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[転載]GHQ焚書図書開示(#72仲小路彰の戦争の哲学)#32

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GHQ焚書図書開示(#72仲小路彰の戦争の哲学)#32
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<日独伊軍事協定の2年前(3年前だったかな?)まで、ドイツは中国国民党に軍事援助をしている。このあたりのことを詳しく知るために、検索して調べた。木庵>


ウィキペディアの記事

ドイツが国民党軍に援助中独合作(ちゅうどくがっさく、中:中合作、(「徳」はドイツのこと)独:Chinesisch-Deutsche Kooperation、英:Sino-German cooperation(Chineseを用いないので注意))とは、1910年代から1940年代にかけての中華民国とドイツの一連の軍事的・経済的協力関係を指す。独中合作とも。日中戦争直前の中華民国で、産業と軍隊の近代化に役立った。

1912年に中華民国が成立した直後の中国では、軍閥が跋扈し、列強の侵略に苛まれていたが、1928年の中国国民党による北伐の完成により一応ながらも国内統一された。しかし、その後満州事変などの日本の進出により、「中華民国による国家統一」が脅かされるようになった。

そのような背景において、軍隊と国防産業の近代化を必要とする中華民国と、資源の安定供給を必要としていたドイツの思惑が一致し、1920年代の終わりから1930年代の終わりにかけて、両国の関係は最高潮に達した。ナチスがドイツを支配するとさらに関係が強化されたが、日独防共協定が締結されると関係は弱められた。中国の近代化に大きな影響を与え、第二次上海事変で成果を発揮した。

1920年代の中独合作
ヴェルサイユ条約後のドイツ軍事産業の動向
ヴェルサイユ条約では、ドイツ軍は10万人に制限され、軍需産業は大幅に縮小されたため、ドイツの工業生産は大きく減少した。しかしドイツは軍事先進国として多くの製造会社が一流の軍用品生産技術を持っていたため、「外国に売るため」という条約制限の抜け穴をついて合法的な理由で、海外に合弁会社を設立し、そこで兵器を生産し、ソ連やアルゼンチンなどに売却した。このような海外移転案を出したのが、ワイマール共和国国軍(Reichswehr)兵務局長に就任していたハンス・フォン・ゼークトである。ソ連とは1922年にラパッロ条約を締結し、翌1923年には秘密軍事協定を結び、ドイツはソ連の重工業や軍事教育を支援し、ソ連は武器製造などを分担する。なお、ドイツ軍はほかにも、歩兵監リッター・フォン・ミッテルベルガー中将がトルコで軍事指導を、ハンス・クントがボリビア軍を指導し、パラグアイとのチャコ戦争において指揮をとるなどしていた。

中国とドイツの接近
袁世凱の死後、中国を支配していた北京政府は崩壊し、政権を狙う軍閥同士で内戦が始まった。そのため、ドイツの兵器メーカーは、中国に武器と軍事支援を提供する商権の拡大を画策した。

広州の国民党政府もドイツの支援を求め、ドイツで教育を受けた朱家驊が1926年から1944年までのドイツとの交渉をほとんど一手に引き受けた。中国が外交相手にドイツを望んだのは、ドイツが技術力を持っていたという以外にもいくつかの理由があった。

イギリスなどの国々は未だ帝国主義的であり、中国国内の反帝国主義運動の主対象となっていたが、これに対してドイツは第一次世界大戦で世界各地の植民地を失い最早帝国主義的政策の推進を諦めていたため、中国人に対する受けがよかった。また、ソ連のように政治に介入し、共産主義者の勢力の伸張を図ろうとしなかったことも理由に挙げられる。

また、国民党の蒋介石は、ドイツが近年になって国内統一を果たしたことが、中国再統一の上で大いに参考になると考えていた。このようなことから、中国はドイツが中国の国際的地位の向上を遂げる上で重要な役割を果たすと見なしていた。

マックス・バウアー訪中と軍事顧問団の形成
1926年、朱家驊はマックス・バウアーを招いて中国への投資の可能性について会談し、翌年広州を訪れたバウアーに蒋介石の軍事顧問になるよう依頼した。1928年秋、バウアーはドイツに戻り、中国の工業化に協力できる企業と、南京で蒋介石の常任顧問を引き受ける人物を探した。しかし、多くの企業は中国の政局が不安定であるため躊躇し、バウアーも1920年のカップ一揆に加わっていたと疑惑をもたれたことや、また、ドイツの中国への直接軍事協力はヴェルサイユ条約に抵触するとの懸念もあり、招致は困難であったが、約30人の将校とともに、マックス・バウアーは中国に戻り、軍事顧問団を形成した。これ以降、ドイツの最新兵器が中国にもたらされる。バウアーの国民政府への関与は、後の中独協力の基礎となる。

バウアーを団長とする軍事顧問団は、直ちに黄埔軍官学校の軍事教練に着手。バウアーは国民革命軍を縮小して少数精鋭部隊へと再編成を行った。翌1929年春には李宗仁らが蒋介石と対立した際には、軍事顧問団は、戦闘の指導を行った。この作戦指導中、バウアーは天然痘にかかり漢口で死去、上海に埋葬された。バウアー没後、ヘルマン・クリーベル中佐が顧問団長を継ぎ、1年五ヶ月間務めた。

1930年代の中独合作
1928年、国民政府の蒋介石の北伐の完成により、中国の統一は一応達成された。しかし、中独関係は世界恐慌の煽りを受けて1930年から1932年の間は停滞した。さらに、ドイツの産業界、貿易業、ワイマール共和国のドイツ国軍がめいめいに中国利権を獲得しようとしたため、中国における産業の開発は思うように進まなかった。1931年、満州事変で日本が中国軍を一掃し、翌1932年1月3日には満州を占領。同年1月28日には第1次上海事変が勃発する。このときドイツ軍事顧問団が指導した第87・88師団が参戦。その後、日本軍が熱河省に侵攻し、万里の長城付近で交戦した際には、ゲオルク・ヴェッツェル中将が中国軍を指揮している。

1933年にナチスが政権を取ると、ドイツの対中政策はより具体性を増した。ワイマール政府は中国を含む極東に表立って干渉しないことを原則としていた。しかし、ドイツ国防軍、産業界・商社は、政府の政策が中国貿易の利益を損なうことがないよう希望していた。その後ナチス・ドイツは、挙国一致での戦争経済推進を政策に掲げ、軍需資源の確保、特に中国で産出されるタングステンとアンチモンを重視したため、これ以降、ドイツの対中国政策が促進された。

フォン・ゼークトの軍事顧問団長就任と兵器貿易会社ハプロ設立
1933年5月、ドイツの元陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークトがヴェッツェル中将の招きで上海に赴き、経済・軍事に関して蒋介石の上級顧問となった。ゼークトは早くも翌6月、経済・軍事推進計画の概説を蒋介石に提出した。その中で、大規模で訓練が行き届かない現状の軍に替えて、小規模で、機動性に富み、装備が整った部隊を整える事を要求し、加えてゼークトは、軍隊は質によってその優劣が決まり、その質の差は将校の質から生じるゆえに、磐石な命令系統が軍隊の骨子を成す、という構想を説いた。ゼークトは、まず第一に、国民革命軍が蒋介石の号令の下に一様に訓練され統治される必要があり、組織をピラミッド型の中央集権構造に変える必要があるとした。これを達成するため、政府が将校団を厳選した、ドイツの「Eliteheer(エリート部隊)」に相当する「模範旅団」を作って、各地の軍団の訓練を担当させれば良いと提案した。

またゼークトは「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも蒋介石に進言し、「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵がい心を養うことだ」とも提案した。これをうけて蒋介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになる。

当時国際的に孤立しつつあったドイツからの支援により、他国からの軍事支援を受けることが難しくなったため、中国は国防産業の自給を進める必要があった。産業構造を効率的にするためには、中国の組織を変えるだけではなく、中国内のドイツの各組織を統一化する必要があった。

1934年1月、中国内のドイツ産業を統括する「Handelsgesellschaft für industrielle Produkte」(工業製品営利会社、ハプロ)がベルリンで設立された。設立者は退役大尉で武器商人であったハンス・クラインである。クラインはすでに1933年6月のゼークトが中国をはじめて訪れたときに同行していた。ハプロ設立の目的は、ドイツが国家として中国への干渉を深めている事に対しての外国からの抗議をかわすためでもあった。

同年4月には、ゼークト大将はヴェッツェル中将に代わって軍事顧問団団長に就任。さらに中国軍事委員会の総顧問に就任した。ゼークトは1935年3月に病気で帰国するまでに以下のような軍事改革を行った。
今後三年間にドイツ製武器を装備した二十個師団の形成

教導総隊の創設

中央士官学校、陸軍大学校、化学戦学校、憲兵訓練学校、防空学校などを南京に設立

ハプロ・中国間物資交換条約
1934年8月23日、ハプロと中国との間で、対等条約である「中国稀少資源及びドイツ農業・工業製品交換条約」が調印され、国民政府は、ドイツ製品とその開発支援と交換に中国産の軍需資源の提供を約束した。国民政府は、中国共産党との内戦で軍事費が増大して財政赤字が膨らんでおり、外国からの借款が難しい状況だったので、この物々交換は中国とドイツの双方に利益をもたらした。一方で、ドイツは、軍需資源を中国から確保できるようになったため、国際原料市場に依存する必要がなくなった。

ハプロとこの条約は、中国産業の推進だけではなく、軍制の再編成も促進した。この重要な条約を結んだ後、ゼークトは中国軍事顧問の地位をアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンに譲り、1935年3月にドイツに帰国した。帰国後、ゼークトは、ドイツは中国と協力すべきとヒトラーらナチス高官に進言、ヒトラーやドイツ国立銀行総裁で当時経済大臣であったシャハトらは賛同する。

中独協定と鉄道開発
1936年、中国の鉄道は、かつて孫文が思い描いていた10万マイル(16万キロメートル)とは程遠く、わずか1万マイルに過ぎなかった。さらに、これらの鉄道の半分は満洲にあり、日本が支配していた。中国の輸送の近代化が遅れていたのは、列強の都合によるところが大きい。1920年、イギリス、フランス、アメリカ、日本の銀行による「新四強国際借款団」の取り決めにより、中国への資本投資には制限があった。4カ国が中国に鉄道敷設のための資金を提供する場合には、他国の同意が必要と定められていた。さらには、世界恐慌で各国とも国力が落ちていたため、中国に資金提供することが困難となっていた。

1934年から1936年の間の中独協定は、中国の鉄道建設を大いに進めた。南昌、浙江、貴州の間に幹線線路が敷設された。揚子江南部の鉱山及び工業地帯を中国沿岸と繋ぐことで、中国とドイツの利害が一致したためこの開発が可能となった。さらにはこれら3つの鉄道は軍事にも活用された。杭州と貴陽を結ぶ鉄道は、軍事物資を輸送するため、1937年に上海と南京が陥落した後に作られたものである。一方、東部海岸と武漢地区を結ぶため、広州と漢口の間にも鉄道が敷かれた。この鉄道は、後の日中戦争で大いに活用されることになる。

軍事産業三ヵ年計画
中独合作で最も重要なのは、1936年からの軍事産業三ヵ年計画である。それは中国政府の国家資源委員会とハプロ・ドイツ軍によって推進された。この計画の目的は、短期的には日本に対抗できるだけの工業国となることであり、長期的には将来の中国産業を振興させることであった。この計画は、タングステンとアンチモンの独占開発、湖北省、湖南省、四川省のような地方都市に中央製鉄所、機械工場、発電所、化学工場を建設することなどが骨子となっていた。

1934年の交換条約の取り決めにより、中国はドイツから技術提供を受け、ドイツには稀少原料を提供した。これらの取引は中国の対独貿易赤字となることが多かったが、1932年から1936年にかけてタングステンの価格が2倍に上昇したため、いくらかは緩和された。

1936年にはヒトラーは中国に1億マルクの借款を与え、その借款で中国はドイツから武器を購入した。また、10年間にわたり毎年1,000万マルク相当の鉱物資源がドイツに提供されることとなった。

1936年1月、南京政府訪独団がドイツを訪れ、2000tのタングステンを提供している。同年4月8日には、独中間で借款貿易協定がむすばれ、ドイツは中国政府に1億マルクの追加融資を行った。推進者は国防省官房長のヴァルター・フォン・ライヒェナウ中将であった。ライヒェナウはクラインらと中国軍備拡張計画を練り、六個師団からなる十万の軍、将来的には30万にまで拡張する新たな軍事顧問団の創設を構想した。ほか沿岸部防衛のため、四隻の高速魚雷艇の輸出(最終的には50隻まで提供)、揚子江防衛のための15冕ぢ罎筏〕詆神瀏魘ゝ襪垢觀弉茲任△辰拭7月には三ヵ年計画を開始、クルップとシーメンスによる中央鋼鉄廟・兵器工場、化学メーカーIGファルベンによる爆薬研究所、ダイムラー・ベンツによる国有自動車会社などの建設をすすめた。

これにより、1931年には中国の貿易額において対ドイツが米日英に次いで5%を占めていたのに対して、1936年には17%を占めるようになり、英国を抜いて日本に並び、3位となった[。

ファルケンハウゼンの対日戦術
1935年1月、ファルケンハウゼンは、中国国防基本方針と題する対日戦略案を蒋介石に提出する。そのなかで、日本が攻撃してきたとしても、日本はソ連対策をとらざるをえず、また中国に利害をもつ英米とも対立すること、そして日本はそのような全面的な国際戦争には耐えられないこと、従って、中国は長期戦に持ち込み、できるだけ多くの外国を介入させることをファルケンハウゼンは提案した。また同年10月1日には、漢口と上海にある租界地の日本軍を奇襲し、主導権を握ることを進言している。ファルケンハウゼンは中国にとっての第一の敵を日本、第二を共産党ととらえていたのである。しかし、蒋介石や何応欽らは当初、第一の敵を共産党とみなしていたため、ファルケンハウゼンの進言に反対した。しかし1936年4月1日にファルケンハウゼンは「欧州で第二次大戦が開始し、英米の手が塞がらないうちに、対日戦争を踏み切るべきだ」とさらに進言した。

かつてゼークトの立てた計画はドイツの軍事理論に基づいており、国民革命軍を十分な装備と訓練を受けた60個師団へと縮小させることを要求していた。しかし、軍のどの部門を廃止かが問題となっていた。黄埔軍官学校で訓練された将校達は、各地の元軍閥の将校より優れており、蒋介石の政治的優位を支えるのに役立った。国民革命軍の内、8個師団はドイツ式に訓練されて主力となった。この改革は、蒋介石が廬溝橋事件後に日本に対する徹底抗戦に踏み切る決断の要因のひとつとなった可能性がある。しかし、国民革命軍はまだ強化途中であり日本軍に対抗できるほどの力を持っていなかった。蒋介石は、幕僚とファルケンハウゼンの反対にも関わらず、1937年の上海戦に全兵力の3分の1を投入し、貴重な戦力を失った。
ファルケンハウゼンは蒋介石に対し、消耗戦に持ち込んで日本軍を疲弊させることを提案した。それは、黄河の防衛線を守ること、ただし当面の間は黄河北部を攻撃しないこと、そのために山東省を含む中国北部を放棄すること、撤退を急がないことなどから成っていた。さらに、鉱業地帯、海岸、河川に陣地を構築し、ゲリラ作戦を取ることを勧めた。そうすれば、日本が徐々に消耗していくだろうと説明した。ゲリラ戦は、第二次国共合作で提携した共産党の得意技であった。

ファルケンハウゼンは、中国の国民革命軍が日本軍に抵抗できるだけの装備を確保するのは当面は難しいだろうと予想していた。中国の産業は近代化を始めたばかりであり、ドイツ国防軍並の装備をするには時間がかかると考えていた。そのためファルケンハウゼンは、浸透戦術を取り、小型兵器を装備した機動部隊の設立が必要だと論じた。


ドイツによる中国国民党軍の軍備再編
ドイツの軍事援助は、人材育成と組織整備だけでなく、軍需物資提供に及んでいた。ゼークトの分析によると、中国式兵器の8割は近代戦で使えない代物だった。中独合作の一環として、揚子江沿いにある既存の兵器廠を発展させていく方針が盛り込まれていた。例えば、漢陽兵工廠は、1935年から1936年にかけて最新設備に作りかえられた。この工廠で、二四式機関銃、8cm迫撃砲の他、マウザー製Kar98k小銃をモデルとして、蒋介石の名前を取った中正式歩兵銃が作られた。

中正式歩兵銃と漢陽88式歩兵銃は、国民革命軍全軍に配布され、有力な火器として使用された。また別の工場では、ガスマスクの製造と、最終的には中止されたものの、マスタードガスの製造プラントの建設が計画された。1938年5月、湖南省に20mm、37mmおよび75mm砲の生産工場が作られた。1936年後半、南京近郊に双眼鏡、狙撃銃用の照準器等の光学部品工場が作られた。

国民革命軍が購入したハインケル111A
全部で11機購入し、その後中国航空(中国語版)で民用に供用された
このほかにも、MG34、各種口径の山砲、装甲偵察車Sd Kfz 222などの工場が作られた。軍事研究所もいくつか作られた。兵工廠研究所、イーゲー・ファルベン社指導で作られた化学研究所などである。これらの多くはドイツで教育を受けた中国人技術者により運営された。一方、1935年から1936年にかけて、中国はドイツにM35型シュタールヘルム31万5千個と、Gewehr 88小銃、Gewehr 98小銃、モーゼルC96型拳銃多数を注文した。さらに、少量ではあるが、ヘンシェルHs 123や、ユンカース、ハインケル、フォッケウルフの航空機を購入し、一部は中国国内で組み立てている。さらに、ラインメタル、クルップから3.7 cm PaK 36や15cm sFH 18などの榴弾砲、対戦車砲、山砲、さらにはI号戦車などの装甲戦闘車両を購入した。

これらの近代化は直後の日中戦争で効果を発揮し、殊にドイツの支援で上海一帯に構築された陣地の攻略などで日本軍は予想以上の犠牲を払うこととなった。国民革命軍は多くの主要都市の占領を許したが、士気は高まった。一方で、日本軍は国民政府が遷都した重慶をついに攻略することはできなかった。

日独防共協定
1937年5月には軍事顧問団は100名を超えるまで膨れ上がり、ナチス政権発足前の1928年の30名から大きく増加していた。ヒトラーの外交政策が変更され日独防共協定が締結されると、中国とドイツの関係は弱められていった。ヒトラーは、ソ連のボリシェヴィキ主義に対抗するには日本の方が頼りになると考え、同盟国に日本を選んだ。

さらに中国が1937年8月21日に結んだ中ソ不可侵条約によりヒトラーの態度は硬化し、中国系ロビイストやドイツ人投資家から執拗な抗議を受けても変わらなかった。ヒトラーは、中国からの既に注文済みの品の輸出の妨害こそしなかったものの、以後新たな対中輸出が認められることはなかった。

ドイツは在華大使トラウトマンを介して、中国と日本の和平交渉を仲介しようとしたが、1937年12月に南京が陥落してからは、両国が納得できるような和解勧告をすることはできず、ドイツ仲介による休戦の可能性は全く失われた。1938年前半に、ドイツは満州国を正式に承認した。その年の4月、ヘルマン・ゲーリングにより、中国への軍需物資の輸出が禁止された。さらに同5月、日本の要請を聞き入れ、ドイツは顧問団を中国から引き上げた。
ドイツが親交国を中国から日本に切り替えたことは、ドイツの経済界を失望させた。中国との交易に比べれば、日本と満洲国から得られる経済効果ははるかに小さかったためである。また、中国在住のドイツ人のほとんどは、国民政府を支持した。例えば、漢口のドイツ人は現地の赤十字に対し、中国人と他の外国人からの合計以上の寄付を行っていた。ドイツの軍事顧問達は、国民政府に同情的だった。ファルケンハウゼンは、1938年6月末日に退去を命じられていたが、蒋介石に対して、日本に味方することだけはないと断言した。その一方で、ナチス幹部達は、日本を中国で勃興する共産主義に対する最後の防波堤と位置づけていた。

実際にも、ドイツが日本と手を組んだことは、必ずしも成功とは言えなかった。日本が北中国及び満洲国の権益を独占したため、中国におけるドイツの権益は他国並みにまで落ち込んだ。1938年中ごろ、これらの経済問題が未解決なまま、ヒトラーはソ連と独ソ不可侵条約を締結し、1936年に締結された日独防共協定が事実上無効となった。ソ連は満州国の物資をドイツに送るのにシベリア鉄道の利用を認めたが、当初からその量は少なく、ソ連、ドイツ、日本の交流が浅いためにさらに減少することになった。1941年、ドイツがソ連に宣戦布告すると、ドイツとアジアの経済交流は完全に無くなった。

中国とドイツの交流再開は1941年までは模索されていた。しかし、ドイツが1940年のバトル・オブ・ブリテンでイギリスを攻めあぐねているうちに、ヒトラーの興味を奪ってしまった。ドイツはその年の終わりに日独伊三国軍事同盟を締結した。それを受けてドイツは1941年7月、重慶に移っていた国民政府と手を切り、南京の汪兆銘政権を中国の公式政府として承認した。太平洋戦争の勃発を契機にして、中国は連合国の一員として1941年12月9日にドイツに宣戦布告した

後世への影響
1930年代の中独合作は、孫文が理想とした「中国の国際化」において最も成功したものだった。その関係は短期間で終わったが、国民党政府が国共内戦に敗れて台湾に撤退した後に関係が再開した。台湾(中華民国)の政府高官や大臣の多くがドイツで教育を受け、その他にも学者や蒋介石の息子蒋緯国のような軍当局者の多くがドイツで学んだ。戦後、台湾が急速な産業発展を遂げたのは、1936年からの三ヵ年計画のひとつの成果ともいえる。中国とナチス・ドイツのこの緊密な協力関係は、中国側の歴史資料では殆ど扱われていない。理由を北村稔氏は、「『日本のファシズム』を抗日戦争により打倒したと主張する国民党には、『日本のファシズム』の盟友で『歴史の罪人』となったナチス・ドイツとの親密な関係は、第二次大戦後には『触れてはいけない過去』になった」からだと、解説する。


