始まった1937年12月12日の夜、南京に残った約20万人の善良な市民は全て安全区に避難したこと述べる。


12月1日、南京市長が全市民に安全地区に移るように命令
12月8日、支那軍司令長官唐生智が非戦闘員は全て安全地区に移るように命令

南京市長や支那軍司令長官の命令に逆らって一般市民が危険な場所に残っていた筈がない。



12月7日
何千という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、5時までに立ち退くよう警察から命令されており、それに従わなければ家は焼き払われ、スパイとみなされる、というのだ。
(南京事件の日々P39)

12月7日
門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われるという噂が広まり、中華門の近くに住む住民はパニックに陥っている。何百という家族が安全区に押し寄せてはいるが、こんなに暗くてはもう泊まるところがみつからない。
(ラーベの日記P100)

12月8日
南京防衛軍の司令官唐生智は、市が戦闘地区に入ったと宣言し「すべての非戦闘員は国際管理下の安全地帯に終結しなければならない」と、布告した。市内他地区での移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可証所有者を除いて禁じられる。
NYタイムズ12/8(アメリカ資料編P390)

12月8日
把江門を通って江岸に出て行くのは今でも容易であるが、 中国人はそこから城内に入る事を許されていない。昨夜警察官が、城壁外部の下関地区の家々を一軒一軒回って、長江を渡って浦口へ行くように警告して歩いた。
米大使館報告(アメリカ資料編P95)

12月8日
中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の南東部の人たちだ。
(南京事件の日々P40)

12月9日
今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らしている。(略)AP特派員のマクダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火をつけているところを目撃したと言っている。
(南京事件の日々P41)

12月10日
なにしろ、この街の運命と20万人の命がかかっているのだ。安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。(略)残念ながら軍人がまだ大勢、安全区に留まっている。
(ラーベの日記P107)

12月11日
警察官が川岸で渡江して避難する準備をしているのを見た。その後、数百人の警察官が同じ目的で下関区へなだれ込むのを目撃したから、もはや市内に警察官はいないのではないかと思われる。
(アメリカ資料編P101~102)

12月12日
今夜の記者会見で聞いたところによれば、防衛司令官の唐生智には、旗下の部隊に対する統率力が不足ために、城内のほとんどの場所で略奪が行われているそうだ。
(南京事件の日々P47)

12月13日
言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。(略)もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。
(安全委員会公文書T-6)

12月13日
ラーベを委員長とする安全委員会は12月17日の日本大使館宛の文書で、「13日に日本軍が入城した時には一般市民の殆ど全体を安全地区に集めていた」とある。
 こうして安全区を別とすれば、南京市は人気(ひとけ)が無くなり、我々委員会のメンバー、わずかのアメリカ人新聞記者、取り残されたヨーロッパ人が2~3人いるだけになりました。中国側によれば、まだ中国人が大勢安全区の外に隠れていると言う話でしたが、これは確かめることができませんでした。
『南京の真実』P344 1938年6月8日付け「ヒットラー宛の上申書」



人口問題
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[転載]南京虐殺は嘘3 真人間の証言1 (東京日日新聞 佐藤振寿カメラマン)

東京日日新聞 佐藤振寿カメラマンの証言


―― 南京城内の様子はどうでした?

「十三日はまだ戦闘があって、中国兵があちこちにいて危険でしたが、城内はおだやかでした。(略)」


―― 十四日はどうでした?

「(略)
 もうこの日は難民区の近くの通りでラーメン屋が開いており、日本兵が十銭を払って食べていました。
それと十四日頃は中国人の略奪が続いて、中山路を机を運んでいる中国人や、店の戸をこじあけ手を差し込んで盗んでいる中国人もいました。
この日も一部ではまだ中国兵との戦いは続いてました。 (略)」


―― 十六日はどうでした?
「(略)
 十六日は中山路で難民区から便衣隊を摘出しているのを見て、写真を撮ってます。
中山通りいっぱいになりましてね、頭が坊主のものとか、ひたいに帽子の跡があって日に焼けているものとか、はっきり兵士と分かる者を摘出してました。
髪の長い中国人は市民とみなされてました。」


―― 虐殺があったといわれてますが……。

「見てません。虐殺があったといわれてますが、十六、七日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。
また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません。」


―― 南京事件を聞いたのはいつですか。

「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和二十一年か二十二年頃だったと思いますが、NHKに『真相箱』という番組があって、ここで南京虐殺があったと聞いたのがはじめてだったと思います。
たまたま聞いてましてね。
テーマ音楽にチャイコフスキーの交響曲が流れた後、機関銃の音キャーと叫ぶ市民の声があって、ナレーターが、南京で虐殺がありました、というのですよ。
これを聞いてびっくりしましてね。嘘つけ、とまわりの人にいった記憶があります。
 十年ほど前にも朝日新聞が『中国の旅』という連載で、南京では虐殺があったといって中国人の話を掲載しましたが、その頃、日本には南京を見た人が何人もいる訳です。
何故日本人に聞かないで、あの様な都合よく嘘を載せるのかと思いました。
当時南京にいた人は誰もあの話を信じてないでしょう。(略)」








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[転載]南京虐殺は嘘3 真人間の証言1 (東京日日新聞 佐藤振寿カメラマン)

東京日日新聞 佐藤振寿カメラマンの証言


―― 南京城内の様子はどうでした?

「十三日はまだ戦闘があって、中国兵があちこちにいて危険でしたが、城内はおだやかでした。(略)」


―― 十四日はどうでした?

「(略)
 もうこの日は難民区の近くの通りでラーメン屋が開いており、日本兵が十銭を払って食べていました。
それと十四日頃は中国人の略奪が続いて、中山路を机を運んでいる中国人や、店の戸をこじあけ手を差し込んで盗んでいる中国人もいました。
この日も一部ではまだ中国兵との戦いは続いてました。 (略)」


―― 十六日はどうでした?
「(略)
 十六日は中山路で難民区から便衣隊を摘出しているのを見て、写真を撮ってます。
中山通りいっぱいになりましてね、頭が坊主のものとか、ひたいに帽子の跡があって日に焼けているものとか、はっきり兵士と分かる者を摘出してました。
髪の長い中国人は市民とみなされてました。」


―― 虐殺があったといわれてますが……。

「見てません。虐殺があったといわれてますが、十六、七日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。
また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません。」


―― 南京事件を聞いたのはいつですか。

「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和二十一年か二十二年頃だったと思いますが、NHKに『真相箱』という番組があって、ここで南京虐殺があったと聞いたのがはじめてだったと思います。
たまたま聞いてましてね。
テーマ音楽にチャイコフスキーの交響曲が流れた後、機関銃の音キャーと叫ぶ市民の声があって、ナレーターが、南京で虐殺がありました、というのですよ。
これを聞いてびっくりしましてね。嘘つけ、とまわりの人にいった記憶があります。
 十年ほど前にも朝日新聞が『中国の旅』という連載で、南京では虐殺があったといって中国人の話を掲載しましたが、その頃、日本には南京を見た人が何人もいる訳です。
何故日本人に聞かないで、あの様な都合よく嘘を載せるのかと思いました。
当時南京にいた人は誰もあの話を信じてないでしょう。(略)」








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[転載]南京虐殺は嘘4 真人間の証言2 (大阪毎日新聞 五島広作記者)

大阪毎日新聞 五島広作記者の証言


―― 第六師団は北支で感謝状をもらってないから、中支で残虐行為をやったと言う人もいますが……。

「はじめて聞いた話です。第六師団でそんなことはありませんでした。
先ほどの話同様、谷中将が処刑されてからの作り話でしょう。
戦後、中国の言い分に合わせた話がよく作られています」


―― 南京陥落後の第六師団の行動はどうでした?

「十三日、十四日は城内掃蕩で、残虐行為などありません」

(中略)


―― 五島さんはいつまで南京にいましたか。

「翌年の一月十日頃までいました。
この間、南京のあちこちに行きましたが、虐殺といわれることは見ていません。
また、強姦もあったといわれますが、すでに慰安所ができてましたから、戦後いわれていることは嘘です。(後略)」






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[転載]南京虐殺は嘘5 真人間の証言3 (東京朝日新聞・橋本登美三郎上海支局長)

東京朝日新聞・橋本登美三郎上海支局長の証言

「南京での事件ねえ。
私は全然聞いてない。
もしあれば、記者の間で話に出てるはずだ。
記者は少しでも話題になりそうな事は話をするし、それが仕事だからね。
噂としても聞いた事もない。
朝日新聞は現地で座談会もやっているが、あったのなら、露骨ではないにしても抵抗があったとかそんな話が出るはずだが。
南京事件はなかったんだろう。」