写真:1928年、ドイツの工場を視察する蒋作賓ら訪独団の一行とヒトラーの許を訪問した孔祥熙

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転載元: 木庵先生の独り言


[転載]駐車できない場所と駐車方法

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○ 除外標章を掲出していても駐車できない場所について
駐車禁止から除外されるのは、公安委員会が道路標識等により駐車を禁止した場所又は時間制限駐車区間(パーキング・メーター及びパーキング・チケット発給設備の設置場所)に限ります。ただし、時間制限駐車区間については、指定された駐車枠(白線)内に指定された方法により駐車する以外は、除外の対象とはなりません。
[駐車違反となる場所・方法(除外されない場所・方法)の例示のとおり]

駐車違反となる場所・方法(除外されない場所・方法)の例示

・交差点やその前後5メートル以内
・横断歩道やその前後5メートル以内
・自転車横断帯やその前後5メートル以内
・踏切やその前後10メートル以内
・まがりかどから5メートル以内
・安全地帯の左側やその前後10メートル以内
・バス停などの停留所から10メートル以内
・自動車用出入口から3メートル以内
・道路工事区域から5メートル以内
・消防用器具庫から5メートル以内
・消火栓から5メートル以内
・火災報知器から1メートル以内
・駐停車禁止標識
・道路の右側余地が3.5メートル未満
・歩道上駐車や右側駐車
・二重駐車
・斜め駐車
・駐停車禁止路側帯内や歩行者専用路側帯内の駐車
・路側帯設置場所で法定方法に従わない駐車
・パーキングメーター(チケット)での指定部分・方法に従わない駐車

※ 他にも駐車違反となる場所や駐車の方法があります。駐車する前に、その場所が「除外される場所」か必ず確かめましょう。



標章の正しい使い方

駐車禁止から除外されるのは、次の1~4の条件をすべて満たしている場合に限ります。条件を満たさない標章の使用は、駐車違反や駐停車違反として放置車両確認標章の取り付け、反則告知、レッカー移動などの措置を受ける場合があります。
  1. 本人が現に使用中の車両であること
    (注)「現に使用中」とは、本人が運転し駐車した場合、又は本人を同乗させ運転し、駐車した場合をいいます。
    (注)次のような場合は、本人が現に使用中の車両とは認められません。
    • 本人を自宅に残したまま、家の者が本人の薬をもらうため駐車し、病院に行っていた場合
    • 入院中の本人の依頼で買い物に行き、出先で駐車していた場合など
  2. 有効期限内の標章を掲出していること
  3. 駐車時、車両の前面の見やすい箇所に掲出していること
  4. 駐車禁止の道路標識や道路標示(黄色の破線)のある場所で、下記に記載された場所でなく、かつ、駐車の方法に従っていること

駐車できない場所と駐車方法

駐車も停車も禁止している場所(道路交通法第44条等)

  • 道路標識や道路標示により駐車及び停車が禁止されている場所
  • 交差点、横断歩道、自転車横断帯、踏切、軌道敷内、坂の頂上付近、勾配の急な坂又はトンネル
  • 交差点の側端又は道路の曲がり角から5メートル以内の部分
  • 横断歩道又は自転車横断帯の前後からそれぞれ前後に5メートル以内の部分
  • 安全地帯が設けられている道路の当該安全地帯の左側の部分及び当該部分の前後の側端からそれぞれ前後に10メートル以内の部分
  • 乗合自動車の停留所又はトロリーバス若しくは路面電車の停留場を表示する標示柱又は標示板が設けられている位置から10メートル以内の部分(当該停留所又は停留場にかかる運行系統に属する乗合自動車、トロリーバス又は路面電車の運行時間中に限る。)
  • 踏切の前後の側端からそれぞれ前後に10メートル以内の部分
  • 高速自動車道、自動車専用道路(パーキングエリア等を除く。道路交通法第75条の8)

駐車できない場所と駐車方法(図例)

駐車も停車も禁止している場所(道路交通法第44条等参照)

1. 駐停車禁止標識や道路標示(黄色の実線)のある場所


イメージ



2. 交差点、横断歩道、自転車横断帯、軌道敷内、坂の頂上付近、勾配の急な坂、トンネル
3. 交差点の側端又は道路の曲がり角から5メートル以内
4. 横断歩道又は自転車横断帯の前後の側端からそれぞれ前後に5メートル以内
5. 安全地帯の左側とその前後の側端からそれぞれ前後に10メートル以内
6. バス、路面電車の停留所(停留場)の標示柱(標示板)から10メートル以内
7. 踏切およびその前後の側端からそれぞれ前後に10メートル以内
8. 高速自動車道、自動車専用道路(パーキングエリア等を除く。道路交通法第75条の8)

駐車を禁止している場所(道路交通法第45条)

  • 人の乗降、貨物の積み下ろし、駐車又は自動車の格納もしくは修理のため道路外に設けられた施設又は場所の道路に接する自動車用の出入り口から3メートル以内の部分
  • 道路工事が行われている場合における当該工事区域の側端から5メートル以内の部分
  • 消防用機械器具の置場若しくは消防用防火水槽の側端又はこれらの道路に接する出入り口から5メートル以内の部分
  • 消火栓、指定消防水利の標識が設けられている位置又は消防用防火水槽の吸水口若しくは吸管投入孔から5メートル以内の部分
  • 火災報知器から1メートル以内の部分
  • 右側の道路上に3.5メートル以上の余地がない場合

駐車を禁止している場所(道路交通法第45条参照)

1. 駐車場や車庫などの自動車用の出入り口から3メートル以内
2. 道路工事区域の側端から5メートル以内
3. 消防用機械器具置場や消防用防火水槽の側端又はその出入り口から5メートル以内
4. 消火栓や指定消防水利の標識および消防用防火水槽の吸水口や吸管投入孔から5メートル以内
5. 火災報知器から1メートル以内
6. 車両を駐車した場合に、車両右側の道路上に3.5メートル以上の余地がない場所

定められた駐車の方法に従うこと(道路交通法第47条)

  • 車両は、駐車するときは、道路の左側端に沿い、かつ、他の交通の妨害とならないようにしなければならない。
  • 幅75センチ以下の路側帯、駐停車禁止路側帯(実線と破線2本)、歩行者用路側帯(実線2本)には駐車できない。
  • 幅75センチ以上の広い路側帯は車両を入れて駐車できるが、この場合、車両の左側に75センチの余地を空けなければならない。
  • 道路標示で駐車の方法が指定されているときは、その方法に従うこと 

駐車や停車の方法に従わなければならない場合(道路交通法第47条参照)

1. 車両を駐車する時は、道路の左側端に沿ってください。(歩道上駐車、右側駐車、斜め駐車は違反になります)
2. 幅75センチ以下の路側帯、駐停車禁止路側帯(実線と破線2本)、歩行者用路側帯(実線2本)には駐停車できません。
3. 幅75センチ以上の広い路側帯は車両を入れて駐車できますが、この場合、車両の左側に75センチの余地を空けてください。
4. 道路標示で駐停車の方法が指定されているときは、その方法に従ってください。
(注)時間制限駐車区間駐車枠(パーキング・メーター、パーキング・チケット)で標章を掲出して駐車する場合は、メーター、チケットの作動および発給手数料(300円)は要りませんが、できる限り短時間の利用をお願いします。 


保管場所としての道路の使用禁止

駐車禁止除外措置については、保管場所法(自動車の保管場所の確保等に関する法律)の規定は適用されません。自宅前道路等を保管場所に使用しないでください。
違法駐車問題が大きな社会問題となっている現状を十分認識され、必要最小限度の標章使用に努めていただき、良好な駐車秩序の確立にご協力をお願いします。
保管場所としての道路の使用禁止(保管場所法第11条第1項及び第2項)
  • 第1項(車庫代わり駐車)→3月以下の懲役又は20万円以下の罰金
  • 第2項(長時間駐車)→20万円以下の罰金


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[転載]駐車できない場所と駐車方法

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○ 除外標章を掲出していても駐車できない場所について
駐車禁止から除外されるのは、公安委員会が道路標識等により駐車を禁止した場所又は時間制限駐車区間(パーキング・メーター及びパーキング・チケット発給設備の設置場所)に限ります。ただし、時間制限駐車区間については、指定された駐車枠(白線)内に指定された方法により駐車する以外は、除外の対象とはなりません。
[駐車違反となる場所・方法(除外されない場所・方法)の例示のとおり]

駐車違反となる場所・方法(除外されない場所・方法)の例示

・交差点やその前後5メートル以内
・横断歩道やその前後5メートル以内
・自転車横断帯やその前後5メートル以内
・踏切やその前後10メートル以内
・まがりかどから5メートル以内
・安全地帯の左側やその前後10メートル以内
・バス停などの停留所から10メートル以内
・自動車用出入口から3メートル以内
・道路工事区域から5メートル以内
・消防用器具庫から5メートル以内
・消火栓から5メートル以内
・火災報知器から1メートル以内
・駐停車禁止標識
・道路の右側余地が3.5メートル未満
・歩道上駐車や右側駐車
・二重駐車
・斜め駐車
・駐停車禁止路側帯内や歩行者専用路側帯内の駐車
・路側帯設置場所で法定方法に従わない駐車
・パーキングメーター(チケット)での指定部分・方法に従わない駐車

※ 他にも駐車違反となる場所や駐車の方法があります。駐車する前に、その場所が「除外される場所」か必ず確かめましょう。



標章の正しい使い方

駐車禁止から除外されるのは、次の1~4の条件をすべて満たしている場合に限ります。条件を満たさない標章の使用は、駐車違反や駐停車違反として放置車両確認標章の取り付け、反則告知、レッカー移動などの措置を受ける場合があります。
  1. 本人が現に使用中の車両であること
    (注)「現に使用中」とは、本人が運転し駐車した場合、又は本人を同乗させ運転し、駐車した場合をいいます。
    (注)次のような場合は、本人が現に使用中の車両とは認められません。
    • 本人を自宅に残したまま、家の者が本人の薬をもらうため駐車し、病院に行っていた場合
    • 入院中の本人の依頼で買い物に行き、出先で駐車していた場合など
  2. 有効期限内の標章を掲出していること
  3. 駐車時、車両の前面の見やすい箇所に掲出していること
  4. 駐車禁止の道路標識や道路標示(黄色の破線)のある場所で、下記に記載された場所でなく、かつ、駐車の方法に従っていること

駐車できない場所と駐車方法

駐車も停車も禁止している場所(道路交通法第44条等)

  • 道路標識や道路標示により駐車及び停車が禁止されている場所
  • 交差点、横断歩道、自転車横断帯、踏切、軌道敷内、坂の頂上付近、勾配の急な坂又はトンネル
  • 交差点の側端又は道路の曲がり角から5メートル以内の部分
  • 横断歩道又は自転車横断帯の前後からそれぞれ前後に5メートル以内の部分
  • 安全地帯が設けられている道路の当該安全地帯の左側の部分及び当該部分の前後の側端からそれぞれ前後に10メートル以内の部分
  • 乗合自動車の停留所又はトロリーバス若しくは路面電車の停留場を表示する標示柱又は標示板が設けられている位置から10メートル以内の部分(当該停留所又は停留場にかかる運行系統に属する乗合自動車、トロリーバス又は路面電車の運行時間中に限る。)
  • 踏切の前後の側端からそれぞれ前後に10メートル以内の部分
  • 高速自動車道、自動車専用道路(パーキングエリア等を除く。道路交通法第75条の8)

駐車できない場所と駐車方法(図例)

駐車も停車も禁止している場所(道路交通法第44条等参照)

1. 駐停車禁止標識や道路標示(黄色の実線)のある場所


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2. 交差点、横断歩道、自転車横断帯、軌道敷内、坂の頂上付近、勾配の急な坂、トンネル
3. 交差点の側端又は道路の曲がり角から5メートル以内
4. 横断歩道又は自転車横断帯の前後の側端からそれぞれ前後に5メートル以内
5. 安全地帯の左側とその前後の側端からそれぞれ前後に10メートル以内
6. バス、路面電車の停留所(停留場)の標示柱(標示板)から10メートル以内
7. 踏切およびその前後の側端からそれぞれ前後に10メートル以内
8. 高速自動車道、自動車専用道路(パーキングエリア等を除く。道路交通法第75条の8)

駐車を禁止している場所(道路交通法第45条)

  • 人の乗降、貨物の積み下ろし、駐車又は自動車の格納もしくは修理のため道路外に設けられた施設又は場所の道路に接する自動車用の出入り口から3メートル以内の部分
  • 道路工事が行われている場合における当該工事区域の側端から5メートル以内の部分
  • 消防用機械器具の置場若しくは消防用防火水槽の側端又はこれらの道路に接する出入り口から5メートル以内の部分
  • 消火栓、指定消防水利の標識が設けられている位置又は消防用防火水槽の吸水口若しくは吸管投入孔から5メートル以内の部分
  • 火災報知器から1メートル以内の部分
  • 右側の道路上に3.5メートル以上の余地がない場合

駐車を禁止している場所(道路交通法第45条参照)

1. 駐車場や車庫などの自動車用の出入り口から3メートル以内
2. 道路工事区域の側端から5メートル以内
3. 消防用機械器具置場や消防用防火水槽の側端又はその出入り口から5メートル以内
4. 消火栓や指定消防水利の標識および消防用防火水槽の吸水口や吸管投入孔から5メートル以内
5. 火災報知器から1メートル以内
6. 車両を駐車した場合に、車両右側の道路上に3.5メートル以上の余地がない場所

定められた駐車の方法に従うこと(道路交通法第47条)

  • 車両は、駐車するときは、道路の左側端に沿い、かつ、他の交通の妨害とならないようにしなければならない。
  • 幅75センチ以下の路側帯、駐停車禁止路側帯(実線と破線2本)、歩行者用路側帯(実線2本)には駐車できない。
  • 幅75センチ以上の広い路側帯は車両を入れて駐車できるが、この場合、車両の左側に75センチの余地を空けなければならない。
  • 道路標示で駐車の方法が指定されているときは、その方法に従うこと 

駐車や停車の方法に従わなければならない場合(道路交通法第47条参照)

1. 車両を駐車する時は、道路の左側端に沿ってください。(歩道上駐車、右側駐車、斜め駐車は違反になります)
2. 幅75センチ以下の路側帯、駐停車禁止路側帯(実線と破線2本)、歩行者用路側帯(実線2本)には駐停車できません。
3. 幅75センチ以上の広い路側帯は車両を入れて駐車できますが、この場合、車両の左側に75センチの余地を空けてください。
4. 道路標示で駐停車の方法が指定されているときは、その方法に従ってください。
(注)時間制限駐車区間駐車枠(パーキング・メーター、パーキング・チケット)で標章を掲出して駐車する場合は、メーター、チケットの作動および発給手数料(300円)は要りませんが、できる限り短時間の利用をお願いします。 


保管場所としての道路の使用禁止

駐車禁止除外措置については、保管場所法(自動車の保管場所の確保等に関する法律)の規定は適用されません。自宅前道路等を保管場所に使用しないでください。
違法駐車問題が大きな社会問題となっている現状を十分認識され、必要最小限度の標章使用に努めていただき、良好な駐車秩序の確立にご協力をお願いします。
保管場所としての道路の使用禁止(保管場所法第11条第1項及び第2項)
  • 第1項(車庫代わり駐車)→3月以下の懲役又は20万円以下の罰金
  • 第2項(長時間駐車)→20万円以下の罰金


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[転載]「駐車禁止除外車標章」を偽造し、取り締まり中に使用 大阪府警が駐車監視員を書類送検

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「駐車禁止除外標章」を偽造し、取り締まり中に使用 大阪府警が駐車監視員を書類送検

産経ニュース - ‎2017年3月13日‎
「駐車禁止除外車標章」を偽造し、取り締まり中に使用 大阪府警が駐車監視員を書類送検
障害者用の「駐車禁止除外指定車標章」を偽造して使ったとして、大阪府警は14日、有印公文書偽造・同行使と偽計業務妨害の疑いで、大阪府東大阪市の駐車監視員の男(71)を書類送検したと明らかにした。「駐車料金を浮かせたかった」と容疑を認めている。送検は13日付。
 送検容疑は、障害者の親族がいる同僚監視員の男(57)=同府八尾市=から標章を借りてカラーコピーした上、1月25日、大阪市北区西天満の府道で、自分の車を路上駐車する際に掲げたなどとしている。
 府警によると、男はこの日行われた駐車違反の府内一斉取り締まりに参加した際に偽造標章を使用し、警察官が発見した。
 府警は同僚の男も偽計業務妨害幇助(ほうじょ)の疑いで書類送検。2人は昨年1月から、府警から駐車監視員の委託を受けている会社で勤務し、同社は今年1月下旬、2人を解任した。
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駐禁除外標章を6回も再交付…知人に渡した疑い 聴覚障害者の50代男を大阪府警が書類送検

 

 
 身体障害者用の「駐車禁止除外指定車標章」を知人に渡して不正に使わせたとして、大阪府警曽根崎署は14日、偽計業務妨害幇助(ほうじょ)容疑で、聴覚障害者の50代の男=大阪市西成区=を書類送検した。
 標章を他人に使わせたとして障害者本人を摘発するのは府警では初めて。男は標章を紛失したとして6回再交付を受けており、同署は紛失分についても不正がなかったか調べる方針。
 書類送検容疑は昨年4月、自身が交付を受けた標章を知人の自営業の男(54)=同市城東区=に渡して不正に使わせたとしている。
 同署によると、障害者の男は「知人には買い物や通院で車に乗せてもらうなど、世話になっていたので渡した」などと容疑を認めているという。
 自営業の男については、他人の標章を不正使用したとして、偽計業務妨害容疑で同署が9月に逮捕していた。





死亡祖父の駐禁除外標章で路駐 容疑の29歳男を逮捕 大阪府警南署


 亡くなった祖父名義の「駐車禁止除外指定車標章」を使って路上駐車をしたとして、大阪府警南署は15日、偽計業務妨害の疑いで大阪市中央区松屋町、会社社長、福田悠一容疑者(29)を逮捕、送検したと発表した。
 同署によると、祖父は身体障害者用の標章を取得していたが、昨年9月に死亡していた。福田容疑者は「祖父が亡くなる少し前から標章を使っていた」と容疑を認めているという。
 送検容疑は今年7月6日と同14日、自宅近くの路上で、祖父名義の標章を掲げて車を止めたとしている。
 同署によると、本人が死亡するなどして標章が不要になった場合、返納しなければならない。6月に「常習的に路上駐車をしている車がある」と匿名の通報があり、捜査していた。
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    matome.naver.jp/odai/2146189642239688101 - キャッシュ
    「駐車禁止除外指定車標章」の不正使用が大阪を中心に各地で相次いでいるようです。 この問題はテレビ番組でも取り上げられ、ネットでは、批判の声が上がっています。
    chiebukuro.yahoo.co.jp > 知恵袋トップ > タグ - キャッシュ
    駐車禁止除外標章不正利用してるやつらは死刑でいいですよね? 質問日時:2016/ 04/29ID非公開さん回答数:1 ... ニセ障害者の不正利用 駐車禁止除外標章や生活保護 など この際、インチキを駆除すれば? 質問日時:2016/07/29ID非公開さん回答数:1.
    www.sankei.com/west/news/160421/wst1604210016-n1.html
    2016年4月21日 - 身体障害者らに交付される「駐車禁止除外指定車標章」の不正使用が横行している として、大阪府警は20日、府内全域で初の一斉取り締まりを実施し、不正を確認した72 件を…




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    www.car-hokengd.com > トップ > 交通事故や罰則・行政処分 - キャッシュ
    歩行が困難な身体障害者は、実際に使っている車に対して、駐車禁止の標識がある 場所や、パーキングメーター・パーキングチケット設備のある場所に駐車をしても、駐車 違反の取締まりを受けなくなる「駐車禁止除外指定車標章」を交付してもらうことが出来 ます ...
    www.media116.jp/society/1920 - キャッシュ
    4月20日、「駐車禁止除外指定車標章」の不正使用に対し、府警が初の一斉取り締まり !。Media116 (メディア116)は、障がい者(身体障害者/発達障害者/知的障害者)の 日常生活全般の情報を発信するメディアです。
    www3.nhk.or.jp/kansai-news/20170314/4723321.html - キャッシュ
    2017年3月14日 - 警察から委託を受けて駐車違反の取り締まりを行う監視員が、障害がある人に交付され る駐車禁止を除外する標章を、大阪・北区の路上で、不正に使ったとし…





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    www.think-sp.com/2016/05/06/tw-tyuusya-fusei/ - キャッシュ
    2016年5月9日 - 駐車禁止除外指定車標章不正利用し、駐車違反する人が多いことから、警察ではこう いった不正使用の摘発を強化しています。
    www.wheel-to-wheel.com/jogaisiteisya.htm - キャッシュ
    車いす移動車」、「患者輸送車」の車両を新たに標章の交付対象として追加。 運転者の 連絡先と用務先を標章と共に表示。 駐車禁止除外標章の交付を受けた者の遵守事項 及び標章の不正使用した悪質な者に対しては、 標章を返納しなければならない。
    news.livedoor.com/article/detail/11503541/ - キャッシュ
    2016年5月10日 - 大阪で「駐車禁止除外指定車標章(除外標章)」の不正使用が横行している。除外標章を掲示した車の約4割が不正使用という衝撃的なデータも飛び出した。障害者の親族が 買い物などの私用で悪用するケースが多いとみられている.