「何も不自由は感じていない。思ったこと、見たことはしゃべれたし、書いていたよ」

「とにかく軍のこれからの動きが分かるような記事はだめでした」






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[転載]南京虐殺は嘘6 真人間の証言4 (同盟通信・前田雄二記者)

同盟通信・前田雄二記者の証言


「虐殺とは戦争に関係ない住民や婦女子をむげに殺害することだろう。
ところが殺されなければならない住民婦女子は(難民区)内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。
私の所属していた同盟通信の旧支局はその中にあった。
入城四日目には私たちは全員この支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。
つまり難民区内が私たちの生活圏内で、すでに商店が店を開き、露天商や大道芸人まで出て、日常生活が回復していた。
この地区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千、百、あるいは十をもって数えるほどの虐殺など行われようはずがない。
もしあれば、私たちが見逃すはずがない」






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[転載]南京虐殺は嘘7 真人間の証言5、6 (報知新聞・田口利介記者、読売新聞・樋口哲雄技師)

報知新聞従軍記者 田口利介氏の証言



 ―― 南京で虐殺があったといわれますが?


 「当時聞いたこともなかったし、話題になったこともありません」






読売新聞技師 樋口哲雄氏の証言



 「自転車を持っていたので、毎日あっちこっちに行きました」



 ―― その頃、日本軍による虐殺があったと言われていますが?


 「どこで何があったのか知りません」



 ―― 見たり聞いたりしませんか?


 「全然解りません。だいいちそういう形跡を見たことがありません。あったとよく言われますが、どこでどんなものがあったのか。中山陵など荒らされていないし、きれいでした。

 やらなきゃこっちがやられるからやったのを虐殺といっているのだと思います」





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[転載]漢検から理事解任された過去:池坊評議員議長会見要旨(上)「公益法人の役員としてはおよそ考えられない行為」

貴乃花の無言は、第三者からしてもどうしたいのかよくわからない。
相撲協会を信用していないことは伝わるけれど。
で、どうしたいのかが、わからない。
ので、一応理事なので解任されてもいたしかたないだろう。
>本人もそれを分かっていての了承だったようだ。
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>かつて相撲協会がもみ消そうとした事件があったからね。
   貴乃花親方が、相撲協会を信用していないことは、よくわかったけど。

池坊さんは、礼に欠けるというが、どうも本人は礼に欠けていたことを忘れているようですよ。
貴乃花は素直に解任を承諾したが、貴乃花に「礼がなっていない」、などと批判した「池坊保子」は「日本漢字能力検定協会理事長」を解任されたとき、「なぜ解任されるのか分からない」と居直り、「訴訟も辞さない」などと往生際の悪さを見せていた。
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2018.1.4 19:33

【貴乃花理事解任】
池坊評議員議長会見要旨(上)「公益法人の役員としてはおよそ考えられない行為」

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 元横綱日馬富士関の暴行事件で日本相撲協会は4日、東京都墨田区の両国国技館で臨時評議員会を開き、巡業部長を務めながら昨年の秋巡業中に起きた事件の報告を怠るなどした貴乃花親方(45)=元横綱、本名花田光司、東京都出身=の理事解任決議を全会一致で承認し、2階級降格処分が決まった。理事解任は初めて。2月に予定されている理事候補選挙には立候補できる。
 臨時評議員会終了後、元文部科学副大臣の池坊保子議長と公認会計士の小西彦衛評議員が記者会見した。会見の要旨は以下の通り。
 《まず、池坊議長が口を開いた》
 「みなさまこんにちは。お待たせいたしました。本日11時より開催いたしました臨時評議員会で12月28日の臨時理事会で決議され、評議員会に付議された貴乃花理事解任の件を審議し、解任が決定しましたのでお知らせいたします。
 解任理由は元日馬富士の暴行問題で報告義務を怠り、危機管理委の調査への協力を拒否したこと。これらはいずれも公益法人の役員としてはおよそ考えられない行為であり、役員の忠実義務に大きく違反していると思う。貴乃花理事が協会員としての報告義務を怠り、危機管理委員会の調査を拒否し続けたことによって今回の問題がここまで大きくなり、ここまで長引いている。
 よって評議員会としてもその責任を重く考え、理事解任という結論に至った。相撲は申し上げるまでもなく国技であり、相撲道は礼に始まって礼に終わると言われる。貴乃花理事の本件における多くの行為、言動は理事の忠実義務に反していると同時に明らかに礼に反している。
 特に上司であり、かつ先輩でもある八角理事長が何度携帯電話に電話をしてもまったく応答なく、折り返しの電話もないというのは著しく礼を欠いていたのではないか。
 貴乃花元理事にはぜひ評議員会の理事解任決議を厳粛に受け止め、真摯に反省し、今後は協力し合い、礼を持って行動していただきたいと私は切に希望しています」
 《報道陣による代表質問に移る》
 --評議員会は全会一致で理事解任を決めたのか
 「全会一致でございました」
 --議論の中で違った意見は出たか
 「私は評議員会において、大変丁寧に皆様方が納得いくような理解の上で議決したいと臨みました。高野危機管理委員長から今までの経緯のご報告を受けた。ここに至るまでの貴乃花親方へのさまざまな危機管理委員長が聴取なさった結果を伺った。
 12月20日の理事会で貴乃花親方から意見書がでていた。その意見書も私どもは共有したいと思いましたので、事務局に読み上げさせ私たちも黙読し、それを理解した上で決議に臨んだ。
 そしてまた、12月28日に理事会で危機管理委員長から説明があった後で、何か弁明がありますかと貴乃花親方に聞いたところ「危機管理委員長にお話しした通りです。弁明はありません」ということも付け加えさせていただきました。
 そしてまた1人1人の評議員の方々のご意見を伺い、それらのことを全てみなさまがたが意見を出し尽くした後で評決ということにした」
 --初場所後に理事候補選挙が予定されている。貴乃花親方が再び理事候補として挙がった場合の評議員会の対応は
 「いまのところ、そのようなことをみんなで話し合っていないし、それについて考えていない。理事候補として挙がってきたならば、またお話の過程をへて、評議員会で真摯に厳粛に粛々と決めさせていただきます」
 《代表質問が終わり、報道各社による質疑応答へ移る》
 --処分について貴乃花親方にどういった形で伝えたか。それに対する反応は
 「事務局から貴乃花親方の部屋に電話をした。親方はいらっしゃらず、電話を取り次いだ方に親方と話をしたいので、大至急連絡を取って、お電話をくださいという旨の話をした。12時に評議員会が終了し、いま12時半にここ(会見場)におりますので、ここに来るまでの30分までの間に親方からまだ電話が入っておりません。それから改めてお電話で伝えるとともに書類を持ってもきちんと伝達したい」
 「事務局よりいまのご質問に対して付け加えさせていただきます。事務局の方に貴乃花親方からいま連絡があり「わかりました」ということです。本人からでございました」
 --九州場所の初日前日の臨時理事会でこの問題をつまびらかにした場合、もっとスムーズに解決したのではないか。また、結果的に加害者側の伊勢ケ浜親方と貴乃花親方が同じ2階級降格となった
 「11月1日に鳥取県警から事務局に連絡が入り、4人の名前をあげて被害届が出ています。4人の事情聴取をしたいと思うが、いま大切な本場所を控えているのでマスコミの方にも漏れないように、また力士たちも動揺しないように(九州場所)終了後に本格的な捜査に入りたい旨の連絡があった。
 私は『県警も大変温かく人間味があるのだな』と、ちょっと感動した。それを受けてマスコミに漏れたり、また聴取したりすると力士たちも動揺するのではないか、力士たちにとって本場所というのは本当に命をかけた真剣勝負。彼らに専念させてあげたいという協会側の気持ちが十二分に働きました。
 だから、隠蔽という意味ではなくそれを本場所を終えたら速やかにきっちりと皆様方にも公表し、そして鳥取県警と連絡を取り合いながら聴取をしたいという風に考えていた。
 ですから11日の理事会でもそのことを伏せていたのが事実。ただ、その判断は大変難しいなと。私がその場にいてもどうしただろうかと考える。しかしながら、理事会、理事、ならびに評議員会はいつも協会の運営管理、そして協会が皆様方のご支援を得られるようにという気持ちを持っている。
 理事には評議員会に対して、遅滞なく可及的速やかに報告をしてほしい旨を私たち評議員は理事長並びに執行部に進言した」
 「それから二つ目。被害者と加害者。たしかに貴乃花親方は自分の部屋の力士ですからかわいいと思う。自分の子供だと思う。その気持ちは十二分に理解できる。