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    駐車できない場所と駐車方法(図例)

    駐車も停車も禁止している場所(道路交通法第44条等参照)

    1. 駐停車禁止標識や道路標示(黄色の実線)のある場所
    2. 交差点、横断歩道、自転車横断帯、軌道敷内、坂の頂上付近、勾配の急な坂、トンネル
    3. 交差点の側端又は道路の曲がり角から5メートル以内
    4. 横断歩道又は自転車横断帯の前後の側端からそれぞれ前後に5メートル以内
    5. 安全地帯の左側とその前後の側端からそれぞれ前後に10メートル以内
    6. バス、路面電車の停留所(停留場)の標示柱(標示板)から10メートル以内
    7. 踏切およびその前後の側端からそれぞれ前後に10メートル以内
    8. 高速自動車道、自動車専用道路(パーキングエリア等を除く。道路交通法第75条の8)

    駐車を禁止している場所(道路交通法第45条参照)

    1. 駐車場や車庫などの自動車用の出入り口から3メートル以内
    2. 道路工事区域の側端から5メートル以内
    3. 消防用機械器具置場や消防用防火水槽の側端又はその出入り口から5メートル以内
    4. 消火栓や指定消防水利の標識および消防用防火水槽の吸水口や吸管投入孔から5メートル以内
    5. 火災報知器から1メートル以内
    6. 車両を駐車した場合に、車両右側の道路上に3.5メートル以上の余地がない場所

    停車及び駐車を禁止する場所
    第四十四条 車両は、道路標識等により停車及び駐車が禁止されている道路の部分及び次に掲げるその他の道路の部分においては、法令の規定若しくは警察官の命令により、又は危険を防止するため一時停止する場合のほか、停車し、又は駐車してはならない。
     
     交差点、横断歩道、自転車横断帯、踏切、軌道敷内、坂の頂上付近、勾配の急な坂又はトンネル
     
     交差点の側端又は道路のまがりかどから五メートル以内の部分
     
     横断歩道又は自転車横断帯の前後の側端からそれぞれ前後に五メートル以内の部分
     
     安全地帯が設けられている道路の当該安全地帯の左側の部分及び当該部分の前後の側端からそれぞれ前後に十メートル以内の部分
     
     乗合自動車の停留所又はトロリーバス若しくは路面電車の停留場を表示する標示柱又は標示板が設けられている位置から十メートル以内の部分
     
     踏切の前後の側端からそれぞれ前後に十メートル以内の部分
       (罰則 第百十九条の二第一項第一号、同条第二項、第百十九条の三第一項第一号、同条第二項)

    駐車や停車の方法に従わなければならない場合(道路交通法第47条参照)

    1. 車両を駐車する時は、道路の左側端に沿ってください。(歩道上駐車、右側駐車、斜め駐車は違反になります)
    2. 幅75センチ以下の路側帯、駐停車禁止路側帯(実線と破線2本)、歩行者用路側帯(実線2本)には駐停車できません。
    3. 幅75センチ以上の広い路側帯は車両を入れて駐車できますが、この場合、車両の左側に75センチの余地を空けてください。
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    4. 道路標示で駐停車の方法が指定されているときは、その方法に従ってください。
    (注)時間制限駐車区間駐車枠(パーキング・メーター、パーキング・チケット)で標章を掲出して駐車する場合は、メーター、チケットの作動および発給手数料(300円)は要りませんが、できる限り短時間の利用をお願いします。


    実際にあった会話

    市民「ここは駐停車禁止の場所ですよ。法律で決まっています。」
    小太りの男「俺は朝鮮人や、法律なんか知るか!お前は俺を差別しとんか!」
     
    市民「・・・・」




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    転載元: 駐車監視員様に感謝のブログ

    [転載]路上駐車

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    民間委託による路上駐車の取り締まりが始まり、路上駐車が少なくなったと聞きました。
    とはいうものの、路上駐車している車はなくなりません。
    だいたい、路上駐車しているクルマは大きな車が多いです。
    そして、ダッジュボードの上にはきまって、「路上駐車禁止除外車」と許可証のようなものが置いてあります。
    聞くところによると、その許可証は、身体障害者やその家族が申請すればもらえるらしいです。
    たしかに身体障害者が自由に外出するためにはクルマは便利ですし、その身の回りの世話をする人も路上駐車禁止区域まで直接車で行くことができれば便利であると、それは良く分かります。
    しかし、そのような許可証をダッシュボードに置いて路上駐車する車に、デカイ車が多いのはいかがなものかと思います。
    そもそも、路上駐車は通行の邪魔になったり、視界を妨げて危険を増やすなど、みんなの迷惑になるから禁止されているわけです。
    身体障害者やその家族のクルマは迷惑にならないことはありません。
    せめて、小さな車にしてほしいと思います。
    セルシオやエルグランドといったクルマと軽自動車を比べれば、明らかに軽自動車の方が駐車面積は小さくて済みます。
    行政側もその辺を考えて、「路上駐車禁止除外車」は軽自動車に限るなどの措置をとってほしいと思う今日この頃です。
    そしたら、許可証を偽造して、平然とでかいクルマを路駐するヤカラの取り締まりもしやすくなんじゃないんでしょうか。

    転載元: サラリーマンのぼやき

    [転載]通化事件

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    1700● 拡散転載希望 【皇紀2675】 

    【甲斐段平ネット検索】 

    世界のWW3は計画されINGである。TPPNOWの罠。ISISはイスラエル、アメリカのテロ組織。日本はアラブ戦争に使われる。

    @分野:政治、経済、外交、軍事、産業技術、科学技術、伝統工芸、歴史、精神宗教文化、

    ネット ヴォッチャー甲斐段平:@:ご意見 ペンネーム可 kaiselection@yahoo.co.jp

     

    通化事件

    通州事件

     

    通化事件 - Wikipedia
    通化事件(つうかじけん)とは194623日に中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起とその鎮圧後に行われた中国共産党軍と朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊)による日本人及び中国人に対する虐殺事件。日本人3000人が虐殺されたとされている。中国では二・三事件とも呼ばれる。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E5%8C%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6

    日本人200人超虐殺の通州事件 中国指摘する南京事件と酷似日本に対して、「歴史の直視」を訴える中国政府の急所は、自国の歴史認識に他ならない。1937年に北京郊外で発生した通州事件と1946年に吉林省で発生した通化事件。いずれも多くの日本の民間人が虐殺されたが、中国共産党は、現在に到るまで隠蔽し続けている。戦後70年の今年、中国は戦勝国としての「面子」と「立場」を盛んに強調するが、自国の戦争犯罪を検証できない国に未来はないとジャーナリストの櫻井よしこ氏は指摘する。
    今年に入って中国が、日本に対して次々と「歴史カード」をきってきています。最近では、虐殺の事実を確認できない南京事件の犠牲者を「40万人」とまで言い始め、「日本兵の残忍さ」を世界中に宣伝しています。321日の日中韓外相会談でも中国の王毅外相は日本の岸田文雄外相に「歴史を直視せよ」と述べ、安倍政権を厳しく牽制しました。
    しかしこの言葉は、中国にこそ向けて発せられるべき言葉だと、私は思います。
    中国の地で日本人が及んだとされる残虐な行為のほとんどは根拠に乏しいからです。たとえば南京では
    「赤ん坊を空中に投げ、落下するところを剣で刺した」という話を中国政府は広めています。日本の先人たちが、その種の暴虐に及んだとは俄(にわか)には信じがたいのです。
    調べてみると、
    そうした蛮行はむしろ中国人が日本人に対して及んだ行為であることが分かってきました。日本ではなぜかあまり知られていませんが中国では日本人に対する虐殺事件が幾度も起きていま。代表的な事例が1937729日の通州事件です。
    通州事件では約400人の在留日本人のうち200数十人が虐殺されました。女性たちは辱められ、遺体を切り刻まれ、中国兵たちは切り落とした頭部で遊んだとさえいいます。首を固定して吊るされている人たちも目撃されました。彼らは食事も水も与えられず放置され、何日間もの長い間苦しんで死に至ったのでしょう。
    気付かれたでしょうか。これらは、
    南京で日本人が犯した残虐行為だと中国政府が主張するものと酷似しています。
    人間は、自分の行動や価値観に基づいて、他人の行動を推し量ろうとする生き物です。中国政府が、日本軍が南京で及んだと主張する行為には裏付けがない。それどころか、日本人の犯罪を後からでっちあげるべく、自らの過去の蛮行を参考にした可能性があるのです。その一つが通州事件だったと私は考えています。
    通州事件は中国人の民族性の一端を表していますが、それは100年や200年のスパンで築かれたわけではありません。紀元前500年から紀元1000年までの約1500年の中国の歴史を、北宋の学者・政治家だった司馬光がまとめた『資治通鑑』という歴史書があります。
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    万ページに及ぶこの大著の中に中国人が長い歴史のなかですさまじい拷問を編み出し、政敵や反逆者たちへの罰として、繰り返してきたことが書かれています。中国では刑は残酷であることをもって是とされ、捕らえた者をより多く、より長く苦しませなければ、逆に刑吏が罰せられました。通州事件で日本人が受けた残虐な行為は、いずれも同書に繰り返し繰り返し登場する刑罰そのものでした。
    そうした民族性は、戦後も綿々と受け継がれました。 『資治通鑑』を17回も読んだとされる毛沢東は、大躍進政策で約2000万人の農民を餓死させ、文化大革命で3000万人以上の知識人や富裕層を死に追いやりました。

    現在も、反政府の活動家や中国共産党内の不満分子に対して、人を人とも思わないようなすさまじい拷問が繰り広げられている、国家主席をはじめとする中国の指導者層は、同書に書かれていた恐怖政治を体制安定のために敷いているのです。
    SAPIO20155月号 

    http://www.news-postseven.com/archives/20150404_314105.html

     

    転載元: 甲斐段平のネット検索ブログ

    [転載]悪用~駐車禁止除外標章

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    悪用する奴はいるもんだ


    駐車禁止除外標章という標章がある

    これは身体障害者、特に歩行困難な者を同乗させる車両に対して駐車禁止場所に駐車できるという標章

    悪用して捕まったという話だ

    必ず悪用する者はいるものですね

    ~~~~~~~ 新聞記事等 ~~~~~~~

     ◆同居していない父親(70)の介護用に交付された駐禁除外標章を悪用 ~日刊スポーツ|
     大阪府警南署などは29日までに、車庫法違反(車庫代わり駐車)などの疑いで、大阪市中央区島之内、無職梅沢利昭容疑者(36)を逮捕した。
     調べでは、梅沢容疑者は3月29日から4月14日にかけ、身体障害者である父親(70)の介護用に交付された駐車禁止除外指定車の標章を、実際には介護していないのに4回にわたり自分の乗用車に掲示し、自宅近くの路上に駐車した疑い。
     梅沢容疑者は2005年3月に介護用の標章の交付を受けたが、父親は別居しており、不正使用を繰り返していた。「駐車場を借りる金が惜しかった」と話している。
    http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20070529-205972.html

    転載元: 気の向くままに、言いたい放題

    [転載]日向市 土壌汚染で検索

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    【IWJルポルタージュ】宮崎県日向市在住の主婦をめぐる裁判は ...

    iwj.co.jp/wj/open/archives/208316
    2014/11/22 - 宮崎県日向市に住む、3人の子どもの母親、黒木睦子さんのアカウントである。 ..... また、地権者、運搬のサンアイ、日向精錬所は、土壌汚染対策法、建設リサイクル法及び、日向市の環境と自然を守る条例等を遵守していない現実、さらに日向 ...

    全国からの注視が必要な宮崎県日向市のSLAPP訴訟 マガ9 ...

    www.magazine9.jp/article/biboroku/16145/
    2014/11/19 - その59-全国からの注視が必要な宮崎県日向市のSLAPP訴訟. ... 宮崎の公害といえば、土呂久ヒ素公害を思い出す。 ... 宮崎県に問い合わせすると、「日向市西川内地区におけるグリーンサンドを使用した造成工事に係る土壌汚染対策法第4 ...
    このページに 3 回アクセスしています。前回のアクセス: 16/03/06

    【これは酷い】宮崎県で産業廃棄物汚染を指摘していた主婦が ...

    saigaijyouhou.com/blog-entry-4135.html
    2014/10/10 - 宮崎県日向市在住の主婦の方が近所で行なわれている不法投棄を指摘したところ、逆に業者から訴えられていることが判明しました。実際にこの産業廃棄物 ...... あるのは土壌汚染だの水質汚染を検査する項目ばかり。 一方、厚生労働省は、 ...

    日向市は土壌汚染(5万 以上)や放射性廃棄物(8000本以上 ...

    blogs.yahoo.co.jp › 地域 › 日本 › 宮崎県
    2015/12/26 - 日向市土壌汚染(5万㎡以上)や放射性廃棄物(8000本以上)の多いところですね。 日向市役所は「企業が安全と言っているから安全だ」ど当事者能力が低い。 日向市役所はJIS製品で無いものをJIS製品だと言って、工業標準化法に定...

    宮崎県日向市は土壌汚染や核廃棄物の保管が多いところです ...

    blogs.yahoo.co.jp › 地域 › 日本 › 宮崎県
    2015/06/23 - 日知屋字古田町81-2 237㎡ 砒素日知屋字塩矢16863番1 71 ㎡ 鉛船場町1番2(日向精錬の隣の東ソー)51,937 ㎡ 六価クロム 鉛放射性廃棄物 旭化成 日向細島事業所 8,030 本宮崎県日向市土壌汚染や核廃棄物の保管が多いところ ...

    [PDF]土壌汚染対策法に基づく一定規模以上の土地の形質変更の ...

    eco.pref.miyazaki.lg.jp/wp-content/uploads/2014/02/01todokede.pdf
    土壌汚染対策法に基づく一定規模以上の土地の形質変更の届出について
    事業者の皆様へ
    ~ 改正土壌汚染対策法の施行により一定規模以上の土地の形質変更を行う場合には、事前の届出が義務付けられました~
    〇届出が必要となる土地の形質変更(土壌汚染対策法第4条第1項)
    切り土(掘削)や盛り土など、土地の形状を変更させる行為の合計面積が
    3,000㎡以上である工事等※において届出が必要となります。
    ※異なる敷地で行う工事であっても、同一の事業の計画や目的の下で行われるものは全体を一つの
    行為とみます。
    ただし、次の①~⑥に該当する行為については届出の必要はありません。
    ①イ~ハのいずれにも該当しない行為
    イ.土壌を形質変更する区域外へ搬出する行為
    ロ.土壌の飛散又は流出を伴う行為
    ハ.掘削の深さが50cm以上である形質変更
    ②農業を営むための通常行われる行為であって、土壌を形質変更する区域外
    へ搬出しないもの
    ③林業の用に供する作業路網の整備であって、土壌を形質変更する区域外へ
    搬出しないもの
    ④鉱山関係の土地で行われる形質変更
    ⑤非常災害のために必要な応急措置
    ⑥掘削が無い、盛り土のみの形質変更
    〇届出を行う者
    土地の形質変更をしようとする者
    一般的には、工事計画を決定する者や土地を借りて開発行為等を行う者が該
    当します。
    (具体例)開発業者、工事発注者など
    〇届出の際に必要な書類
    以下の書類を3部(保健所、環境管理課、届出者控え用)作成し、提出してく
    ださい。
    様式や記載例については、県ホームページよりダウンロードできます。
    ・一定の規模以上の土地の形質の変更届出書
    ・土地の形質変更の対象となる土地の所在地の地図
    3千~1万5千分の1程度の縮尺地図
    3千~1万5千分の1程度の縮尺地図
    ・土地の形質変更をしようとする場所を明らかにした図面
    切り土(掘削)部分、盛り土部分が区別して表示され、それぞれに係る地番、面積及び
    面積算定根拠が表示された図面(工事図面の写しでも可)
    ・土地の所有者等であることを証明する書類
    (具体例)登記事項証明書及び公図の写し
    官公署が発行する証明書等は、届出日前3ヶ月以内のもの
    ・土地の所有者等の土地の形質変更の実施についての同意書
    届出者と土地の所有者等が異なる場合
    ・土地利用履歴書
    土壌汚染のおそれを判断するための資料となるので、分かる範囲で記入
    ・工事工程表
    工事のおおまかな流れが分かるもの
    〇届出期限
    土地の形質変更に着手する30日前まで※
    ※「着手する日」とは、土地の形質変更そのものに着手する日を指し、契約事務や設計等の準備行為
    を含みません。また、届出期限については罰則規定があります。
    〇届出先
    土地の形質変更の対象となる土地の所在地を管轄する保健所
    ※宮崎市内については宮崎市環境保全課
    〇届出後の県の対応(土壌汚染対策法第4条第2項関係)
    届け出られた土地のうち、切り土(掘削)部分の土地が以下に示す汚染のおそ
    れの判断基準に該当する場合、土地所有者等に対し土壌汚染状況調査を命ずるこ
    とがあります。
    ①特定有害物質による汚染状態が法の基準に適合しないことが明らかである土

    ②特定有害物質又は特定有害物質を含む固体若しくは液体が埋められ、飛散、
    流出又は地下に浸透した土地
    ③特定有害物質を製造、使用又は処理する工場等がある(あった)土地
    ④特定有害物質又は特定有害物質を含む固体若しくは液体を貯蔵又は保管して
    いた工場等がある(あった)土地
    ⑤②から④と同等程度に特定有害物質による汚染状態が基準に適合しないおそ
    れがある土地

    日向市 - Wikipedia

    日向市(ひゅうがし)は、宮崎県の北東部に位置する市である。 ..... 日知屋古田町にある日向製錬所旧細島工場跡地(6・6ヘクタール)の地下水から、土壌汚染対策法で定める基準値を超えるヒ素とフッ素が検出された 。 2014年スラグ埋立の公害被害を指摘した ...

    被害者を「訴える」(株)日向製錬所と(有)サンアイのあきれた ...

    beingtt.blog.fc2.com/blog-entry-17.html
    2014/11/10 - 日向製錬所は、ステンレスの原料となるフェロニッケルを生成しており、その生成の過程でできる鉄鋼スラグを 2012年頃から、議員である日向市市議会議員の鈴木富士男氏他の土地に大量にに廃棄しており(同社は廃棄ではなく、運搬しているサンアイに売却していると現在は主張)、その行為により、風で飛散した ..... 日向水土壌汚染研究会廃棄物処理法から見て住友金属の排出したグリーンサンドは廃棄物です.


    www.youtube.com/all_comments?v=6dlN8X9Yu1Y
    たとえば、3000m2を超える土地の改変であれば、土壌汚染対策法の第4条申請をして いるかどうかも興味あります。土地形質の変更には、森林法・砂防法・公園法・自然保護 等に関する様々な規制があります。日向市や宮崎県に情報公開請求をかければ、行政  ...
    www.city.hyuga.miyazaki.jp/tempimg/20150605165612.pdf
    2015年6月5日 - 形質の変更(切土、盛土行為:H=1.0m). 区画の変更(道路設置等). 建築住宅課 .... 下水道課、環境政策課. 日向保健所. 日向市浄化槽設置. 整備補助金交付要綱. 土壌汚染対策法. 第4条. 土壌の調査. 3,000㎡以上の土地の形質の変更.
    cocologsatoko.cocolog-nifty.com/blog/2014/.../post-420a.htm... - キャッシュ
    宮崎県日向市. 「産業廃棄物のゴミの山が目の前で非常に困ってます」. http://blogjima. blog.fc2.com/blog-entry-81.html. 「環境基準値 .... 市のみです。さらに、日向精錬所の ある日向市船場町には、5万平米以上の土壌汚染土地があります
    ameblo.jp/d45611/entry-12064614253.html - キャッシュ
    2015年8月25日 - 日向製錬所跡地の汚染日向市で黒木さんが検出した汚染物質 ... 宮崎県日向市の 黒木睦子さんを訴えた原告の一社である(株)日向製錬所が、現在の場所へ移転する前 の跡地から有害物質が検出されている ... 汚染土壌地下水モニタリング.
    ameblo.jp/d45611/entry-12027750048.html - キャッシュ
    2015年5月17日 - 宮崎県日向市西川内地区の埋立造成に埋戻材として使われたグリーンサンドですが、 フェロニッケルスラグを水砕した ..... でわかり、大気汚染防止法違法である事になります が、こちらのブログで積極的に情報開示請求が行われ、土壌汚染 ...

    www.env.go.jp/water/dojo/law/rm_area.pdf
    H26.2.28. 北海道稚内市開運2丁目. 2377番2の一部、2377番5. の一部. 1,063.2. 320.7. 第14条. ベンゼン. 鉛及びその化合物. ○. ○. 土壌汚染対策法に基づく要措置 区域・形質変更時要届出区域. (平成28年4月1日現在). 特定有害物質の項目. 要措置 区域.

    形質変更時要届出
    区域
    H22.9.13
    一部解除
    H23.3.31
    宮崎県日向市大字日知
    屋字古田町81-2の一部、
    88-2の一部、70の一部、
    79-2の一部
    359
    237
    第4条砒素及びその化合物○ ―
    形質変更時要届出
    区域
    H22.10.25
    宮崎県日南市大字平野
    字大節8339-7の一部
    483 第4条鉛及びその化合物○ ○
    形質変更時要届出
    区域
    H23.12.15
    宮崎県日向市大字日知
    屋字塩矢16863番1の一

    71 第4条鉛及びその化合物― ○
    形質変更時要届出
    区域
    H24.6.25
    宮崎県日向市船場町1番
    2の一部、2番1の一部及
    び3番3の一部並びに日
    向市大字日知屋字ウノハイ
    15807番2の一部
    51,937 第14条
    六価クロム化合物
    鉛及びその化合物
    ○ ○


    崎県日向市には土壌汚染の多いことが環境省HPで分かります。詳しく ...
    blogs.yahoo.co.jp > 地域 > 日本 > 宮崎県
    2015年9月20日 - 土壌汚染対策法に基づく要措置区域・形質変更時要届出区域 (平成27年6月1日現在) 形質変更時要届出区域 H22.9.13 宮崎県日向市大字日知屋字古田町81-2の一部、88 -2の一部、70の一部、79-2の一部 237㎡ 第...
    saigaijyouhou.com/blog-entry-4135.html - キャッシュ
    宮崎県日向市在住の主婦の方が近所で行なわれている不法投棄を指摘したところ、逆 に業者から訴えられていることが判明しました。実際にこの .... 環境省「産廃の可能性が あるので、最寄りの警察へ」 【宮崎県】@shunji_kouno 「製品であって産廃ではない。 国も認め ...... あるのは土壌汚染だの水質汚染を検査する項目ばかり。
    iwj.co.jp/wj/open/archives/208316 - キャッシュ
    宮崎県日向市に住む、3人の子どもの母親、黒木睦子さんのアカウントである。 .... 問題 は環境汚染が起きているとして、それが廃棄物によるものなのか、健康被害を立証 できるのか、という点である。 ..... しかし、2005年に環境基準を超える六価クロムや フッ素、放射性物質などが含まれていることが判明し、2005年10月環境省により産業 廃棄物に指定されるに至った。 ... また、地権者、運搬のサンアイ、日向精錬所は、土壌汚染対策法、建設リサイクル法及び、日向市の環境と自然を守る条例等を遵守し ...
    ja.wikipedia.org/wiki/日向市 - キャッシュ
    日向市(ひゅうがし)は、宮崎県の北東部に位置する市である。 ... 14 日向市出身の 有名人; 15 環境; 16 脚注; 17 外部リンク ..... 宮崎交通株式会社 News Release 平成 27年3月4日; ^ 環境省土壌汚...
    twitter.com/search?q=%23土壌汚染
    日向市には8000本以上の #旭化成 の #核廃棄物、5万㎡以上の #土壌汚染、市街地 に #旧富高鉱山 の #ヒ素、ニッケル鉱石を製錬所の100 ... 【仮設焼却炉】「区長会への 説明で十分」~放射性廃棄物をこっそり燃やしたい環境省に怒りと失望』 ⇒ http://amba .to/20c4OBq #被曝 #環境省 #土壌汚染 .








    転載元: カネミ油症に正義を!


    [転載]木庵先生問答集:II≫-<カーター先生>([ 歴史&環境&公徳心ツアー ]さんのコメント、erasusさんからのトラックバック)(#150)

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    木庵先生問答集:II≫-<カーター先生>([ 歴史&環境&公徳心ツアー ]さんのコメント、erasusさんからのトラックバック)(#150)
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    [ 歴史&環境&公徳心ツアー ]さんのコメント
    1930年代の中独合作

    1928年、中独関係は、世界恐慌のなどの齟齬が起きたことから1930年から1932年の間は停滞した。

    1931年、満州事変で日本が中国軍を一掃し、翌1932年1月3日 には満州を占領。
    同年1月28日 には第1次上海事変が勃発する。このときドイツ軍事顧問団が指導した第87・88師団が参戦。
    その後、日本軍が熱河省に侵攻し、万里の長城付近で交戦した際には、クリーベルの後任の顧問団長だったゲオルク・ヴェッツェル中将が自ら中国軍を指揮している。

    1933年にナチスが政権を取ると、ドイツの対中政策はより具体性を増した。ドイツ国防軍、産業界・商社は、政府の政策が中国貿易の利益を損なうことがないよう希望していた。
    その後ナチス・ドイツは、挙国一致での戦争経済推進を政策に掲げ、軍需資源の確保、特に

    ドイツが中国国民党軍中国で産出されるタングステンとアンチモンを重視したため、これ以降、ドイツの対中国政策が促進された。
    2017/5/7(日) 午前 8:26 [ 歴史&環境&公徳心ツアー ]

    木庵の反応
    <↑のコメントは《GHQ焚書図書開示(#72仲小路彰の戦争の哲学)#32≫に対してのものである。

    ドイツが国民党軍を援助したため、日本は国民党軍との戦争で苦労することになった。
    ドイツは第一次大戦の敗北により、連合国から軍事の制約を受けるようになった。表立っての軍事拡大はできないので、ヨーロッパと離れた中国で軍事を教えるという名目でこっそりと軍事訓練(?)をやっていたのである。また中国との貿易拡大はドイツの国益に叶っていた。日独軍事同盟を結んでからは、ドイツは表向きでは中国に援助しなくなったと思うのだが・・・木庵>

    erasusさんからのトラックバック
    地政学的には-
     о京都-琵琶湖-若狭湾
     -と、
     о大阪という河内湖(湾)
     -と、古代から、
     о標高が高く湿地帯ではない兵庫県地方(但馬国・播磨国)
     -は、
     о比較的攻め易い京都
     -からしたら、
     о守りの要衝
     -であったことになる。

    ■≪木庵先生問答集:II≫-<カーター先生>( erasusさんからのトラックバック)(#143)
    2017/4/28(金) 午前 7:31
    <ただ料理を頂いただけで、作った人に聞くチャンスがなかった。というのも、その家を訪れたのは1回だけであった。拉致被害者を救う会の人がロスにやってきて、この家が会場を提供し、食事まで出してくれたのである。だから、それ以降一度もこの家を訪れることはなかった。元木庵> 
     -沖縄人は、
     о料理上手(おもてなしの心がある)
     -であり特に、すばらしいのが、
     о豚肉料理
     -である。わたしは婦長から、
     оかなりのゴーヤ料理を教わった
     -が彼女らの料理の基本も、
     о豚肉料理
     -であり、
     оゴーヤと合わせる
     -のであった。ゴーヤは実に、
     о精が着く
     -のであり、
     о不老長寿の妙薬のひとつ
     -であろうと思う。沖縄の自然は、
     оサトウキビ畑の倒したサトウキビの下には、ヘビが潜んでいる
     -のであり、われわれの地方にも、かつては、
     о河川のヨシの木々の下に「まむし」が出た
     -から、よく、
     о「まむし」に噛みつかれていた
     -という話が多かった。沖縄のサトウキビの下のヘビとは、
     о猛毒のハブ
     -であった。「まむし」も小さいながら、
     о猛毒
     -であるが、
     оハブの方が強烈
     -であり、
     о死亡例も多かった
     -と思われる。そういう河川敷に犬の散歩に連れ出すと、まだ、
     о「まむし」が出るのではないか?
     -と思うが、
     о散歩道が整備され続けて居る
     -から、どうなのだろうか?
    <木庵が子供のとき、マムシを村の人が捕らえたのを3回ほど見たことがあった。新木庵>

    <NHKのBSプレミアムの放送の見方を知らない。元木庵> 
     -木庵先生ら、ロスの人々は、
     оインターネットなどで、NHKのBS放送を御覧になっている
     -と思っていた。NHKのBSプレミアムとは、
     оNHKのBS放送の3チャンネル
     -である。
    <ここまで書かれても、まだ木庵は分からない。新木庵>

    <兵庫県のどのあたりを取材するのであろうか。兵庫県といっても、中国山地を境にして、北と南とはまったく人々の気質が違う。元木庵> 
     -兵庫県の地名を確認したが、われわれが、
     оよく知った有名な地名ではなかった
     -のであり、
     оすぐに忘れてしまった
     -が、
     о岡山県寄り
     -だったと思う。
    <岡山県寄りなら、なお木庵は分からない。新木庵>

    ■≪木庵先生問答集:II≫-<カーター先生>( koreyjpのコメント、erasusさんからのトラックバック)(#141)
    2017/4/26(水) 午前 7:23
    <姉の長女が主人と一緒にロスに行きたいと言ってきた。そこで、昨日ラスベガスの旅行社の支店長である清水さんから、関西空港からロスまでの往復航空券を木庵が代わって買ってやった(勿論代金は後に払ってもらう。「航空運賃だけ払いなさい、あとはおっちゃんが面倒を見て上げる」と言って、ホテル代を浮かすために木庵アパートに住まわすつもりでいたが、考えてみれば、木庵の部屋はあまりにも汚く、姪は大丈夫だろうが主人は無理だろうと、ホテルに泊まらすことにした。元木庵>
     -この木庵先生の姉上の長女夫婦は、
     о木庵先生のアパートに泊まりたかった
     -と思うが、
     о清掃も大変だ
     -から、
     оホテルに泊まった方が無難だ
     -ということらしい。
    <昨年の夏、日本を旅行したときに、神戸の高級料理店で姉や長女夫妻にもご馳走してやった。そのとき、長女の主人は慣れないご馳走に腹の具合を悪くしていた。そういうことで、大分神経質だと思うから、木庵の汚いアパートは無理だと判断した。姪は掃除をすると言っているが、旅行に来るのか木庵の部屋を掃除するのか分からなくなるので、ホテルに泊まらせることにした。といってもホテルは5月20日と5月24日の2泊だけになる。もう予約を終えている。新木庵>

    だが、木庵先生のアパートに泊まれば、
     о木庵先生の手料理が食べられる
     -から、是非とも、
     о木庵先生の農園の作物
     -と、
     о木庵先生の手料理
     -を楽しみにして、
     о木庵先生の炊いたご飯を食べて泊まるべきだった
     -と思う。
    <ラスベガスの清水さんの家で、一度だけ木庵は太巻きをつくってやろうと思っている。清水さんの家に滞在中は姪が料理をすればよい。主人はラーメンを作るのが得意だというらしいので、お手並み拝見ということになる。24日にはロスに帰ってくるが、この日はパー子ちゃんがレストランで夕食をご馳走をしてくれるという。新木庵>

    <ラスベガス滞在中は清水さんの家に泊めてもらうことになるので、宿泊費はタダになる。ということで、日本から30万円もってこさせることにした。5泊のロス、ラスベガス旅行を二人で30万円とは、安上がりになるのは間違いない)。元木庵>
     -と言いつつ、
     о木庵先生の姪夫婦
     -というと、
     о40代
     -であろうか?
     40代だとすれば-
     о10代の子どもが居てもよい
     -のだろうが、
     о子どもは連れて来ない
     -のであろうか?
    <40代だが、子供はいない。新木庵>

    <近頃は便利で、日本から飛行機に乗っても、ロス(ラスベガス)でチケットを買うことができ、買ったということがコンピューターで記録されるので、空港ではチケットがなくても、パスポート見せるだけで乗ることができるという。元木庵>
     -なぜ、そういう便宜をはかるのだろうか?
     それ位-
     о旅行先持ちで、チケットを買う例が多い
     -ということなのであろうか?
     わたしは古いタイプの人間であり-
     оICカード
     -や、
     о回数券カード
     -も馴れないのであり、
     оチケットなしの乗車
     -などは、
     о不安になってしまう
     -のである。と言っても、わたしは、いまだに、
     о飛行機に乗ったこともない
     -のだから、
     о新幹線オンリーの出張
     -であった。
    <昨年の日本行きも、チケットのない方式であった。近頃はこのやり方が普通になっているのであろう(?)新木庵>

    <「ロスに来るなら、サンジェゴまで連れてあげようか」と言ったが、姪の主人はギターのプロで、ロスにある世界的なギターリストのショーを観たいというのが目的であるという。それに良ければ、ギターのストリート・パーフォーマンスをやりたいとのことである。ただ彼が弾くギターはエレキギターであるのでアンプが必要だという。
    清水さんに電話すると、ラスベガスにストリート・パーフォーマンスができる場所があり、アンプは清水さんが買ってくれるということになった(清水さんもギターが弾けるようだ)。元木庵>
     -“ギターのプロ”と言うが、わが国で、
     оギターで食っていけるのだろうか?
    <食っていけない。だから普通の仕事をしている。新木庵>

     -と不思議である。海外へ行ってまで、
     о“ギターのストリート・パーフォーマンスをやりたい”
     -とは、
     о大道芸の先進国
     -での話なのだから、
     оギターの名人は腐る程居る
     -と思うのだが…?
    <アメリカに行って、ストリート・パーフォーマンスをするのが、若いときからの夢であたっという。新木庵>

    <彼女たちの滞在は5月20日から25日までである。ロスに着いて、ロスのホテルで一泊して次の日(日曜日)清水さんの車でラスベガスへ行くことにしている。今のところ、清水さんの家で3泊させてもらうことになるだろう。そうなら、ストリート・パーフォーマンスを思い切りやれる時間があるということになる。ロスに戻ってから、世界的なギターリストのショーを観ることもできる。元木庵>
    <日程の関係から世界的なギターリストのショーを見ることはできなくなった。それに代わってロスにあるギター専門店にでも連れていこうと思う。新木庵>
    イメージ


     -ロスからベガスへは車で、
     о5月20日(土):ロス
     о5月21日(日):ベガス
     о5月22日(月):ベガス:木庵先生の講演会
     о5月23日(火):ベガス
     о5月24日(水):ベガス
     о5月25日(木):ロス
     -という滞在日程ということらしい。木庵先生は、
     о人間(ひと)疲れしない、お人だ
     -ということである。わたしなら、
     о疲れてしまう
     -であろう。
    <この日程なら木庵は疲れない。ラスベガス滞在中は講演会をおこなうが、食事をしながらのカジュアルなものだから、それほど神経を使わない。それに滞在中は普段の生活と同じように読書を中心にするつもりだから、疲れないだろう。新木庵>

    <エレキギターもギターのパーフォーマンスも木庵は全く興味がないので、ラスベガスまでついていく(ロスからラスベガスは清水さんの車で、帰りはバスに乗ろうと思っている)だけで、5月22日(月曜)には、清水さんが主催している歴史研究のメンバーの人に集まってもらって、食事をしながら、木庵の講演(?)をすることになっている。3日間、講演以外は清水さんの家で読書でもしようかと思っている。コンピューターをもっていくので、現行時間で、そのときの様子をブログで伝えることが出来るであろう。乞うご期待! というところである。講演の内容については、ラスベガスに行く1週間ほど前から、レジメの形でブログに掲載することになるであろう。元木庵>
     -人間(ひと)疲れしないどころか、木庵先生は木庵先生で、
     о近現代史の講演会
     -だそうだ。まさか、
     оフーバー大統領の回顧録が題材ではない
     -と思うから、
     о新しい〈ブログ〉ネタが登場する
     -かも知れぬ?
    <一応、ハミルトン・フィッシュのルーズベルト批判の話をしようと思うが、フーバーの回顧録についても触れるだろう。それより、どのような質問があるかわからないので、質問にに応じた幅の広いトピックスに対応することになるだろう。新木庵>

    <木庵の田舎は中国山地のすぐ南側にある。冬には北から来た車に雪が積もっていたことがあった。奈良時代あたらりから日本の要衝であったようである。木庵の村のなんでもない小さい神社でも、奈良時代に建立されたと、大阪の歴史研究をしている学生が教えてくれたことがあった。元木庵>
     -兵庫県は、
     о瀬戸内海の播磨灘
     -から、
     о日本海の久美浜湾
     -まで、
     о低い山地が続く
     -と言い、
     о但馬守の「但馬」
     -も山陰側にある。おそらく、
     о東西の要衝
     -というよりも、
     о兵庫県を突破されたら京都(盆地)が危ない
     -という意味での要衝(京都の守りの要衝)であり、
     о群雄割拠の播磨
     -であったようである。奈良時代は、わが国に、
     о国分寺が建立された(一宮・二宮・三宮)
     -という時代に当たり、
     о但馬国出石神社
     -と、
     о播磨国伊和神社
     -とある。
    <木庵の田舎の近くに国分寺がある。たしか、「浄土寺」という名であったと思うのだが。新木庵>

    <源義経は鵯越えの前、木庵の田舎にある三草山を経由して南に進んでいる。元木庵>
     -義経が、
     о三草山→鵯(ひよどり)越え→一の谷の合戦
     -に出たという話だった。要するに、この源平合戦は、
     о平家は、山陽道の東部からやって来る
     -と読み、義経は、その裏をかいて、
     о京都→三草山→鵯越え→一の谷の合戦
     -に少人数の騎馬武者隊で突破した(奇襲作戦)ということであろう。
     о鵯(ひよどり)越えの坂落とし
     -に較べたら、
     о丘陵地のような騎馬隊には絶好の山地越え
     -から討って出たのであった。この道は後に、
     о足利高氏の帰京
     -の時にも、
     о決戦場となった
     -のだから、
     о播磨国(赤松氏)は要衝であった
     -ということだ。これが、
     о湊川の戦い
     -であり、
     о摂津国湊川
     -で戦われた。大阪は、たぶん、
     о河内湾という大湿地帯であった
     -と思われるから、
     о江戸湾を埋め立てて江戸と言う都市を造った
     -のと同様に、
     оだんだんと河内湾が埋め立てられて行った
     -のであろうから、やはり、
     о標高の高い兵庫県は古代からの要衝であった
     -ということであろう。古代は、
     о瀬戸内海を航海して淡路島に上陸した
     -のであり、この辺りの陸路は、
     о危険であった
     -ということである。淡路島は、
     о大阪湾の入り口に立ち塞がっている
     -のであり、
     о四国への大鳴門橋
     -で有名だ。(つづく)<記17年4月30日>〈9,484Byte〉

    <冬を越したシシトウには、昨年になった赤い実が残っている。現在花も咲いていて、新しい実もできている。元木庵> 
     -わが家の菜園に於ける「シシトウ」は、
     о何年やっても、うまくできた試しがない
     -から、もう、このところ、
     о扱っていない
     -のであり、
     оうまく行ったものだけやっている
     -のである。最近は、
     оミニトマトから、ふつうのトマトに切り替えた
     -のであり、ここ数年うまく行っている。キュウリは、
     о夏中持たない
     -のであり、ことしこそ、
     о冷やし中華
     -にして食べたいものだ。ナスビは、意外にも、
     о大量にできている
     -のであり、
     о好評
     -である。インゲンが、
     оもうすぐ収穫できる
     -と思うが、まだ、
     о花が咲いていない
     -から、
     о5月下旬
     -であろう。
    <インゲンは毎年植えていたが、成功したことがない。だから今年はやめた。新木庵

    <オーストラリア米があるのか。以前にも書いたことがあるが、日本の新潟から来た旅行者が木庵に魚沼産米をくれたことがあった。炊いて食べたが実に美味しかった。たしかに日本一の米だけはあると思った。それもそうだが、10年ほど前だったか、新潟での旅館での朝食のご飯が実に美味しかった。この旅館に魚沼産米を使っているという表示があった。元木庵> 
     -ご飯の名人の木庵先生が、
     о魚沼産こしひかりが、うまい
     -と言われるのなら、
     о魚沼産こしひかりは、うまい
     -のであろう。わが家も「ブレンド」に釣られて、
     о魚沼産こしひかりを米屋に注文している
     -のだが、
     о味音痴
     -だから、
     о品質の上下が分からない
     -のである。まずくはないと思うが、
     о本当に、おいしいか?
     -とか、
     о本物か?
     -と言われると自信はない。名人の木庵先生が、おっしゃる通り、ご飯は、
     о研ぎ洗い
     -と、
     о炊き方(わが家は、ガス炊飯器だが)
     -により、
     оおいしくも、まずくもなる
     -から、
     о1993年末のタイ米騒動の時の研ぎ洗い
     -が頭から離れない。

    ■≪木庵先生問答集:II≫-<カーター先生>(erasusさんからのトラックバック)(#145)
    2017/5/1(月) 午前 7:43
    <愛人の子どもではない。離婚した妻との間にできた子どもである。元木庵> 
     -さすがに、
     о他人(ひと)の子どもは育てない
     -か。
    <新しいことが分かった。愛人(恋人)にも子供がいた。その子供は恋人の母親が面倒をみているとか。先日木庵アパートに恋人の子供が遊びにきていた。新木庵>

    <別れた女性はイタリア系の白人であり、どちらかというと美人であった。しかし、頭が悪い上に根性が悪かった。エルビスの新しいガールフレンドはメキシカンで、それほど美人ではないが賢そうである。エルビスは白人の女性を狙い、獲得したが、結局は破滅した。子どもは授かり、エルビスが引き取ることになった。だから元妻は自由になり、色々な男との遍歴を繰り返しているのである。元木庵> 
    <エルビスによると、新しいガールフレンドも頭があまりよくないとか。新木庵>

    -夫婦選びで笑えるのが、
     о国際結婚
     -とか、
     о歳の差婚
     -であり、ここに嗤える、
     о同性婚
     -もあるが、
     оロリコン(ロリ婚)
     -ならぬ、
     оロリコンが昂じた再婚好き野郎
     -も居て、ヒスパニックの場合も、
     о白人女に憧れる
     -ということが、どうしても、ありそうだ。“白人女に憧れる”のと、
     оロリコン
     -は同系列であり、
     о貧乳と「産毛」のロリータ(白人)
     -は、
     о白人の巨乳は美容整形だ(大概の白人の美女は、ペチャパイ)
     -と思うから、“エルビス”は、
     оイタリア女(純正の白人とは言えまい?)と結婚した
     -のはいいが、向こうからしたら、
     оヒスパニックの味見をしたかった
     -に違いない。イタリア女も、
     о「(使い込まなくても)黒い」
     -と思われるが、
     о老けるのが驚く程早い
     -から、
     о離婚して正解だつた
     -と思われる。メキシカンの女も、
     о「(どちらでも)黒い」
     -と思われ、
     о母親と同じ
     -だから、安住の地であろう。
    <まあ、収まるところに収まったというところだろう。新木庵>

    <引っ越しすると言ってから、結局1か月後に引っ越してきた。ということは1カ月の空き部屋になり、その間の家賃が入らないことになる。そのことをエルビスに話して、本来ならこの1ヵ月の家賃を払うべきだが、金がないというので、「1週間分は払いなさい」と言ってやった。アレハンドラがエルビスの息子のために、ランドリーの床のタイルを取り換えることを最初に正直に言えば問題はなかったが、ソーシャルワーカーのチェックの話を最後の最後になって言ったことの責任をエルビスに取らすことにした。元木庵> 
     -“アレハンドラ”が、
     о“ソーシャルワーカーのチェックの話を最後の最後になって言った”
     -という内実だが、
     о本当のことであったのだろうか?
     -と思う。“エルビスの息子のために、ランドリーの床のタイルを取り換える”というと、
     о“エルビスの息子”は、“ランドリーの床のタイルを取り換え”などに感心は無い
     -のであり、
     о“アレハンドラ”が、かねがね気になっていたことを独断でやった
     -に過ぎないと思うが、その正当化のために、
     о木庵先生の利益を言い出した
     -のは、まずかった。オーナーには、
     о認可権
     -と、
     о“アレハンドラ”の罷免権
     -があるのだから、“アレハンドラ”も、
     о下宿人に、オーナー面するな
     -と言いたい。わが国では、
     о虎の威を借る狐は最も軽蔑される動物だ
     -という、
     о動かし難い価値観がある
     -ということを知らねばならない。と言っても、われらが木庵先生は、
     оパーデレ
     -であり、
     о寛容の徳が、おありだ
     -ということから、
     о日本人の一般の価値観とは異なるかも知れぬ?
     -から、そこで“アレハンドラ”は、
     о免れている
     -というところがあると思う。
    <アレハンドラの知恵は結局は貧しさからきている。金がないから屁理屈を考える。日本の貧しい人は、努力や才能がないから貧しくなったと思うが、アレハンドラの場合、かくあってほしいとまず思い。そのあとそれに合った理屈をつける。新木庵>

    <回り道の人生であったことは間違いない。「ストレートで社会人に巣立つ」ことが不安であったので、回り道をしたのである。回り道の人生は今考えると、少なくとも木庵の独創性(?)となっている。というより誰もが経験しないこを経験したので、独創性というより、希少性なのだろう。元木庵> 
     -たぶん、
     о裕福な家の息子の最大の贅沢
     -であり、運勢学的には、
     о1歳運~10歳運
     -までと、巣立ちの頃も、
     о数え年18歳
     о数え年19歳
     о数え年20歳
     о数え年21歳
     о数え年22歳
     о数え年23歳
     о数え年24歳
     о数え年25歳
     о数え年26歳
     о数え年27歳
     -と、
     о人生いろいろ
     -であり、
     о運勢に合った巣立ち年齢
     -というものが、それぞれあるのである。

    <月謝は1000円であり、これは別にもらったと思うがはっきりした記憶がない。ただ1000円であったのは覚えている。元木庵> 
     -われわれの頃の月謝は、
     о300円
     -ではなかったかと思うが、
     о滅茶苦茶安かった
     -という記憶がある。(つづく)<記17年5月3日>〈9,873Byte〉

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    転載元: 木庵先生の独り言

    大阪市立高津中学校(今井芳彦校長)で男子3年生11名が刑事告訴され、その内半数が家裁送致になりました。悪いことをした、クサイ飯を食って、相手に謝って損害賠償に応じるのが、日本のルールです。

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    <コメント>
    玉石 高津中学校 の検索結果
    http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GFRC_jaJP202JP202&q=%e7%8e%89%e7%9f%b3%e3%80%80%e9%ab%98%e6%b4%a5%e4%b8%ad%e5%ad%a6%e6%a0%a1
    [ 嘘を平気で言う中学校の先生 ]

    大阪市立高津中学校(今井芳彦校長)で男子3年生11名が刑事告訴され、その内半数が家裁送致になりました。

    悪いことをした、クサイ飯を食って、相手に謝って損害賠償に応じるのが、日本のルールです。

    ちゃんと謝ってお金を払いましたか?
    [ 奥 でのパン屋や嘘つき ]

    大阪市立高津中学校(当時 今井芳彦)は刑事事件に発展したいじめ事件について、民事的な償いをしたのでしょうか?