 しかしながら、巡業部長という協会における三番目に大切な重責。巡業部長は自分の部屋の力士だろうが、気にくわない親方の部屋の力士だろうが、分け隔てをして対応してはならない。重責にあるということはそれくらい大変な責務を負っているということ。自分の部屋の力士だろうが、ほかの部屋の力士だろうが、同じように分け隔てなく対応しないとならない。
 たとえば校長の子供が学校でいじめにあった。子供がいじめにあったらすごくつらい。でもその子だけ分け隔てしてはいけない。誰も親は安心してその学校に預けない。校長は自分の子だろうが、ほかの子だろうが、いじめにあったらみんな分け隔てなく対応しないといけない。
 今回貴乃花親方が処分されたのは被害者だ、加害者だということを離れて協会としての巡業部長という重い地位に就いていることに反して報告義務を怠った、危機管理員会による調査への協力を拒否した。被害者、加害者ということで一緒にしないで、2つの問題を抱えている」
 --さきほど鳥取県警から4人の名前が挙がったというが、どなたのことか
 「日馬富士、白鵬、鶴竜、照ノ富士と聞いている」
 --3月の評議員会で貴乃花親方を始め、処分された親方が立候補して当選した場合は評議員会で話し合って認めない可能性もあるか
 「いま将来的な予測に関して私が述べるのは差し控えさせていただきたい。ただ、評議員会は理事会とは別個に相撲協会の管理運営などに対して正しく行われるようにする機関。そのとき評議員みんなが知恵を出し合いながら進めていきたい。
 きょうは私もこれで終わりにしていただきたいと思うほど、膿を出し切りたい。皆様方の中でこれだけは聞いておきたいということがあればご質問いただいてけっこうだと思う。
 いろんなテレビで一方的に報道されていることも多い。報道されると報道されっぱなし。正しい情報はこうですよと申し上げたくても申し上げる場がない。みなさまが不審に思うことがあれば、ぜひ聞いていただきたい」
 --評議員会ではどのような意見が出たか
 「貴乃花親方の弁明はどうなってるのか。私どもはきちんと12月20日に出された意見書をもう一度精査したり、危機管理委員長から伺ったりというのがあった。その弁明の中で違っていた部分もあった。貴乃花親方がおっしゃっていたことと危機管理委員会とでと違っているところがあった。その確認をした」
 --事実関係が違う
 「そうですね。事実関係はきわめて重要。事実関係が曖昧ななかで報道されるのはとても残念」
 --評議員としてはどういうところを認定
「評議員議長は言ってみれば、評議員会の運営をする司会役。私は議決権を持たない。それは相撲協会の評議員会規則において議長は議決を持たない、同数の場合においてのみ議長が議決権を持つと定められているので私は議決に入らなかった。私以外の4人でなさって全員一致だった」
 --解任はきょう付けか
 「きょう評議員会が11時から開催され12時に終了したので解任は今日付。役員待遇委員になる」
 --被害者である貴ノ岩関の現在の状況や今後については話がでたか
 「今日の話の中では出なかった。私は一評議員として貴ノ岩のことを大変心配している。長く部屋にいればそれだけ稽古もできないし、本場所に臨むことができないのではないか。どんな状況か、私は大変案じている。本当にここで早く出てきてほしいというのを申し上げたい」
 --きょうの貴乃花親方の処分を持ってこの事件は一件落着、そして膿は出し切って他にもう問題はないと言い切れるか
 「膿を出し切りたいという私の願い。膿がそこにもあるよ、ここにもあるよということをいろいろとマスコミの方がほじくるのは私の力が及ばないところなので、言及はできない。
 これだけマスコミに報じられるというのは皆様方が関心を持ってもらっているということ。たしかに暴力はいけない。自分の子供や孫を預けられるような暴力のない相撲協会にしないといけない。
 そのために協会では積極的に再発防止へ研修会等々を開いている。これからもっと頻繁に開きたいと思っている。親方、力士がそれに協力してみんなで自分の子供を預けられるような、安心して預けられるような相撲部屋、相撲協会にしていきたい。
 マスコミの方々もどうか揚げ足を取るのではなく、そういう方向でこれから報道してほしいと願っている」
 --12月20日の臨時理事会で貴乃花親方が出した意見書をごらんになってどのような印象を持ったか。その意見書を踏まえても理事解任は妥当という判断か
 「それを読んでもやはりその弁明はちょっとおかしいのではないかと思った。多少事実関係が違っていた。日時等でも。みんなそれを5人の、私は議決権はないが、きっちり読んでそのうえでやはりこれは理事解任に賛成をしたというのが実情でございます」
 --小西評議員に伺いたい。議決権ある中で賛成した立場だが、今回の処分について所感は
 「私は評議員会のメンバーで当事者。議長から説明申し上げました、これまでの経過を踏まえて理事として、また業務を担当していることを含めて理事として役割を職務を果たしていただく点で私どもは懸念があった。しかし、まだまだ年齢からしてもこれからがある。そういう意味ではまだ時間がありますね、ということを申したい。皆さんも人材ということで(貴乃花親方に)期待をされていると思う」
 《質疑応答が終わると、池坊議長が「最後に一言」と切り出した》/futoji>
 「どうかマスコミの方々は大切な問題で多くの国民が感心を持ち、テレビ、新聞などを見ているので事実関係を明確にしてお出しいただけたらと思う。
 週刊新潮、週刊文春に(貴乃花親方が)激白と出ている。
 ところが貴乃花親方に危機管理委員長がこれはどうなんですかと伺ったら、「いいえ、そんなようなことは言っておりません」というお話でした。ですから、元モンゴルにお帰りになった力士の方とのやりとりも「それは関係してない」という話もあった。
 そのことに関して、社において、社のプライドにおいて事実関係をしっかりと把握しながらこれから報道していただけたらなと切に切に願っている」
 《会見は約30分で終了した》

転載元: 世の中の出来事について

[転載]隠岐 ローソク岩、竹島の石、アシカ漁 竹島で 明治時代 隠岐五箇村久見在住の橋岡友次郎、池田吉太郎他、地元の有志が、竹島に出漁しアシカや海産物を採取していた

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ローソク島(ローソクじま)は、日本中国地方隠岐諸島島後島北西部・代地区沖の海面上に高さ20mほど突き出した、火成岩でできた小さな無人島である。行政区分としては島根県隠岐郡隠岐の島町に属する。

ローソク島は、隠岐諸島を構成する島の1つとして数えられる、日本海に存在する無人島である[1]。島の面積は、0.0033km2[2][1]。この島は、鮮新世前期(約500万年前)に噴出して出来た火山岩で形成されている[3]。名前の由来は、ろうそくのような細長い岩の形状、特に夕日が先端に重なった時に灯がともっているように見えるさまから。大山隠岐国立公園の一部に指定されていて[1]奇岩として観光地となっている。


ローソク島の存在は、隠岐諸島内では古くから知られていた。しかし、島外でも知られるようになったのは第二次世界大戦後に観光地化が進んで以降である。現在では島内で指折りの観光スポットとなっており、島で作られている藻塩炊き式のの商品名にも「ローソク島」の名が使われている。その反面、長らく隠岐を代表する景勝地として知られていた白島海岸への遊覧船の客がローソク島観光に吸収されてしまっているとの指摘もある[4]
以前は個人観光客の依頼に基づきボランティアが案内する形態だったが、2002年平成14年)からは予約制の有料遊覧船が就航している。岩から20分ほどの距離にある重栖港と福浦港が主な遊覧船の出航地となっており、4月から10月のみ運航されている[5]

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地史・地質

竹島は、現代からおよそ460万年前から250万年前(新生代第三紀の鮮新世)の海底火山活動により誕生した火山島であり[4]、水深約2,000mの海底から噴出した溶岩が硬化したことにより形成された[5]。竹島の火山活動は約250万年前に停止した[7]。当初は1つの島塊であったが、その後の風化と浸食により2つの小島とその周辺の数十の小岩礁の構成となった[8]
岩石と地質構造の分析結果によると、竹島は単一の火山爆発によって形成されたものではなく、200万年以上の長い期間の断続的爆発と噴火によって形成された[9]。竹島は粗面岩、粗面安山岩、玄武岩質角礫岩、凝灰岩など計8種類の岩石によって構成されている[9]。竹島の下部は主に玄武岩質の集塊岩であり、上部は粗面岩質の集塊岩と凝灰岩が相互層を形成している[9]。岩石の年代は、竹島下部を構成する玄武岩が約460万年前、女島にある火口跡を満たす粗面安山岩が約270万年前であり、島の北西部には約250万年前に貫入した粗面岩が分布している[9]。また火山堆積層が厚く積もった地点があり、断層が2箇所発見されている[9]