    悪いことをしたら、謝って、お金を払って、くさい飯を食べるのが人の生きる道です。
    [ 西川 ]
    在日で鶴橋に店を出している肉屋の息子が家裁送致になった。
    刑事告訴や家裁送致になった者のほとんどが在日韓国朝鮮人。
    東高津公園付近は在日が多い。
    小学校の校区は鶴橋が含まれている。
    東成警察を襲撃したのは、鶴橋の在日韓国朝鮮人達だ。
     
     
     
     

    実行されぬ「賠償」、救われぬ「遺族」、息子をリンチで殺された母の慟哭…理不尽、犯罪被害者遺族は泣き寝入りするしかないというのか

    2014.8.20 07:00(1/4ページ)衝撃事件の核心 west
    http://sankei.jp.msn.com/images/news/140820/waf14082007000002-n1.jpg
    神戸・須磨で平成22年10月、少年2人が暴行され1人が死亡、もう1人が重傷を負った「リンチ事件」の現場。その後、主犯格の男らに民事での賠償命令も出たが、遺族にはその一部すらも支払われていない。息子を亡くした母は「遺族は泣き寝入りするしかないのか」と悲嘆に暮れる
     神戸市須磨区で平成22年10月、元専門学校生の釜谷圭祐さん=当時(19)=ら2人が暴行され、釜谷さんが死亡、もう1人が重傷を負う事件があった。この事件で、傷害致死傷罪に問われた主犯格の男(26)には25年2月、神戸地裁が懲役14年の実刑判決を言い渡し、上告棄却後の11月に確定した。損害賠償を求めた民事訴訟も含めて一連の裁判は終わったが、この男からの遺族への賠償は今も実行されていないという。
     釜谷さんの母、美佳さん(48)は「被害者は泣き寝入りするしかないのかもしれない」と悲嘆に暮れる。犯罪被害者や遺族への賠償が進まない現状に、専門家からは「以前から存在するものの解決が難しい問題。国が責任を持って対応しないといけない」との声も上がる。(清作左)
    むなしい「対話」
     この事件は、男の仲間らが取り囲む中で起きていたことなどから、当時は「集団リンチ事件」とも呼ばれた。ただ、きっかけは男の勘違いだった。
     男は22年10月29日未明、妹と一緒に遊んでいた釜谷さんら2人が妹を“連れ回している”と思い込み、激怒。仲間などを集め、集団で釜谷さんらに暴力をふるって逃げた。男の暴力は神戸地裁判決で「無抵抗の被害者に執拗かつ危険な暴行を加え、死亡させた。遺族の悲しみは察するに余りある」とされたほどで、釜谷さんは顔が判別できないほど殴られ、その日の内に死亡した。
     事件を巡っては、男のほかに、同罪に問われた当時少年だった男に懲役3年以上4年6月以下の不定期刑などが確定している。
     民事裁判では、神戸地裁から男らにそれぞれ約8千万円の賠償命令が出たが、美佳さんには賠償金は一切支払われていない。そこで美佳さんは実情を把握しようと、兵庫県弁護士会の「犯罪被害者・加害者対話センター」を利用し今年6月、男の母親から直接話を聞いたが、その言葉に愕然(がくぜん)とした。
     「私たちは自己破産して払えない。息子には払わせる」
    謝罪もなく、ただ、金銭の話を切り出されたのだ。「お金が欲しいわけじゃない。謝罪の気持ちを見せてほしかったのに」。悔しさだけが募った。
    罪の意識の「差」
     「圭祐のことを、事件のことを忘れないでほしい」
     そんな思いから、美佳さんは事件現場に居合わせ、主犯格の男と知り合いだった男性5人に調停を申し込んだ。5人は釜谷さんの靴や財布を盗むなどしたが、このうち1人は連絡がなく、調停の場にも現れなかった。
     調停の際、美佳さんは集まった4人に「本当は現場にいた全員に来て、話し合ってもらいたかった。自分たちで賠償額を決めてほしい」と諭した。今年6月、4人が出した“答え”は、最も賠償額が高いケースでも、2年間毎月1万円を支払うというもの。賠償に加え、釜谷さんの命日に美佳さんに毎年、手紙を出すという内容で調停は終了した。
     「あのとき1人でも通報してくれれば、圭祐は助かったかもしれないのに。ばかにしているのだろうか。ことの重大性をわかっているのだろうか」。男性らの認識の低さに悲しさがこみ上げた。
     それでも、最初の支払いとなった7月分は4人から入金があったという。美佳さんは「お金を払うことが罪の意識を持ち続けるきっかけになると思う。だからこそ、気持ちとして払ってほしい」と訴える。一方で「もし『支払えない』と言われたら、一般市民が取り立てることもできない。そのときは、泣き寝入りするしかないのかもしれない」と懸念する。
    泣き寝入りを防ぐには
     被害者学の第一人者で、常磐大大学院の諸沢英道教授によると、諸沢教授が犯罪被害者の遺族約240人を調査した結果、遺族に一部賠償がなされた例はわずか十数%に止まり、全額支払われた例はなかった。諸沢教授は「被害者の刑事裁判の参加を認めるなど支援制度はできてきたが、被害者への賠償に関する問題は立ち止まったままだ」と指摘。「国や自治体が責任を持って救済措置を作らなくてはならない」と訴える。
     ただ、こうした現状に歯止めをかけようと動き出した自治体もある。
     兵庫県明石市が今年4月、犯罪被害者支援条例を改正し、全国で初めて賠償金の一部を立て替える制度を開始した。
     同市市民相談室によると、市内の犯罪被害者の声を受けた条例改正で、一般世帯が最低限1年間暮らせる金額として最大300万円を立て替えられる。市が遺族から加害者に対する300万円分の求償権を譲り受け、加害者の財産を差し押さえて徴収していくという。
     まだ利用者はいないというが、同室の担当者は「使う機会がないことが一番良いが、もし何か起きたときに市民をしっかりと支えてあげたい」と語る。
    諸沢教授は、被害者が取り立てる場合、弁護士費用や訴訟費用など金銭面の負担が大きくなると説明し、「もっと、明石市のような制度を他の自治体も制定していく必要がある」と話している。
     
     
     

    平成24年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)

    ・古郷 幹彦 (大阪大学大学院歯学研究科教授)
    ・森田 英嗣 (大阪教育大学教育学部教授)
    ・高尾 千秋 (神戸大学発達科学部助教)
    ・竹村 伍郎 (地域情報誌「うえまち」編集局長)
    ・永安  卓  (大阪市立高津中学校 校長)
    ・石川 昌美 (本校 前PTA会長)
    ・五十嵐一嘉 (本校 PTA会長)

      第1回学校協議会   第2回学校協議会

        第3回学校協議会


    平成23年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・古郷 幹彦 (大阪大学大学院歯学研究科教授)
    ・森田 英嗣 (大阪教育大学教育学部教授)
    ・高尾 千秋 (神戸大学発達科学部助教)
    ・竹村 伍郎 (地域情報誌「うえまち」編集局長)
    ・大継 章嘉 (大阪市立高津中学校 校長)
    ・椋本 隆康 (本校 前PTA会長)

      第1回学校協議会
       第2回学校協議会
        第3回学校協議会

    平成22年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・古郷 幹彦 (大阪大学大学院歯学研究科教授)
    ・森田 英嗣 (大阪教育大学教育学部教授)
    ・高尾 千秋 (神戸大学発達科学部助教)
    ・安元 寛子  (心理カウンセラー) 
    ・竹村 伍郎 (地域情報誌「うえまち」編集局長)
    ・大継 章嘉 (大阪市立高津中学校 校長)
    ・北角 尚弘 (本校 前PTA会長)

      第1回学校協議会   第2回学校協議会
        第3回学校協議会
        (2010.9.3)

    平成21年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・古郷 幹彦 (大阪大学大学院歯学研究科教授)
    ・森田 英嗣 (大阪教育大学教育学部教授)
    ・安元 寛子 (心理カウンセラー)
    ・竹村 伍郎 (地域情報誌「うえまち」編集局長)
    ・松山 明  (大阪市立高津中学校 校長)
    ・岩本 慶則 (本校 前PTA会長)

        第1回学校協議会     第2回学校協議会      第3回学校協議会
           (2009.08.25)        (2009.11.13)

    平成20年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・古郷 幹彦 (大阪大学歯学部教授・付属病院副院長)
    ・松井伊代子 (大阪商工会議所 流通担当課長)
    ・秋田 光彦 (大蓮寺・應典院住職)
    ・安元 寛子 (心理カウンセラー)
    ・竹村 伍郎 (地域情報誌「うえまち」編集局長)
    ・松山 明   (大阪市立高津中学校 校長)
    ・義井 弘一 (高津高校前PTA会長)

        第1回学校協議会    第2回学校協議会    第3回学校協議会 
          (2008.07.14)       (2008.12.05)        (2009.02.18)

    平成19年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・二瓶 文博 (大阪大学 監事 本校同窓会副会長)
    ・松井伊代子 (大阪商工会議所 流通担当課長)
    ・秋田 光彦 (大蓮寺・應典院住職)
    ・山中 幹夫 (株式会社タイムス社長)
    ・辻 榮光   (本校18年度PTA会長)
    ・松山 明   (大阪市立高津中学校 校長)

         第1回学校協議会   第2回学校協議会   第3回学校協議会 
          (2007.06.27)       (2008.10.31)        (2008.02.18)

    平成18年度学校協議会

       <協議会委員>(敬称略)
    ・鳥居 宏次 (奈良先端科学技術大学院大学 前学長)
    ・松井伊代子 (大阪商工会議所 流通担当課長)
    ・福家 清美 (正幸会病院・薬剤指導局長)
    ・二瓶 文博 (大阪大学 監事 本校同窓会副会長)
    ・稲垣 房子 (元大阪府立中之島図書館 司書部長)
    ・小谷 真功 (高津宮 宮司)
    ・岡本 邦夫 (本校17年度PTA会長)
    ・松山 明   (大阪市立高津中学校 校長)

         第1回学校協議会   第2回学校協議会   第3回学校協議会
          (2006.06.14)      (2006.10.25)       (2007.02.27)

    平成17年度学校協議会

       <協議会委員>(敬称略)
    ・鳥居 宏次 (奈良先端科学技術大学院大学 前学長)
    ・松本 道弘 (大阪商工会議所 常務理事・事務局長)
    ・福家 清美 (正幸会病院・薬剤指導局長)
    ・二瓶 文博 (大阪大学 監事 本校同窓会副会長)
    ・稲垣 房子 (大阪府立中之島図書館 司書部長)
    ・小谷 真功 (高津宮 宮司)
    ・内田 承教 (本門佛立宗日乗寺住職 本校16年度PTA会長)
    ・松山 明   (大阪市立高津中学校 校長)

         第1回学校協議会   第2回学校協議会   第3回学校協議会
          (2005.06.01)      (2005.10.04)      (2006.02.14)

    平成16年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・井上 宏   (関西大学総合情報学部教授 本校OB)
    ・森田 雅美 (大阪市開発公社社長 同窓会副会長 本校OB)
    ・今井 芳彦 (大阪市立高津中学校長)
    ・松永 高博 (高津サッカー部監督 本校OB)
    ・柴田 ミネ子(芦屋女子短大教授 同窓会副会長)
    ・池島 照幸 (本校15年度PTA会長) [第3回は内田新会長が出席]

         第1回学校協議会   第2回学校協議会   第3回学校協議会
         (2004.05.21)       (2004.11.25)      (2005.03.02) 

    平成15年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・井上 宏   (関西大学総合情報学部教授 本校OB)
    ・森田 雅美 (大阪市開発公社社長 同窓会副会長 本校OB)
    ・今井 芳彦 (大阪市立高津中学校長)
    ・松永 高博 (高津サッカー部監督 本校OB)
    ・柴田 ミネ子(芦屋女子短大教授 同窓会副会長)
    ・福井 進   (本校14年度PTA会長) [第3回は池島新会長が出席]

         第1回学校協議会   第2回学校協議会   第3回学校協議会
         (2003.02.07)       (2003.06.27)       (2003.12.6) 



    19歳の少年に殴る蹴るなどの暴行を加え、死亡させたとして男女3人が逮捕されました。
      逮捕されたのは、山梨県都留市の無職・天野正弘容疑者(28)と土木作業員・権守健太容疑者(22)、それに大月市の18歳の少女の3人です。
      3人は、6月24日の午後8時ごろからおよそ3時間にわたり都留市の住宅で19歳の少年に殴る蹴るなどの暴行を加え、死亡させた疑いがもたれています。
      警察は認否を明らかにしていませんが、既に暴行の疑いで逮捕した男2人を含め、5人で集団暴行した疑いもあるとみて慎重に捜査を進めています。

    [転載]李承晩の日本亡命?民衆が先に亡命しているじゃん!

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    朝鮮戦争が勃発し、防戦一方の南朝鮮、韓国の首都はわずか数日で陥落、初代大統領李承晩は韓国の指導者に倣い先逃、追撃をかわすため橋を爆破して多くの市民を殺害している。
    そんな先逃大統領だから、朝鮮半島の南端まで追いまくられ逃げ場を無くして日本に亡命か、充分にあり得る話。戦争相手は北朝鮮、応援は共産党中国にソ連。仲間がいない。一番近くてすでに亡命、逃亡したザイニチがたくさんいる日本へ亡命!これが唯一の延命策だと思う。
    幸いその後元日本軍の将将兵が北朝鮮軍の後方撹乱に成功し、アメリカ軍と連合国軍の参戦が功を奏し、戦線を北へ戻し連合国軍と北朝鮮・中国とは休戦協定を結んだけれど、戦争当事者の南北朝鮮同士はまだ交戦状態、もしまた北朝鮮が攻めてきたらまた、あっという間に首都ソウルは火の海になり陥落、今の大統領も先逃か?逃げないにしても亡命騒ぎになりそう。
    でも、日本へは来ないで欲しい。韓国政府の亡命先は元の宗主国、PRC(ちゃいな国)しかない。

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    ★朝鮮日報
    【コラム】李承晩の日本亡命打診説を「初確認」したKBS

    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/07/03/2015070301352.html?ent_rank_new

     韓国戦争(朝鮮戦争)65周年の前日だった6月24日夜、『KBSニュース9』は日本特派員が最初に確認したとして「李承晩(イ・スンマン)政権、韓国戦争発生直後、日本亡命打診」というとんでもないニュースを放送した。その根拠としたのは山口県の図書館で発見された文書だ。日本の外務省が「韓国政府が6万人規模の亡命政権を山口県に立てたいと言ってきた」として、県知事に可能かどうか聞いたというものだ。そして、「米軍政」にも同様の文書があるかのような話をあいまいに付け加えた。根拠はこれだけだ。

     しかし、こうしたことは極右傾向を持つ日本の産経新聞が既に1996年4月14日、全く同じ内容で報道しており、韓国メディアも翌日、短く引用・報道した。その文書というものも、当時県知事を務めた田中竜夫氏の回顧談だけだ。これが事実なら、この20年間に韓国・日本・米国の公式文書で確認されていないはずがない。李承晩元大統領に対し批判的な学者が国内外にどれだけ多いことか。少なくともこの点を確認するべきだった。ところが、取るに足らないようなことを伝えるようなメディアでもなく、KBS放送が、20年後の今になって何の追加取材も検証もなしに、これを「李承晩政権が本当に当時の日本政府に600万人の亡命を打診し、日本は韓国人難民キャンプの計画を立てたという内容の日本側文書を、KBS取材陣が初めて確認しました」と報道したのだ。

     最悪の場合に備え、李承晩政権とは別に米国側で戦時対策の一つとしてそうした要求をしたのかもしれない。また、そのような文書があったとしても、それは李承晩政権とは無関係なものだ。それに「米軍政」とは何のことなのだろうか。当時すでに韓国には米軍政(在朝鮮米国陸軍司令部軍政庁)がなく、日本にはマッカーサー率いる極東司令部があっただけだ。李承晩とマッカーサーの親密な関係を見ると、そもそもそうしたこと自体、起こるはずがない。

    BSが「違うんだったら別にいいんだけど」とでも言うように出したこの「記事」だが、幾つかのメディアはそのまま引用・報道した。イ・ジェミョン城南市長は簡易投稿サイト「ツイッター」に「親日政権だから日本に逃げるくらいは当然のこと」と書き込んだ。この突拍子もない報道のせいで今、インターネット上で「李承晩」と入力すると「李承晩 日本亡命」という検索候補がトップに出る。新しい作り話が新しいうわさでさらに膨らんでいるのだ。

     なぜ今、人々が「延坪海戦」に対し申し訳なさそうにし、感謝しているのか、KBS関係者は考えるべきだろう。2002年6月29日にそうした出来事があったことを知らなかったのを申し訳なく思い、犠牲になった方たちのために遅ればせながら感謝しているのだ。KBSが「日本亡命を打診した」と報道した李承晩大統領=当時=が韓国戦争の真っ最中だった1952年1月18日、韓国沿岸水域の保護を目的に「平和線」を宣言したから、韓国が今、独島(日本名:竹島)を実効支配しているという事実をKBSは分かっているのだろうか。それを越えることは平和を壊すことだという戦略的思考に基づいて付けられた「平和線」という名称だが、これを嫌う日本人は必死になって「李承晩ライン」と呼んだ。李承晩個人に限定しようともがいたのだ。韓国人としては李承晩元大統領に申し訳ないし、感謝すべきだ。

     KBSのあきれた報道が伝えられた二日前の6月22日、朝日新聞は「韓国人と言えば誰を思い浮かべるか」というアンケート調査の結果を発表したが、李承晩元大統領は女優チェ・ジウに続き6位だった。共に7位だった東方神起や朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領よりも上だ。約60年前の李承晩元大統領の反日政策はそれだけ日本人の脳裏に深く刻まれているのだ。

    文化部=イ・ハンウ部長
    朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

    転載元: おやぢのGadget Diary!