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生態系

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竹島を主な生息地としていた絶滅したニホンアシカ
竹島周辺の海域は対馬暖流と北からのリマン海流の接点であり、魚介藻類が豊富な好漁場である。 竹島は伊豆諸島と並んでニホンアシカ (Zalophus californianus japonicus) の主要な繁殖地の一つであったが、1975年の目撃を最後にそれ以降の目撃例は報告されておらず、ほぼ絶滅したと考えられている。ニホンアシカは日本周辺の海に多く生息していたが、漁獲や駆除、乱獲により各地で絶滅。20世紀初頭には生息地は竹島などの一部地域に狭まり、その後も竹島では乱獲が行われた。絶滅の主たる原因は以上のような乱獲によるものだが、その他気候変動環境汚染、韓国によって竹島が要塞化されたことや在日米軍の軍事演習実施などの軍事関係も絶滅要因の一つとして指摘されている[13]
この他、哺乳類ではシャチなどの鯨類も近海を通過する。[14]

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年表

江戸時代

  • 1618年元和4年):伯耆国米子町人大谷甚吉村川市兵衛らが、幕府から許可を得て“竹島”(現在の鬱陵島)に渡航。
  • 1692年元禄5年):“竹島”(現在の鬱陵島)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、安龍福朴於屯の2名を米子に連行したのを契機に、日本と朝鮮との間に紛争が発生(竹島一件)。
  • 1696年(元禄9年):江戸幕府が“竹島”(現在の鬱陵島)への渡航を禁止。朝鮮の漁民安龍福が、鬱陵島ならびに于山島(韓国では于山島を独島と解釈している)は朝鮮領であると訴えるため、伯耆国へやって来た。
  • 1849年嘉永2年):フランスの捕鯨船 Liancourt 号が竹島(現在の竹島)を発見し、リアンクール島と名付けた(以後、日本では、りゃんこ島、リアンクール岩、リアンコールト列岩とも呼ばれる)。

明治以降

  • 1877年明治10年)3月29日:「竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事」とする太政官の指令が内務省に伝達された。(竹島外一島を参照)
  • 1900年(明治33年)10月25日大韓帝国勅令41号で鬱陵島江原道鬱島郡に昇格、同時に石島(韓国では石島を独島と解釈している)も韓国領とした。
  • 明治時代 隠岐五箇村久見在住の橋岡友次郎、池田吉太郎他、地元の有志が、竹島に出漁しアシカや海産物を採取していた[122]
  • 1904年(明治37年)
  • 1905年(明治38年)
    • 1月28日:日本政府が閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とした。
    • 2月15日:内務省訓第87号により閣議決定の内容について管内に告示するよう指示。
    • 2月22日:島根県告示第40号により閣議決定の内容を告示。
    • 5月3日:島根県が現地で面積などの調査を実施。
    • 5月17日:島根県が現地での調査結果に基づき総反別23町3反3畝歩と官有地台帳に登録し官有地に編入。
    • 5月27日 - 5月28日:日露間で日本海海戦が行われた。
    • 11月17日第二次日韓協約が締結(事実上、韓国が日本の保護国となった)。
  • 1906年(明治39年)
    • 3月28日:島根県関係者が欝島郡守の沈興澤に日本の竹島領有を伝える。翌日、沈興澤は江原道観察使署理春川郡守の李明来に、欝島郡所属の独島が日本領になったと報告[123]
    • 4月29日:李明来、議政府賛政大臣の朴斉純に日本の独島領有の件について注進。朴斉純は5月20日付の指令第三号で「独島領有の説は全く無根」とし、「該島の形便と日本人の行動」について調査報告を命じる。
    • 4月30日:中井養三郎を代表とする竹島漁猟合資会社の設立許可申請(同年7月2日許可)。
    • 7月13日:韓国の『皇城新聞』で、欝島郡の範囲について統監府に対し「東西が六十里(約24km)、南北が四十里(約16km)。合わせて二百余里(約80km)」と回答する記事が掲載される。
  • 1910年(明治43年)8月22日韓国併合ニ関スル条約に基づき、日本が大韓帝国を併合(韓国併合)。
  • 1914年大正3年):鬱陵島が江原道から慶尚北道へと移管。
  • 大正時代:隠岐五箇村久見在住の橋岡友次郎の後継者である橋岡忠重は、伯父の八幡長四郎、従兄の池田幸一と竹島出漁を毎年繰り返している[124]
  • 1935年昭和10年):隠岐五箇村の橋岡忠重が竹島の石を持ち帰り、義甥の脇田茂氏に贈る[125]
  • 1939年昭和14年)4月24日:行政区画につき五箇村議会が竹島を同村へ編入することを決議。
  • 1940年(昭和15年)8月17日:海軍用地として、竹島が島根県から海軍省(舞鶴鎮守府)へと移管。

ポツダム宣言受諾後

サンフランシスコ平和条約署名後

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隠岐の歴史(おきのれきし)。日本海に浮かぶ隠岐諸島は古代には隠岐国として自立的な地域を形成し、また遠流の国としても知られた。近代には島根県隠岐郡となったが、戦後は過疎化が進んでいる。


先史・古代

隠岐島後(どうご)の西郷町(現隠岐の島町)津井と五箇村(同)久見には、打製石器の原料としての黒曜石を産出する。紀元前5000年頃に縄文早期前期の遺跡が西郷町津井の近くに宮尾(みやび)遺跡が[1]、久見の近辺に中村湊(なかむらみなと)遺跡がある。これらに遺跡は石器製作跡と推測されている。
サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は広く山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及ぶ。弥生時代後期に水稲栽培が島に入り、島後南部の八尾川下流東岸に月無遺跡が出現する。隠岐には約200基の古墳が分布、八尾川下流に隠岐最大の前方後円墳である平神社古墳(へいじんじゃ、全長47メートル、長さ約8メートルの横穴式石室)がある。
大化の改新以前には億伎国造が設置され、玉若酢命神社宮司家である億岐家が国造家であったと考えられている。646年(大化2年)隠岐駅鈴2個及び隠岐国倉印が西郷町の玉若酢命神社におかれた[2]。隠岐国設置の年代は不明だが、大化改新後全国に国郡が置かれた時から存在したと考えられる。また、当時の木簡には「隠伎国」と記しているものもあり、設置当初にはこの名称が使われていた可能性もある。
隠岐国府は弥生時代から諸島最大の中心地であった島後の八尾川下流に置かれたが、具体的な所在地については下西の台地にあてる甲ノ原説と八尾平野に当てる説がある。国分寺国分尼寺についても所在地は必ずしも確定的ではない。古代の隠岐国は山陰道7国のうち下国で、都からの行程は上り35日、下り18日と定められていた。
日本海の孤島隠岐は古代から渤海新羅との交渉も記録されている。763年には渤海から帰国する日本使節・平群虫麻呂の一行が日本海で遭難して隠岐に漂着し、825年には渤海国使高承祖ら103人、861年には渤海国使李居正ら105人が隠岐国に来着している。日本と新羅との関係が緊張すると隠岐国にも影響があり、869年には隠岐に弩師(弓の軍事教官)が置かれ、870年には出雲石見、隠岐に新羅に対する警備を固めるよう命令が出された。888年には新羅国人35人が隠岐に漂着、943年には新羅船7隻が寄着するなど現実に新羅との交渉が生じた。

『和名抄』の郡郷

和名抄』によれば、隠岐国は4郡、12郷に分かれていた。
  • 知夫郡 知夫里島及び西ノ島
    • 宇良(うら)郷、由良(ゆら)郷、三田(みた)郷
  • 海部郡 中ノ島
    • 布施郷、海部(あま)郷、佐作(さつくり)郷
  • 周吉郡 隠岐島後(どうご)南部
    • 賀茂郷、庵可(あむか)郷、新野(にいの)郷
  • 穏地郡 隠岐島後北部
    • 都麻(つま)郷、河内(かむち)郷、武良(むら)郷
の各郷である。穏地郡は古い時代には役道郡と呼ばれていた。

延喜式内社

延喜式神名帳』に見える隠岐国式内社は16座15社あり、名神大社は以下の4社。
  • 水若酢神社 穏地郡 隠岐の島町(旧五箇地区)郡、隠

転載元: 隠岐に豊かな生物多様性と、経済の発展を 竹島の住所隠岐です

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