    [転載]●朝鮮戦争 ①②③④⑤⑥

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    ●朝鮮戦争 ◆辞
    ,紡海

    【分断の固定化と対立】
    南北の分離独立
    1948年8月13日に、今度は李承晩が大韓民国の成立を宣言した。金日成はこれに対抗して自らも9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は単なる境界線ではなく、事実上の「国境」となった。

                         ☆ ヨシフ・スターリン
    https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-74-12/tncfn946/folder/338644/14/20365214/img_0?20170827180217
    その後、金日成は李承晩を倒して統一政府を樹立するために、ソ連の指導者で独裁者でもあるヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めていたが、第二次世界大戦で国力が疲弊しているために、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は撤収した。それを受けて北朝鮮は祖国統一民主主義戦線を結成した。その後大韓民国では8月12日にジュネーブ条約調印[5]、11月に国家保安法が成立するなど、着々と国家としての基盤作りが進んでいた。

    同じ頃、地続きの中国大陸では国共内戦の末、ソ連からの支援を受けて戦っていた毛沢東率いる中国共産党が勝利し、10月1日に中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国が成立した。敗北した蒋介石率いる中華民国政府は台湾島に遷都し、その後も中華人民共和国との対立を進めた。なおアメリカは、蒋介石率いる中華民国の国民党政府を抗日戦争から国共内戦に至るまで熱心に支援していたが、内戦の後期になると勝機が見えないと踏んだ上、政府内の共産主義シンパやスパイの影響を受けて援助を縮小していた。

    1950年1月12日、アメリカのディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任をもつ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任をもたない」と発言し(「アチソンライン」)、韓国のみを含めなかった。これは、アメリカの国防政策において太平洋の制海権だけは絶対に渡さないという意味であったが、朝鮮半島は地政学上、大陸と海の境界線に位置している関係もあって、判断が難しい地域でもある。金日成はこれを「アメリカによる西側陣営の南半部(韓国)放棄」と一方的に受け取った。

    アメリカは同月、韓国との間に米韓軍事協定を結んでいた。これは李承晩の日本への復讐(李は上海臨時政府時代に日本の憲兵隊に逮捕されており、その際拷問を受けた。しかし、後に釈放され、渡米している)に由来する、日本に対する報復的、敵対的行動(竹島領有宣言など)を行い、国家統一、軍の北進を訴える李承晩を押さえ込むもので、韓国の軍事力の大部分はアメリカが請け負い、韓国軍が重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ぐ為、僅かな兵力しか許さないというもので、アメリカは北朝鮮の南進については楽観的で、むしろ韓国が北に攻め込むことを恐れていた。このアメリカの李承晩懐柔政策は、僅か5ヵ月後に大間違いであったことに気付かされる。

    【スターリンによる侵攻容認】
    これらの状態の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(内容としては、電報の内容を故意に解釈し、「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりしたというもの)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認した。同年5月、中華人民共和国を訪問した金日成は、北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助するという約束を取り付けた。

    中華人民共和国が北朝鮮を当初から積極的に支援したという見解があるが、実際はソ連の軍事支援が小規模な事がわかったことにより、中華人民共和国内では侵略支援への消極的意見が主流だったという。また、直前になってから侵略計画を知らされた事に不満の声もあった。

    【北朝鮮による侵攻開始】
    6月25日に、朝鮮人民軍が「暴風」(ポップン)の暗号と同時に38度線を越境、南半部への侵攻を開始した。このことを全く予測していなかった李承晩とアメリカを始めとする西側諸国は大きなショックを受けた。ただし北朝鮮側は、当時から現在に至るまで、「韓国側が先制攻撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張し続けているが、この主張はソ連崩壊後のロシア政府にさえ公式に否定されている。
                      ☆ 国連軍の105mm榴弾砲M3
    https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-74-12/tncfn946/folder/338644/14/20365214/img_1?20170827180217

    転載元: 本願成就と如来回向

    [転載]保導連盟事件=正しい歴史認識を持たなければならない=韓国虐殺史

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    保導連盟事件(ほどうれんめいじけん)とは、1950年6月25日朝鮮戦争勃発を受けて、李承晩大統領の命令によって韓国国軍韓国警察共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺した事件。
     
    「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」の研究では60万人から120万人が虐殺されたとしている。李承晩大統領が失脚した1960年四月革命直後に、全国血虐殺者遺族会が、遺族たちの申告をもとに報告書を作成したが、その報告書は虐殺された人数を114万人としている。
     
    韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会」は朝鮮戦争の初期に韓国政府によって子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害し、排水溝や炭鉱や海に遺棄したことを確認している。公開されたアメリカ軍の機密書類にはアメリカ軍将校の立会いと虐殺の承認などの詳細が記録されている。イギリス人[7]やオーストラリア人の目撃もあり、アメリカ軍少佐はワシントンに虐殺の写真を報告しているが半世紀の間隠蔽され続けてきた[8]。また、アメリカ軍司令官のダグラス・マッカーサーにも報告されていたが止めようとした形跡は見つかっていない
     
    韓国では近年まで事件に触れることもタブー視されており、「虐殺は共産主義者によっておこなわれた」としていた。
     
     
    ▼ 太平洋戦争が終わって朝鮮が日本の統治からはずれようとした時期、アジアは共産主義の波に覆われようとしていた。米国は終戦後のアジアは共産主義との戦いになると確信していて、日本と朝鮮半島をどういう役割にするか考えていた。
     日本に対しては共産主義の独立した防波堤であり、その軍事的主導権は駐留米軍が握っている。朝鮮半島は戦場の中に引いた休戦ラインなのだ。
     
     その恐れていた共産主義者は半島の各地にいた、隣接するソビエトや中国共産党から支援をうけていた。その代表格が金日成だ、ソビエトの後押しで半島を共産主義統一しようとして軍事侵攻した。
     
     
     反共傀儡政権の李承晩大統領は共産主義者が大嫌い、このことが存在意義なのだから当たり前だ。
     1950年に朝鮮戦争が勃発すると李大統領は共産主義組織の処刑を命じた。
     
    以下Wikipedia
     
    日本の敗戦時、朝鮮の抗日勢力においては民族主義者の潮流が衰退し、共産主義者が各地で主流を占めていた。李承晩率いる大韓民国政府は、ストライキや武装闘争を挑む南朝鮮労働党(南労党)を中心とする共産勢力に対して弾圧を行い、1948年12月1日国家保安法を制定。1949年6月5日、要監視対象者の教化と統制をおこなう思想保護観察団体「国民保導連盟」を組織し、翌年にかけて末端組織を全国に拡大した。
     
    「大韓民国絶対支持」「北傀儡政権絶対反対」「共産主義排撃粉砕」「南北労党暴露粉砕」を綱領に掲げるこの組織には、転向した党員が登録されたほか、抵抗を続ける党員の家族や単なる同調者に対しても登録すれば共産主義者として処罰しないとして加盟が勧められた。保導連盟に登録すると食料配給がスムーズに行われたため、食料目当てに登録した人々も多かったといわれ、警察や体制に協力する民間団体が左翼取り締まりの成績を上げるために無関係な人物を登録することもあったともいう。
     
    1950年6月25日朝鮮戦争が勃発。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が侵攻しソウルに迫った。6月27日、李承晩大統領は保導連盟員南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令を発し[2]、同日中にソウルを脱出した。韓国軍、警察は釜山にまで後退する一方、保導連盟に登録していた韓国人を危険分子と見なして大田刑務所などで大虐殺を行った。また、北朝鮮軍が侵攻していない非戦闘地域の釜山・馬山・済州の刑務所などでも韓国軍や韓国警察により市民や囚人達が虐殺されたことが確認されている[7]
     
     
    済州では同時期に済州島四・三事件による虐殺もなされている。また、晋州刑務所に収監されていた民間人を馬山の廃坑に連行して虐殺した[9]。韓国中部の忠清北道清州市清原郡でも虐殺が行われ、清原郡では、100体以上の虐殺体が発見されており、犠牲者は7000人に上るとされている[11]。韓国南西部の全羅南道咸平郡の村では、韓国陸軍第11師団によって無実の村民たちが虐殺されたことが明らかにされ、調査委員会は「人道に対する罪」であるとしている。
     
    村民たちは韓国軍によって一同に集められると機関銃で一斉射撃を浴びせられ、銃撃が終わると、韓国軍将校は「生存者は助けるので立ち上がるように」と呼びかけ、これに応じて立ち上がった人々にはさらなる銃撃が加えられた
     
    ▼ このWikiが本当かどうか考えて見たが、画像が米国政府の著作物であるという証明があるのでどう見ても写真は本物、そしてその内容も事実だと考える。
     

    このファイルは、アメリカ合衆国の連邦政府と雇用関係にある公務員がその職務上作成したアメリカ合衆国政府の著作物であり、アメリカ合衆国の著作権法上パブリックドメインに属します。 (17 U.S.C. §105)。
    注意:このライセンスは、アメリカ合衆国政府の著作物についてのみ効力を有します。アメリカ合衆国の各州、郡、その他の地方自治体が作成した著作物に対しては適用できません。
     
     
    自国民の大虐殺を隠して
    他国への言いがかりに執着する
    自国民を120万人も虐殺しておいて
    人道だの差別だの
     
    いかにも朝鮮人らしい
    支離滅裂な論理
     
    騙される世界の薄ら馬鹿
    分かっていて尻馬に乗る
    日本の左翼
     
    こいつらこそ人道に対する罪を犯しているだろうが
     
    このことにコメントしない左翼さん
    韓国の政治姿勢をどう考えるのですか?
    あれ?このことは内政干渉?

    転載元: dunubの窓

    [転載]【話題】在日詩人キムさん(86)が回想録 韓国で数万人が虐殺される中、密航船で大阪へ逃げた

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    【話題】
    在日詩人キムさん(86)が回想録
    韓国で数万人が虐殺される中
    密航船で大阪へ逃げた

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    在日詩人・金時鐘さんが回想録
    2015年04月10日 08時01分
    自分を整理 
    「四・三事件」記す

     『猪飼野(いかいの)詩集』などで知られる在日の詩人・金時鐘(キムシジョン)さん(86)=写真=が、 回想録『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書)を刊行し、
    韓国・済州島(チェジュド)で1948年に起きた 「四・三事件」との関わりをつづった。

     「苦難の故郷を見捨てて逃げを打ったことは一生の負い目」と長く沈黙してきたが、その体験は金さんの 紛れもない“詩のありか”でもある。

     四・三事件は、同年4月3日の反体制派弾圧事件。南北分断の固定化につながる南朝鮮の単独選挙を阻止しようと、民衆が武装蜂起し、軍や警察の鎮圧部隊に数万人が殺された。

    19歳の金さんは、 武装隊を率いた南朝鮮労働党の一員だった。襲撃先の郵便局では、同志が目の前でカービン銃で撃たれ、自らも追われる身となった。翌年5月、日本行きの密航船に乗り込み、大阪・生野のコリアンタウンに行き着いた。


     〈春は 喪の季節です。/甦(よみがえ)る花は きつと/野山に 黒いことでしよう。(略)//私は一本の つつじの花を/胸にかざるつもりで います。/砲弾の くぼみに咲いた 黒い花です。〉 55年に出した第1詩集『地平線』で焦土と化した故郷を悼んだが、自らの関与には触れていない。 「軍事政権下の韓国に強制送還されれば、事件の残党ということでまず命はなかったやろうから」
    日本に来た理由は「よんどころない事情」としたままだったが、ゆるぎない詩人の言葉で「在日」を生きる意味をとらえてきた。「そうでないと、民族意識に目覚めたことも、事件に関わったことも、 自分にとって何のよすがでもないことになる。空虚だよ。知った者が、知らない形は取れないのよ」

     韓国の民主化が進んだ90年代以降、事件の検証が進むにつれ、講演や対談の場で体験を語り始めた。 2010年の詩集『失(な)くした季節』では当事者としての心情を率直に表現した。
     〈ぼくの春はいつも赤く/花はその中で染まって咲く。(略)//世紀はとうに移ったというのに/ 目をつぶらねば見えてもこない鳥が/記憶を今もってついばんで生きている。(略)//木よ、自身で 揺れている音を聞き入っている木よ、/かくも春はこともなく/悔悟を散らして甦ってくるのだ。〉

     改めて文章に書き残したのは、「80も半ばを過ぎて、自分の整理をしたようなもの」。苛烈な生を支えたのは、密航船の手配を整え、一人息子を逃がした両親の存在だった。「まるで鳥がひなを育て、巣立たせるような見返りのなさ。それは、愛の全くの原型なんだよ」。朝晩、遺影に向かってあいさつを欠かさないという。(大阪本社文化・生活部 中井道子)

    http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20150331-OYT8T50042.html

    5: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/ 2015/04/10(金) 20:18:19.34 ID:Y1fZPoDi.net
    そして助けてくれた日本に強制連行されたと主張
    クズの中のクズ

    167: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/ 2015/04/10(金) 20:52:06.42 ID:OWvjFhtw.net
    >>5
    ほんとにね。
    正直に生きてれば在日には別の未来が
    あったかも知れないのに。

    39: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/ 2015/04/10(金) 20:28:51.02 ID:/hWw6U5t.net
    >>5

    これ。
    済州島出身の在日は南チョン政府の虐殺から逃れて日本に来たのに、
    強制連行されたとか嘘ついて日本に居座り、
    反日しまくりの恩を仇で返すクズ共。



    45: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/ 2015/04/10(金) 20:30:31.40 ID:qeiztcYt.net
    これ保導連盟事件で怖くなったから日本に密入国してきたって事?

    55: <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん@\(^o^)/ 2015/04/10(金) 20:32:43.46 ID:ONHvqU20.net
    >>45
    ×怖くなったから
    ○武装ゲリラの一員として当たり前に当時の政府に殺されかけたから

    >武装隊を率いた南朝鮮労働党の一員だった


    済州島四・三事件

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    済州島四・三事件(さいしゅうとうよんさんじけん)は、1948年4月3日在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の大韓民国)の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊韓国軍韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す[2]
    韓国政府側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された[3]。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた[3]。また、この事件は麗水順天の抗争の背景にもなった。

    背景


    1945年9月2日日本連合国に降伏すると、朝鮮半島アメリカ軍ソ連軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。1945年9月10日朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた[2]1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた[2]。この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。
    特に島外から送り込まれた反共を掲げる右翼青年団体、西北青年会は島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。しかし、島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした[2]

    済州島民の蜂起と韓国による鎮圧

    1948年に入ると、南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起の日付が4月3日である。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。
    済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されるにあたり、政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(麗水・順天事件)韓国本土でも戦闘が行われ、その際に日本への密航者が多数生じることとなった[4]。済州島では韓国軍などにより蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、8月15日大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われている[3]
    1948年9月に金日成は朝鮮人民軍を創設し、続いて朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。1949年12月24日には、韓国本土で韓国軍は住民虐殺事件(聞慶虐殺事件)を引き起こし、共産主義者による犯行であると情報操作した[5]
    1950年に南北朝鮮労働党が合同し、金日成の朝鮮民主主義人民共和国が韓国(本土)に侵攻(朝鮮戦争)すると、朝鮮労働党党員狩りは熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人が、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。また、韓国本土で保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された[6]。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている[7]
    歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日韓国人となった人々も多い。日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティを形成し、韓国人コミュニティからは距離を置いた。済州島では事件前(1948年)に28万人[8]いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる[9]
    この事件を初めて発表した在日韓国人作家の金石範氏は、2015年4月1日に第1回済州四・三平和賞を授賞した。

    現在の韓国政府の対応

    長年「反共」を国是に掲げてきた韓国では、責任の追及が公的になされていない。また、事件を語ることがタブー視されてきたため、事件の詳細は未解明である。21世紀になって、韓国大統領となった盧武鉉は、自国の歴史清算事業を進め、2003年10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪した。また、済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会を設置している。さらに2006年同日の犠牲者慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに、事件の真相解明を宣言した[10]
    事件から逃れて日本に密航した済州島出身の在日韓国人は、その恐ろしい体験から「また酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かったが、韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めている[11]


    保導連盟事件

    保導連盟事件(ほどうれんめいじけん)とは、1950年6月25日朝鮮戦争勃発を受けて、李承晩大統領の命令によって韓国国軍韓国警察共産主義からの転向者やその家族を再教育するための統制組織「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人などを大量虐殺した事件[1][2]。被害者は少なくとも20万人から120万人とする主張もある[1]


    韓国では近年まで事件に触れることもタブー視されており、「虐殺は共産主義者によっておこなわれた」としていた[3]


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    経緯

    国民保導連盟による共産主義者への弾圧

    日本の敗戦時、朝鮮の抗日勢力においては民族主義者の潮流が衰退し、共産主義者が各地で主流を占めていた。李承晩率いる大韓民国政府は、ストライキや武装闘争を挑む南朝鮮労働党(南労党)を中心とする共産勢力に対して弾圧を行い、1948年12月1日国家保安法を制定。1949年6月5日、要監視対象者の教化と統制をおこなう思想保護観察団体「国民保導連盟」を組織し、翌年にかけて末端組織を全国に拡大した。

    「大韓民国絶対支持」「北傀儡政権絶対反対」「共産主義排撃粉砕」「南北労党暴露粉砕」を綱領に掲げるこの組織には、転向した党員が登録されたほか、抵抗を続ける党員の家族や単なる同調者に対しても登録すれば共産主義者として処罰しないとして加盟が勧められた。保導連盟に登録すると食料配給がスムーズに行われたため、食料目当てに登録した人々も多かったといわれ、警察や体制に協力する民間団体が左翼取り締まりの成績を上げるために無関係な人物を登録することもあったともいう。

    朝鮮戦争から処刑へ

    1950年6月25日朝鮮戦争が勃発。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が侵攻しソウルに迫った。6月27日、李承晩大統領は保導連盟員南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令を発し[2]、同日中にソウルを脱出した。韓国軍、警察は釜山にまで後退する一方、保導連盟に登録していた韓国人を危険分子と見なして大田刑務所などで大虐殺を行った。

    処刑が行われた地域

    慶尚南道

    また、北朝鮮軍が侵攻していない非戦闘地域の釜山馬山済州刑務所などでも韓国軍や韓国警察により市民や囚人達が虐殺されたことが確認されている[4]
    また、晋州刑務所に収監されていた民間人を馬山の廃坑に連行して虐殺した[5]

    済州島

    済州では同時期に済州島四・三事件による虐殺もなされている。

    忠清北道

    韓国中部の忠清北道清州市清原郡でも虐殺が行われ[6][7]清原郡では、100体以上の虐殺体が発見されており、犠牲者は7000人に上るとされている[7]

    全羅南道

    韓国南西部の全羅南道咸平郡の村では、韓国陸軍第11師団によって無実の村民たちが虐殺されたことが明らかにされている[7]。村民たちは韓国軍によって一同に集められると機関銃で一斉射撃を浴びせられ、銃撃が終わると、韓国軍将校は「生存者は助けるので立ち上がるように」と呼びかけ、これに応じて立ち上がった人々にはさらなる銃撃が加えられた[7]
    調査委員会は「人道に対する罪」であるとしている[7]

    慶尚北道

    1950年7月から9月にかけて、慶尚北道永川市洛東江近辺の村々では、韓国軍と韓国警察によって、数百名の村民と保導連盟員が虐殺されたことが確認されている[6]。また、韓国政府の調査によってアメリカ合衆国の諜報機関も虐殺を感知していたことが明らかにされている[6]

    韓国政府の弁明

    韓国当局は彼らが北朝鮮軍に呼応して反乱することを恐れたと弁明した。また、ソウルに侵攻した北朝鮮にとっても、保導連盟員は党を捨てて敵の体制に協力した者にほかならず、追及・粛清の対象となった。再び、アメリカ・韓国軍がソウルを奪還すると北朝鮮の協力者とされたものたちは虐殺された[8]



    日本への影響

    南北朝鮮双方からの虐殺を逃れようとした人々は
    日本へ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった者も数多い。



    【閲覧注意】衝撃!韓国で起きた大虐殺事件 悲劇 済州島四・三事件


    済州島四・三事件(1948・4・3~) 韓国のタブー



    転載元: 復活!強い日本へ!

    [転載]朝鮮半島の二人■金 日成(キム・イルソン)

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      金 日成 (キム・イルソン)
    1912年4月15日1994年7月8日
     
     
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    満州において
    抗日パルチザン活動に部隊指揮官として参加し、
    第二次世界大戦後はソビエト連邦の支持の下、
    北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国を建国した。
     
     
    間島・三〇事件(間島暴動)が発生する。
     
    最初に部隊を率いていた人物の一人は、
    金一星(キム・イルソン)という
    龍井の大成中学生だった。
     
    この暴動は
    断続的に翌年の春まで続くが、
    襲撃されたのは
    電気会社や鉄橋などの日本の施設と、
    富裕な朝鮮人・中国人で、
    100人を超える犠牲者もすべて朝鮮人・中国人だった。
     
     
    1936年の春ころより、
    金日成のパルチザン活動が
    本格的に始まったとされる。
     
    東北抗日聯軍のパルチザン活動の中で、
    もっとも注目を集めたとされるのが、
    1937年普天堡の戦いだが、
    甲山グループの手引きで成功したこの襲撃は、
    略奪、拉致、放火を伴い、
    東北人民革命軍のころと変わっていない。
     
    金日成部隊の兵力補充は、
    中国人苦力および朝鮮人農民を徴用し、
    村や町を襲撃するたびに人質にとった若者に
    訓練を施しては兵士に仕立てた。
     
    また食料の調達でもっとも一般的なのは、
    人質をとって富裕な朝鮮人に
    金を強要する方法だった。
     
    求めに応じない場合には、
    人質の耳を切り落とすと脅し、
    それでも応じない場合には
    首をはねるといって
    人々を恐怖に陥れた」ということである。
     
    金日成のパルチザン活動は、
    朝鮮半島で大きく報道されたが、
    「おおむねその蛮行、略奪を非難する内容で、
    襲われる満州の朝鮮人農民の苦しみに
    同情を寄せたものが多かった」状態で、
    決して英雄扱いではなかった。
     
     
    戦闘、補給困難、脱走、帰順などで、
    東北抗日聯軍は消耗していき、
    金日成を含んだ残党はソ連領に逃げ込んだ。
     
    彼らはソ連の狙撃隊に編入されたが、
    対日戦に参加することはなく、
    北朝鮮を解放したのはソ連だった。
     
    金日成を中心とする満州派パルチザンは
    ソ連軍が占領した朝鮮半島北部へ入り、
    北朝鮮建国の中核となった
     
    解放後の1945年10月14日に、
    北朝鮮に進軍したソ連軍は、
    金日成を国の指導者として平壌市民に紹介したが、
    1920年代に活躍した闘士なら
    とっくに銀髪であるはずなのに」
    といぶかる者が多かったという。
     
      建国直前  
    第二次世界大戦末期に
    日本宣戦布告をしたソ連は、
    朝鮮北東部から
    朝鮮半島を徐々に制圧して行き、
    日本の降伏後には、
    最終的に北緯38度線以北の朝鮮全域に進駐した。
     
    朝鮮総督府統治が終焉した時点で、
    朝鮮には朝鮮人による独自の共産党組織があった。
     
     
    1946年2月
    そこで朝鮮人共産党員の
    指導的役割を担っていた金日成を、
    朝鮮北部の行政機関である
    北朝鮮臨時人民委員会の委員長に任命した。
     
    金日成は、
    朝鮮の共産主義者の中では少数派に過ぎなかった。
     
    しかし、帰国直前に
    モスクワで行なわれたスターリンとの会談で、
    ソ連が樹立を考えていた
    朝鮮の共産党政権の指導者として
    認定されたと言われている。
     
     
     
     建国当初~1950年代 朝鮮戦争と共産化 
     
    朝鮮民主主義人民共和国は、
    1948年9月9日に独立を宣言した。
     
    建国当初の北朝鮮は、
    まだ金日成への権力集中が果たされておらず、
    満洲パルチザン闘争を行っていたとされる
    金日成の満州派の他、甲山派南労党派延安派
    ソ連派などの勢力に分かれていた。
     
     
    1960年代
    中国とソ連間で対立が深まった(中ソ対立)。
     
    北朝鮮は当初は両国の顔色をうかがっていたが、
    キューバ危機の頃より親中に傾いた。
     
    これに対してソ連は
    経済援助を打ち切る措置をとった。
     
    北朝鮮経済に深刻な打撃となった。
    今度はソ連に接近した。
     
     
    中ソの資金援助を当てにできない状況下で、
    北朝鮮は一国社会主義体制を形成して
    韓国に対抗する必要に迫られた。
     
    こうした中、
    1960年代半ばより
    北朝鮮は「主体思想」を示し、
    「思想における主体、政治における自主、
    経済における自立、国防における自衛」の
    重要性を唱え、
    民族主義的・個人崇拝的な
    国家運営へと傾いていった。
     
     
    こうして対立姿勢を打ち出すためには
    多額の軍事費が必要とされ、
    民衆には厳しい負担が課されることになった。
     
     
      1970年代 金正日の台頭  
     
    1972年
    独立時の憲法では首都はソウルとされたが、
    この憲法では平壌となった。
     
    金一族による
    世襲支配の方針が明確に示される中で
    その血統が神格化され、
    様々な革命神話を通じて
    一族支配の正統化・絶対化が進められた。
     
    死去するまで同国の最高指導者の地位にあり、
    1948年から1972年までは首相を、
    1972年から死去するまで国家主席を務めた。
     
    1966年以降は
    中央委員会総書記)の地位に、
    結党以来一貫して就いていた。
     
     
     
    北朝鮮においては「偉大なる首領様」などの
    尊称の下に神格化され、崇拝されている。
     
    彼の死後1998年に改定された
    朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法では
    「永遠の主席」とされ、
    主席制度は事実上廃止された。
     
     中国共産党入党
    金日成が最初に参加した抗日武装団は、
    李鐘洛率いる左派の一団だった。
     
    金日成は、中国共産党が指導する
    抗日パルチザン組織の東北人民革命軍に参加した。
     
     
    東北人民革命軍は
    中国革命に従事するための組織であったために
    朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちだった。
     
     
    東北人民革命軍時代の金日成の功績は、
    中国人民族派抗日武装団から信頼を得ていた。
     
     
    抗日パルチザン活動
    1937年6月4日
    金日成部隊が普天堡(ポチョンボ)の町に
    夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、
    金日成は名を知られるようになった。
     
    国境を越えて
    朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、
    それが大きく報道されたこと、
     
    日本官憲側が金日成を標的にして
    「討伐」のための宣伝を行い
    多額の懸賞金をかけるなどしたことが、
    金日成を有名にしたともいわれる。
     
    しかし北朝鮮の金日成伝では、
    他人の業績を
    そのまま金日成のものにしてしまっている。
     
    その後も金日成部隊は
    満州での襲撃、略奪、拉致を行い
    満州の警察部隊・前田隊を事実上「全滅」させている。
     
     
     
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    ソ連への退却
    1940年の秋、
    金日成は党上部の許可を得ないまま、
    独自の判断で、
    生き残っていた直接の上司・魏拯民を置きざりにし、
    十数名ほどのわずかな部下とともに
    ソビエト連邦沿海州へと逃れた。
     
    ソ連に越境した金日成は、
    スパイの容疑を受けて
    ソ連国境警備隊に一時監禁される。
     
    その後周保中が彼の身元を保障して釈放される。
     
    1940年12月
    ハバロフスク会議を経て、
    金日成部隊はソ連極東戦線傘下の
    第88特別旅団(旅団長は周保中)に
    中国人残存部隊とともに編入され、
    金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。
     
    彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で
    訓練・教育を受け、
    解放後には北朝鮮政府の中核となる。
     
    1945年8月
    ソ連軍北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領した。
     
    金日成はソ連軍第88特別旅団の一員として
    帰国を果たした。
     
    10月14日
    金日成は帰国直前にモスクワに呼ばれ
    ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンと会談しており、
    ソ連が朝鮮半島北部地域で樹立を計画していた
    共産党政権の指導者として認定されていた。
     
    平壌でのソ連軍の歓迎集会において、
    ソ連当局は
    金日成を凱旋者として
    華々しく演出し盛り立てようとしていたが、
    当時33歳の金日成が
    歓迎集会に参集した
    民衆の前に姿を現して
    ぎこちない演説をはじめると、
    民衆のなかから失望の声が上がり、
    「彼は『金日成将軍』とは別人ではないか」
    と疑い始めた。
     
    「金日成将軍」は既に1920年代から抗日英雄として、
    朝鮮半島北部の住民達の間で
    伝説的な存在になっていたため、
    「金日成将軍」が白髪の老将軍だと思い込んでいた人々も多かった。
     
    ところが、実際に現れた「金日成将軍」は
    長い活動歴の持ち主にしては
    余りに年齢が若過ぎたので、
    出迎えた民衆は驚いたのである。
     
    金日成が偽者ではないか
    と疑う声が多く挙がった。
     
    指導者へ
     
    ソ連占領下の朝鮮半島北部では、
    暫定統治機関として
    1946年2月8日
    北朝鮮臨時人民委員会が成立し、
    金日成がソ連軍政当局の後押しを受けて、
    委員長に就任した。
     
    金日成はソ連当局の支援を受けて
    北朝鮮の指導者となっていったが、
    金日成派は
    圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。
     
    1948年
    アメリカ占領下の南朝鮮で単独選挙が実施され、
    大韓民国が成立すると、ソ連占領下の北朝鮮でも
    国家樹立への動きが高まり9月9日
    朝鮮民主主義人民共和国が建国され、
    金日成は首相に就任した。
     
    さらに
    1949年6月30日
    中央委員会委員長(総書記)に選出された。
     
     
     
     
      朝鮮戦争  
     
    1950年6月25日
    北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻し、
    朝鮮戦争が始まった。
     
     
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    当初、北朝鮮軍が
    朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、
    朝鮮人民軍は侵攻した地域で
    民衆に対し虐殺・粛清などを行ったため、
    民衆からの広範な支持は得られず
    期待したような
    民衆による南北統一の蜂起は起きなかった。
     
     
    開戦直後の7月4日
    朝鮮人民軍最高司令官に就任していた金日成は、
    自分の家族を疎開させた。
     
    10月11日に平壌を脱出し、通化に事実上亡命した。
     
    10月25日
    中国が参戦し、中国人民志願軍を派兵してきたことによってアメリカ軍を押し戻した。
     
    同年6月には休戦が成立し、平壌に帰還した。
     
     
      反満州派の粛清  
     
    ■粛清(しゅくせい)■
    組織の一体性・純粋性を保つため、
    組織内から異分子人物・勢力を排除すること。
    金日成派は
    満州派とも呼ばれる
    満州抗日パルチザン出身者たちである。
     
    抗日パルチザンとは、
    日本の支配地域で行われた
    主に共産党系の非正規軍を指すが
    匪賊と変わらない。
     
    匪賊(ひぞく)とは、
    「集団をなして、
    掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す。
     
     
     
     
    日成と満州派は国内派全ての粛清を開始した。
    朝鮮戦争休戦直後には有力者を逮捕・処刑した。
    この頃までに満州派の中からも
    金策の変死事件が起き 粛清が行われた
     
     
     
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    満州派内部の粛清(しゅくせい)独裁体制の確立
     
    1969年以降
    満州派内部においても、金昌奉、許鳳学、崔光
    石山、金光侠らが粛清された。
     
    1972年
    憲法が改正され粛清が展開され、
    金日成の後妻の金聖愛(姿を消す)
    実弟の金英柱1975年に失脚、1993年に復帰)
    叔父の娘婿(義従兄弟)の楊亨燮(1978年に復帰)など身内にも失脚者が出た。
     
    1977年
    国家副主席 金東奎が追放。
    金日成はスターリン型の政治手法を用いて、
    政治的ライバルを次々と葬った。
     
    金日成は国家主席に就任し
    軍の最高権力を掌握し、独裁体制を確立した。
     
     
    統一は武力行使によらない
    平和的方法を取ることなどを
    南北共同声明」として発表したが
    北朝鮮側から一方的に中断してしまった。
     
     
    1991年9月17日
    韓国と共に、国際連合に同時加盟する。
     
    1992年1月30日
    金日成は国際原子力機関(IAEA)の
    核査察協定に調印したが、
    早くも翌年3月には
    核拡散防止条約(NPT)を脱退した。
     
    1994年3月
    IAEAまで脱退して査察拒否を表明したため、
    核開発疑惑が強まった。
     
     
    死去
     
    金日成は1994年7月8日午前2時に死去した。
    死因は執務中の過労による心筋梗塞と報じた。
     
    葬儀国葬として首都平壌で執り行われた。
     
    その後遺体はエンバーミングが施され
    錦繍山記念宮殿に安置されている。
     
     
     
     
     
     

    転載元: RCボトル潜水艦/RC潜水艦/RC艦艇/水生ロボット


    [転載]朝鮮戦争:スターリンの極秘文書発見?

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    朝鮮戦争:スターリンの極秘文書発見?

    スターリンが米に韓国戦争参戦を誘導していた…極秘文書発見

                   派兵しやすいよう、安保理拒否権を行使せず

     ヨシフ・スターリン・ソビエト連邦(現ロシア)書記局長が1950年、韓国戦争に米国を参戦することを希望、戦争勃発直後に招集された国連安全保障理事会にソビエト連邦が参加しなかったのも、米国の参戦を誘導するための緻密な計算であったことを示す文書が公開された。

     またスターリン書記長は中国も戦争に加担させることにより、米国と中国が韓半島に踏みとどまるを得ない状態をつくる戦略を立てていたことが明らかになった。

     このような事実は1950年8月27日、スターリン書記局長がチェコスロバキアのクレメント・ゴットワルト大統領に送った極秘文書を通じ、明らかになった。

     文書でスターリン書記局長は、この年の7月初旬に開催された国連安保理でソビエト連邦が国連軍派兵に拒否権を行使しなかったことに対するゴットワルト大統領の問題提起に対し「安保理で、米国が多数決決議を得られやすくしたもの」と説明した。またスターリン書記局長は「これによって、米国は韓国での軍事介入に巻き込まれ、軍事的威信と道徳的権威を失いつつある」と主張した。

     スターリン書記局長は特に「米国が韓国戦争の介入を続け、中国まで韓半島に引き込まれる事態になればどんな結果になるのか考えてみよう」とし「ヨーロッパで社会主義を強化する時間を稼ぎ、国際勢力の均衡により、私たちに利益を抱かせるだろう」と強調した。

     スターリン書記長の文書は、北京大学歴史学部のキム・ドンギル教授が2005年にロシアの3大国立文書保管所のひとつである社会政治史文書保管所(RGASPI)から入手した旧ソビエト連邦の資料(文書番号fond 558、opis 11、delo 62、listy 71~72)に含まれていた。スターリン書記局長が韓国戦争について開戦前後の国際情勢と、自分の戦争構想を具体的に言及した文書が公開されたのは今回が初めてだ。この文書はスターリン書記局長が米国の介入を懸念し、金日成(キム・イルソン)主席の南下侵略の計画に反対したという通説を覆す内容が含まれている。

     文書の最後に、スターリン書記局長は撤収した国連安保理にソビエト連邦が復帰すると言い「これは米政府の好戦的な政策を暴露し、米国が安保理を利用するのを防ぐために効率的だったからだ」と書かれている。

     スターリン書記局長は一級機密に分類された文書の保安維持のため、暗号名“Filippov”(フィリッポフ)を用い、プラハ駐在のソビエト連邦大使に「口頭で、ゴットワルトに伝えろ」と指示した。

    文書を分析し「ゴットワルト大統領に送ったスターリンの文書と韓国戦争の起源」という研究論文の執筆を終えたキム教授は「スターリンが戦争を認めた背景を含め、韓国戦争の起源を新しい角度から説明する文書だ」と話した。キム教授の研究結果は、キム教授が客員研究員であった米国のワシントンにあるウッドロー・ウィルソンセンターの「国際冷戦史プロジェクト」論文集に今月25日、発表される予定だ。

    ◇スターリン

     ロシア社会主義革命を率いたレーニンの後継者でソビエト連邦共産党の書記局長を務めた。1922年から亡くなるまで(1953年)、31年間にわたりソビエト連邦を独裁統治した。第2次世界大戦終戦後、米国と対立しながら冷戦の象徴人物となった。
                                             ( 『 中央日報 』 2008.06.25 14:27:20 )

    https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-e2-c7/shiraty5027/folder/1498521/55/43752455/img_0?20170827182813
     もしこれが本当だとしたら、これまで定説化していた「朝鮮戦争開戦前夜」の経緯を根本から見直さなければならないほどの衝撃的な新事実である。

     歴史に造詣が深い人たちには笑われるかも知れないが、これまで定説化している開戦前夜を簡単に振り返ってみると、スターリンはそもそもこの戦争には反対であったとされている。第二次大戦が終わり、ソ連を中心とするヨーロッパでの社会主義国の萌芽。それまで植民地支配されていたアジア・アフリカ諸国の相次ぐ独立。それに中華人民共和国の発足(1949)という世界的潮流の中で、南侵赤化統一という野心を抱いていた金日成は、南労党の朴憲永(後に金日成によって粛清)の助言もあって、南侵の機は熟したと確信していた。金日成は、スターリンに開戦の許可を求めたが、米国との直接戦争を望まないスターリンは、最後までこの戦争を望んでいなかったとされている。

     スターリンは金日成に毛沢東の許可を得ることを条件に、しぶしぶ南半部への侵攻を容認したとされてきたが、もしこの論文が事実だとしたら、スターリンの恐るべき計算、世界戦略の謀略が垣間見えてくるのである。

     また、ソ連がなぜこのとき安保理を欠席していたのかという疑問である。通説では、前年中華人民共和国が発足し、それまで国連安保理の常任理事国であった国民党政府代表に代わって、北京政府の代表が国連に議席を占めるべきだと周恩来が国連に対し要求していた。当然、ソ連は安保理事会でこの主張を支持したが、米英仏が反対していたため実現せず、それに抗議して、ソ連代表マリクは一月以来国連をボイコットしていたというのが通説になっている。

     だがそれも、今回の論文が事実だとしたら覆されることになる。つまり、北京政府が国連に議席を占めることを要求していたことを幸いに、そのことを理由に国連をボイコットしていたのだと世間を欺き、実は米国の国連での呼びかけ、すなわち「国連加盟各国にあらゆる援助を(韓国に)提供するように要請」(つまり国連軍の結成につながる)していたことを、ソ連が作為的に導こうとしていたということになるのである。そのことによって多くの国々を極東に張り付け、ヨーロッパでの社会主義の拡大・安定を容易にしようとしていた‥‥。その後、ソ連は安保理に復帰し、この安保理決議が「非合法」であり無効であると主張したが、それもリアリティある大芝居だったということになる。

     もしかして、金日成が南侵をスターリンに持ちかける以前から、いや、金日成を北朝鮮に傀儡として派遣した頃からスターリンにそうした計画があったのだとしたら、とてつもない壮大な世界戦略、恐ろしく将来を予見した奇想天外な策略であったと思わざるを得ない。

     スターリンの思惑通り、朝鮮戦争はその後約3年間あまりも続き、中国をも巻き込む局地大戦争に発展した。ソ連が矢面に立つこともなく(中国が肩代わり)、スターリンが恐れる第三次世界大戦までには至らなかった。金日成が数日で南側を陥落させると豪語していたことも、それはあり得ないとスターリンが踏んでいたとしたなら、さらに、戦後もこれだけ長期にわたって東西対峙がこの地で続くことを予見していたとしたなら、スターリンというのは大した戦略家であったといわざるを得ない。その間、ヨーロッパでは着々とスターリンの思惑どおり、ソ連は社会主義国のボスとしての地歩を固めていったのである。

     もし、休戦協議を長期化していたスターリンがその後も生きていたとしたら(註:スターリンの死によって休戦協定が迅速に締結された)、その後の世界情勢はどうなっていたであろうか。歴史に「もし」は禁物だが、もしかして、スターリン自身が自分のこのタイミングでの死をも、自身の世界戦略の中に織り込んでいたとしたなら、偉大な戦略家というより、もはや戦略の鬼神としかいいようがない。まっ、いくらなんでもそれはないだろうが‥‥。

    ブログ「歴史好きのダボラ吹き」tero様、話題の提供ありがとうございました。


    shiraty5027

    転載元: 北朝鮮問題

    [転載]横田夫妻モンゴルでめぐみさんと接触

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    横田夫妻モンゴルでめぐみさんと接触

    https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-e2-c7/shiraty5027/folder/1498521/99/56100899/img_0?20140804225309
     横田めぐみさんのご両親が、今月の10日~14日にかけてモンゴルのウランバートルで孫娘のウンギョンさんと会った。

     「ずいぶん以前から、横田夫妻を第三国で孫娘に会わせる、場合によってはめぐみさんに会わせる、といった話が水面下であった。モンゴルにめぐみさんがいたとは考えにくいが、横田夫妻がモンゴルに滞在中めぐみさんと電話で話したとか、現在のめぐみさんのメッセージにご両親が接したのではないかと推測される」

     これは、荒木和博氏(特定失踪者問題調査会代表)の感触である。

     「他にも色々あるが、4日間も言葉が通じない孫娘と一緒にいて、ずーっと話すことができるのだろうか」という素朴な疑問からである。補足をすると、日本側からは外務省の通訳1名が同行している。一方孫娘ウンギョンさん側は、父親とひ孫といった家族だけである。もちろん日本語が話せるわけではない。たとえ日本側から通訳が同行していたとしても、4日間もいったい何を話せたというのか。これには何か大きな裏がありそうだ。

     やはり、荒木氏の推測どおり、めぐみさんと横田夫妻との間に、何らかの接触があったのに違いない。

     荒木氏は、昭和38年能登半島沖で拉致された寺越武志氏を例に、「寺越武志さんの母はこれまで100回以上平壌に行って息子武志さんに会っているが、会うことができる代わりに一切拉致を口にすることも、日本に帰って来いとも言えない状況にある。めぐみさんも下手をすればそういう状況に置かれかねない。また、めぐみさんが平壌に無事住んでいるということで安心してしまったら、他の多くの拉致被害者を切り捨てるということになる可能性もあるのではないか」と懸念されていた。

     我が国の与太メディアは、横田夫妻の記者会見で「お孫さんとはどういう話をしたのか」とか、「ひ孫はどんな感じだったか」などと、どうでもいい質問ばかりしていた。荒木氏はそんな与太メディアに対し、この問題の本質を忘れている、と与太メディアの軽薄な立場は理解しながらも厳しく指摘されていた。つまりこの問題の本質は「日本は北朝鮮によって主権を侵害され、多くの日本人が不当に拉致された。孫のウンギョンさんが平壌にいるのも、そのせいなのだ」ということなのである。

     横田夫妻の笑顔があるだけに、その背景やその他の拉致被害者が霞んでしまうが、我々は本質を見失ってはならないのである。

     与太メディアよ。表層だけの浮ついた報道は、利敵行為、売国行為なんだぞ!

    【関連記事】


    shiraty5027

    転載元: 北朝鮮問題

    [転載]スターリンの遺伝子

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           スターリンの遺伝子

        ロシアのプーチン大統領のクリミヤ併合、ウクライナ侵略、核攻撃
      恫喝などが国際的な非難を浴びています。この乱暴な強権政治、
      侵略主義はかつてのソビエトのスターリンの亡霊が現れたかのよう
      です。

       スターリンは「国際共産主義」の看板に隠れて、露骨な領土拡張
    主義
       をとり、時には日、独、伊の3国枢軸とも結んでヨーロッパを分割し、
       中東からインドまで進出し、中国・満蒙を切り取ろうとしていました。
       日本がポツダム宣言を受諾して降伏した後も、「日露戦争の復讐だ」と
      して樺太や千島を米英の黙認のもとに侵略して併合しました。
      このような乱暴な大国主義が現在のロシアに生き残っている事実を
       証明したのが今回のウクライナ、クリミヤへの侵略に外なりません。

     今年はNPT(「核兵器の不拡散に関する条約」(Treaty on the Non-
      Proliferation of Nuclear Weapons))と再検討会議の開かれる年でも
      あります。そこへプーチン氏は「(ウクライナで)核戦力を準備するよう
     に命じた」と言うのですから、耳を疑います。

      「核の危機」(核兵器を持つことによって起こる偶発戦争)は歴史的にも
     何回か、その寸前までいったことがありました。古くは朝鮮戦争時、
     マッカーサーが鴨緑江越えのために原爆投下を主張して更迭され、
     その後キューバ危機ではミサイルの安全装置まで外されたとか。
     沖縄のメースBミサイルは中国都市への核攻撃命令まで出ていた
     と言われます。台湾との紛争時にもベトナム戦争時にも核攻撃の
     シナリオが存在したのです。沖縄にも日本本土にも核兵器が貯蔵
     されていたのです。

     今日の広島の新聞をはじめとしたいくつかの紙面を紹介しましょう。

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     「核で物事解決せぬ」 広島知事 日本
    被団協も抗議 プーチン氏「核準備」発言
                                         2015年3月18日  中国新聞より引用

     広島県の湯崎英彦知事は17日の記者会見で、ロシアのプーチン大統領がウクライナ情勢に絡み核兵器使用の準備を命じていたと発言した問題について「核兵器では物事が解決しないことを、あらためて認識してほしい」と訴えた。日本被団協もこの日、抗議の声明を出した。
      湯崎知事は発言について「事実とすれば遺憾だ」とした上で、「ロシアに対する国際社会の信頼を大きく損ない、核兵器廃絶を望む世界中の人々をがっかりさせた」と批判。「核兵器のない世界の実現に努め、信頼回復を図ってほしい」と求めた。
      また湯崎知事は、オーストリア政府が核兵器禁止を呼び掛けた文書に日本政府が賛同しない方針を固めたことについて、「核兵器のない世界に向けて非常に重要な取り組みで、配慮がなされた文書でもある」と述べ、日本政府も賛同するべきだとの考えを示した。
      日本被団協も、プーチン氏の発言に「強い怒りをこめて抗議する」との声明を出した。声明では、原爆投下で傷ついた被爆者は、70年たっても「後遺障害で苦しんでいる」と強調。核兵器の非人道性に関する国際会議や共同声明も踏まえて「核兵器が使用されれば救済するすべがないことは、国際政治の共通の理解になっている」と指摘した。
      その上で、プーチン氏に「非人道きわまる核兵器の全廃への道を進むよう要求する」と訴えた。(松本恭治、藤村潤平)
     
     きょうの潮流   2015.3.18   
         あわや、核戦争に

     1962年のキューバ危機の際に米軍内で核攻撃の命令が誤って出されていました。命じられたのは沖縄の部隊。そこにいた元技師らの証言で最近わかりました▼米ソの緊張が高まるなか、無線で届いたという核ミサイル4基の発射命令。しかし標的にはソ連以外の国も。おかしいと思った指揮官が思いとどまる。後に誤りだったと。もし、ボタンが押されていたら…。世界から核兵器がなくならない限り、消えない恐怖です▼ロシアがウクライナのクリミア半島を併合してから1年。プーチン大統領の口から驚くべき発言が飛び出しました。併合に至る当時の過程で核兵器を使う「準備をしていた」と打ち明けたのです▼米国と並ぶ核大国の最高権力者が自国の領土拡大のためには核兵器の使用まで視野に入れる。大国意識丸出しの覇権主義にこの国の前時代的な凶暴さが表れています。核をなくす世界の流れにも逆行し、不信と緊張をあおるだけです▼安倍政権は見過ごせても、被爆国日本にとっては許せない暴言。広島市長はすぐに談話で「被爆者をはじめ、核兵器廃絶を求める被爆地ヒロシマの願いに背くものであり、憤りの念を禁じえない」▼被爆70年の今年、核兵器のない世界に向けて、人類が手を携える運動がひろがっています。核廃絶はいまや世界の大勢。ロシアや米国をはじめ、核保有国にいいたい。「核兵器を使うことを考えるのではなく、非人道きわまる核兵器の全廃への道を進むよう要求する」(被団協)
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    転載元: 瀬又科学研究所

    [転載]●朝鮮戦争 ①②③④⑤⑥

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    ●朝鮮戦争  辞

    出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』

    戦争:東側陣営と西側陣営の戦争。冷戦における最初の戦争
    年月日:1950年6月25日 - 1953年7月27日(休戦日)

    【戦力】
    連合国
    韓国590,911   アメリカ480,000  イギリス63,000  フランス3,421
    カナダ26,791  オランダ 3,972 べルギー900    ルクセンブルグ44
    ギリシャ1,263  オーストラリア17,000   ニュージーランド 1,389
    トルコ5,455   タイ 1,294 フィリッピン 7,430
    コロンビア1,068 エチオピア1,271  南アフリカ 826   日本1200

    北朝鮮260,000  中華人民共和国780,000(諸説有り)  ソビエト26,000


    朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、英語:Korean War、1950年6月25日 - 1953年7月27日停戦)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で朝鮮半島の主権を巡って、北朝鮮が韓国に侵略し勃発した国際戦争(1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している)[1]である。この戦争によって朝鮮全土が戦場となり荒廃し、朝鮮半島は南北二国による分断が確定されることになった。

    【目次】
    1 概説
    2 背景
    2.1 米ソの半島分割占領
    2.2 信託統治案
    2.3 米ソ対立
    2.4 分断の固定化と対立
    3 戦争の経過
    3.1 南北の軍事バランス
    3.2 北朝鮮の奇襲攻撃
    3.3 国連の弾劾決議
    3.4 韓国軍の敗退
    3.5 アメリカ軍の出動
    3.6 国連軍の苦戦
    3.7 仁川上陸作戦
    3.8 38度線越境と中国人民志願軍参戦
    3.9 初のジェット機同士の空中戦
    3.10 膠着状態に
    3.11 マッカーサー解任
    3.12 停戦
    3.13 犠牲と影響
    3.14 韓国軍慰安婦
    4 現状
    4.1 政治状況
    4.2 軍事バランス
    5 参戦国一覧
    6 日本への影響
    6.1 日本特別掃海隊
    6.1.1 派遣の経緯
    6.1.2 部隊編成
    6.1.3 元山掃海作業
    6.1.4 元山以外の掃海作業
    6.1.5 派遣後
    7 朝鮮戦争を題材とした作品
    8 注釈

    【概説】
    北朝鮮の侵略を受けた韓国側にはアメリカ合衆国軍を中心に、イギリスやオーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が、北朝鮮側には中国人民義勇軍(または「志願軍」。実際は中国人民解放軍)が加わり、ソビエト連邦が武器調達や訓練などの形で援助した。

    なお、日本では朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)もしくは朝鮮動乱(ちょうせんどうらん)と呼んでいるが、韓国では韓国戦争や韓国動乱あるいは開戦日にちなみ6・25(ユギオ)、北朝鮮では祖国解放戦争、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカやイギリスではKorean War (朝鮮戦争)、北朝鮮を支援した中華人民共和国では抗美援朝戦争(「美」は中国語表記でアメリカの略)と呼ばれている。また、戦況が一進一退を繰り返したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれる。

    本稿では、朝鮮半島の南北分断の境界線以南(韓国政府統治区域)を「南半部」、同以北(北朝鮮政府統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府(国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接しあった国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する二つの政権(国家)」の関係にあるためである。

                      ☆ 李承晩(左)
    https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-74-12/tncfn946/folder/338644/44/20365244/img_0?20170827183111
    【米ソの半島分割占領】
    1945年8月14日に日本がポツダム宣言を受諾、連合国に降伏し第二次世界大戦が終結すると、日本はポツダム宣言に則り植民地下においていた朝鮮半島の統治権を放棄することとなった。朝鮮半島は朝鮮総督府の下、独立準備委員を設立し、朝鮮半島の速やかな独立を計ったが、その後進駐してきたアメリカやソビエト連邦、イギリスを中心とする連合国軍により、その行動はポツダム宣言に違反するとされ、独立準備委員会は解散させられてしまう。

    日本の敗戦による「解放」は「与えられた解放」であった[2]。独立を目指す諸潮流のいずれかが主導権を得るということもなく、自らの運動が解放に直結したという実感もなかった[3]。朝鮮人が自ら独立を勝ち取ることができなかったこと、独立運動の諸派が解放後の、それも数年間に激しく対立しつづけたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた[4]。
                      
    朝鮮半島内では、独立運動を志向する諸潮流があったものの、それらを統一的に導ける組織は存在していなかった。朝鮮の独立を目指す組織は朝鮮半島内よりもむしろ国外にあり、亡命先での活動が主だった。大きく分けると上海の大韓民国臨時政府、中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、アメリカ国内における活動などが挙げられる。朝鮮国内では1930年代までに多くの民族主義派が支配体制に組み込まれていった。最大の民族資本・湖南財閥は東亜日報紙面を通してしばしば抵抗姿勢を見せつつもしばしば恭順姿勢を見せた。独立派としての立場を鮮明にしつづけたのは共産主義者だったが、徹底して弾圧された。

    国内では、呂運亨らによって建国準備委員会が結成され、超党派による建国準備を目指した。これに釈放された政治犯たちが加入した。政治犯の多くは共産主義者であり朝鮮共産党の中核を担うメンバーも含まれていたため、建国準備委員会は左傾化していった。これに対抗する右派のなかでは宋鎮禹が湖南財閥をバックに代表的な存在になった。にもかかわらず、建国準備委員会はこの頃の朝鮮において最も広く組織された団体だった。なお、建国準備委員会が実際に果たした役割については諸説ある。日本が朝鮮統治から撤退した後に行政機構として機能したとする者もいれば、ある日突然当事者とされたことに対応してできた組織であることを強調し実際に朝鮮人民の意思は反映されなかった点を強調する者もいる。どちらにしても、成立期間が短く、また諸外国からは一切承認されていないため、影響力は限定的であった。

        ☆ 平壌で行われた赤軍歓迎式典で敬礼するソ連軍将校 
    https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-74-12/tncfn946/folder/338644/44/20365244/img_1?20170827183111

    建国準備委員会は9月6日に朝鮮人民共和国の成立を宣言した。しかし、その後、建国準備委員会内部においても意見と足並みの乱れが目立った。アメリカに亡命していた李承晩が反共姿勢を鮮明にして朝鮮人民共和国主席への就任を拒否し、またアメリカ軍政が人民共和国を承認しない意思を早々に明らかにしたことが決定打となって、人民共和国は空中分解し解消された。

    一方、北緯38度線以北では関東軍の壊走によってソ連の進駐が予定よりも早く進み、「各地で自発的に生まれた」と言われている人民委員会は10月にはソ連軍によって接収された。ソ連の進駐が速過ぎたせいで、38度線は降伏受諾線ではなく分割占領線となった。北部でも、朝鮮人による独立運動には様々な潮流があったと言われているが詳しいことは分っていない。

    このようにして朝鮮国内の足並みが揃いきっていない中に李承晩や、ソ連の支援を受けて重慶に亡命していた金日成をはじめとする満州抗日パルチザン出身の者たちなど、様々な亡命者が帰国してきた。これが決め手となって占領軍政下・南北朝鮮の政治情勢は大混乱に陥った。左右対立の激化は南北の分断の一因にもなり、特にソウルで朝鮮人の意思を糾合することをますます難しくした。

    その後、信託統治案を巡る左右対立に、そのイデオロギーの違いから敵対し始めていた米ソの対立も反映され、結果的には、アメリカ軍占領地域ではアメリカが推す李承晩を中心とした政権と李承晩の権力基盤が作られ、その他の潮流は排除された。ソ連軍政下でもソ連が推す金日成がトップにすえられ、多数を占める国内にいた共産主義者たちは時間をかけて排除されていった。このようにして、両大国の占領軍によって「建国」は主導されていった。

                    ☆ テヘラン会議
    https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-74-12/tncfn946/folder/338644/44/20365244/img_2?20170827183111
    【信託統治案】
    1945年12月には、ソ連の首都のモスクワでアメリカ、イギリス、ソ連の外相会議が開かれ(モスクワ三国外相会議)、日本の管理問題のほかに、朝鮮半島問題も議題に上った。

    戦時中の1943年に行われたテヘラン会談では、イギリスのウィンストン・チャーチルとソ連のヨシフ・スターリン、アメリカのルーズベルトの3者会談でルーズベルト大統領が「半島全域を40年は、新設する国際連合による信託統治するべきだ」と提案し、ヤルタ会談でも「20年から30年は信託統治するべき」と主張していた。

    ルーズベルトは第二次世界大戦の終戦前に死去し、後継のトルーマンはモスクワ会談において、米英ソと中華民国による5年間の信託統治を提案して決定された(モスクワ協定)。独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会を設置したが、具体案において米ソの意見が激しく対立したため、やがて信託統治案は座礁した。

    【米ソ対立】
    米ソのイデオロギー対立は東西冷戦として、まずドイツのベルリンで対決色を強めたが、地球の反対側ではフランス領インドシナのベトナムがホー・チ・ミンらに率いられて独立運動を繰り広げ、中国大陸も国共内戦が繰り広げられたが、蒋介石率いる中国国民党の中華民国に対するアメリカからの援助が先細りになったことから、赤化が目前であった。これらの冷戦の激化は朝鮮半島にも暗い影を落とした。

                         ☆ 金日成(右)
    https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-74-12/tncfn946/folder/338644/44/20365244/img_3?20170827183111
    北半部では1946年2月8日に、金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた朝鮮臨時人民委員会を設立(翌年2月21日に朝鮮人民委員会となる)、8月には重要産業国有法を施行し、共産主義国家設立への道を歩みだした。このような北半部での共産国家設立の動きに対して、日本統治時代にアメリカに亡命し独立運動を繰り広げてきた李承晩は、南半部での早期の国家設立をアメリカに迫った。その結果1947年6月には李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立され、北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。

    同年11月に、アメリカは朝鮮半島問題を国際社会に問うため、設立されたばかりの国際連合に提訴したものの、北半部は翌1948年2月8日に朝鮮人民軍を創設し、2月26日には北緯38度線以北に金日成を主席とする朝鮮民主人民共和国の成立を一方的に宣言、アメリカはこれを激しく非難した。

    金日成は、3月には南半部への送電を停止(当時、南半部は電力を日本統治時代に日本によって山の多い北半部に建設された水豊ダムなどの発電所に頼りきっていた)して、南北の対立は決定的となった。李承晩は対抗し、朝鮮労働党を参加させない選挙を実施して、正式国家を成立させることを決断したが、済州島では南朝鮮労働党のゲリラが武装蜂起し、その鎮圧の過程で軍部隊の叛乱や島民の虐殺が発生した(済州島四・三事件、麗水・順天事件)。

    転載元: 本願成就と如来回向

    [転載]大阪市立高津中学校(今井芳彦校長)で男子3年生11名が刑事告訴され、その内半数が家裁送致になりました。悪いことをした、クサイ飯を食って、相手に謝って損害賠償に応じるのが、日本のルールです。

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    <コメント>
    玉石 高津中学校 の検索結果
    http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4GFRC_jaJP202JP202&q=%e7%8e%89%e7%9f%b3%e3%80%80%e9%ab%98%e6%b4%a5%e4%b8%ad%e5%ad%a6%e6%a0%a1
    [ 嘘を平気で言う中学校の先生 ]

    大阪市立高津中学校(今井芳彦校長)で男子3年生11名が刑事告訴され、その内半数が家裁送致になりました。

    悪いことをした、クサイ飯を食って、相手に謝って損害賠償に応じるのが、日本のルールです。

    ちゃんと謝ってお金を払いましたか?
    [ 奥 でのパン屋や嘘つき ]

    大阪市立高津中学校(当時 今井芳彦)は刑事事件に発展したいじめ事件について、民事的な償いをしたのでしょうか?

    悪いことをしたら、謝って、お金を払って、くさい飯を食べるのが人の生きる道です。
    [ 西川 ]
    在日で鶴橋に店を出している肉屋の息子が家裁送致になった。
    刑事告訴や家裁送致になった者のほとんどが在日韓国朝鮮人。
    東高津公園付近は在日が多い。
    小学校の校区は鶴橋が含まれている。
    東成警察を襲撃したのは、鶴橋の在日韓国朝鮮人達だ。
     
     
     
     

    実行されぬ「賠償」、救われぬ「遺族」、息子をリンチで殺された母の慟哭…理不尽、犯罪被害者遺族は泣き寝入りするしかないというのか

    2014.8.20 07:00(1/4ページ)衝撃事件の核心 west
    http://sankei.jp.msn.com/images/news/140820/waf14082007000002-n1.jpg
    神戸・須磨で平成22年10月、少年2人が暴行され1人が死亡、もう1人が重傷を負った「リンチ事件」の現場。その後、主犯格の男らに民事での賠償命令も出たが、遺族にはその一部すらも支払われていない。息子を亡くした母は「遺族は泣き寝入りするしかないのか」と悲嘆に暮れる
     神戸市須磨区で平成22年10月、元専門学校生の釜谷圭祐さん=当時(19)=ら2人が暴行され、釜谷さんが死亡、もう1人が重傷を負う事件があった。この事件で、傷害致死傷罪に問われた主犯格の男(26)には25年2月、神戸地裁が懲役14年の実刑判決を言い渡し、上告棄却後の11月に確定した。損害賠償を求めた民事訴訟も含めて一連の裁判は終わったが、この男からの遺族への賠償は今も実行されていないという。
     釜谷さんの母、美佳さん(48)は「被害者は泣き寝入りするしかないのかもしれない」と悲嘆に暮れる。犯罪被害者や遺族への賠償が進まない現状に、専門家からは「以前から存在するものの解決が難しい問題。国が責任を持って対応しないといけない」との声も上がる。(清作左)
    むなしい「対話」
     この事件は、男の仲間らが取り囲む中で起きていたことなどから、当時は「集団リンチ事件」とも呼ばれた。ただ、きっかけは男の勘違いだった。
     男は22年10月29日未明、妹と一緒に遊んでいた釜谷さんら2人が妹を“連れ回している”と思い込み、激怒。仲間などを集め、集団で釜谷さんらに暴力をふるって逃げた。男の暴力は神戸地裁判決で「無抵抗の被害者に執拗かつ危険な暴行を加え、死亡させた。遺族の悲しみは察するに余りある」とされたほどで、釜谷さんは顔が判別できないほど殴られ、その日の内に死亡した。
     事件を巡っては、男のほかに、同罪に問われた当時少年だった男に懲役3年以上4年6月以下の不定期刑などが確定している。
     民事裁判では、神戸地裁から男らにそれぞれ約8千万円の賠償命令が出たが、美佳さんには賠償金は一切支払われていない。そこで美佳さんは実情を把握しようと、兵庫県弁護士会の「犯罪被害者・加害者対話センター」を利用し今年6月、男の母親から直接話を聞いたが、その言葉に愕然(がくぜん)とした。
     「私たちは自己破産して払えない。息子には払わせる」
    謝罪もなく、ただ、金銭の話を切り出されたのだ。「お金が欲しいわけじゃない。謝罪の気持ちを見せてほしかったのに」。悔しさだけが募った。
    罪の意識の「差」
     「圭祐のことを、事件のことを忘れないでほしい」
     そんな思いから、美佳さんは事件現場に居合わせ、主犯格の男と知り合いだった男性5人に調停を申し込んだ。5人は釜谷さんの靴や財布を盗むなどしたが、このうち1人は連絡がなく、調停の場にも現れなかった。
     調停の際、美佳さんは集まった4人に「本当は現場にいた全員に来て、話し合ってもらいたかった。自分たちで賠償額を決めてほしい」と諭した。今年6月、4人が出した“答え”は、最も賠償額が高いケースでも、2年間毎月1万円を支払うというもの。賠償に加え、釜谷さんの命日に美佳さんに毎年、手紙を出すという内容で調停は終了した。
     「あのとき1人でも通報してくれれば、圭祐は助かったかもしれないのに。ばかにしているのだろうか。ことの重大性をわかっているのだろうか」。男性らの認識の低さに悲しさがこみ上げた。
     それでも、最初の支払いとなった7月分は4人から入金があったという。美佳さんは「お金を払うことが罪の意識を持ち続けるきっかけになると思う。だからこそ、気持ちとして払ってほしい」と訴える。一方で「もし『支払えない』と言われたら、一般市民が取り立てることもできない。そのときは、泣き寝入りするしかないのかもしれない」と懸念する。
    泣き寝入りを防ぐには
     被害者学の第一人者で、常磐大大学院の諸沢英道教授によると、諸沢教授が犯罪被害者の遺族約240人を調査した結果、遺族に一部賠償がなされた例はわずか十数%に止まり、全額支払われた例はなかった。諸沢教授は「被害者の刑事裁判の参加を認めるなど支援制度はできてきたが、被害者への賠償に関する問題は立ち止まったままだ」と指摘。「国や自治体が責任を持って救済措置を作らなくてはならない」と訴える。
     ただ、こうした現状に歯止めをかけようと動き出した自治体もある。
     兵庫県明石市が今年4月、犯罪被害者支援条例を改正し、全国で初めて賠償金の一部を立て替える制度を開始した。
     同市市民相談室によると、市内の犯罪被害者の声を受けた条例改正で、一般世帯が最低限1年間暮らせる金額として最大300万円を立て替えられる。市が遺族から加害者に対する300万円分の求償権を譲り受け、加害者の財産を差し押さえて徴収していくという。
     まだ利用者はいないというが、同室の担当者は「使う機会がないことが一番良いが、もし何か起きたときに市民をしっかりと支えてあげたい」と語る。
    諸沢教授は、被害者が取り立てる場合、弁護士費用や訴訟費用など金銭面の負担が大きくなると説明し、「もっと、明石市のような制度を他の自治体も制定していく必要がある」と話している。
     
     
     

    平成24年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)

    ・古郷 幹彦 (大阪大学大学院歯学研究科教授)
    ・森田 英嗣 (大阪教育大学教育学部教授)
    ・高尾 千秋 (神戸大学発達科学部助教)
    ・竹村 伍郎 (地域情報誌「うえまち」編集局長)
    ・永安  卓  (大阪市立高津中学校 校長)
    ・石川 昌美 (本校 前PTA会長)
    ・五十嵐一嘉 (本校 PTA会長)

      第1回学校協議会   第2回学校協議会

        第3回学校協議会


    平成23年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・古郷 幹彦 (大阪大学大学院歯学研究科教授)
    ・森田 英嗣 (大阪教育大学教育学部教授)
    ・高尾 千秋 (神戸大学発達科学部助教)
    ・竹村 伍郎 (地域情報誌「うえまち」編集局長)
    ・大継 章嘉 (大阪市立高津中学校 校長)
    ・椋本 隆康 (本校 前PTA会長)

      第1回学校協議会
       第2回学校協議会
        第3回学校協議会

    平成22年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・古郷 幹彦 (大阪大学大学院歯学研究科教授)
    ・森田 英嗣 (大阪教育大学教育学部教授)
    ・高尾 千秋 (神戸大学発達科学部助教)
    ・安元 寛子  (心理カウンセラー) 
    ・竹村 伍郎 (地域情報誌「うえまち」編集局長)
    ・大継 章嘉 (大阪市立高津中学校 校長)
    ・北角 尚弘 (本校 前PTA会長)

      第1回学校協議会   第2回学校協議会
        第3回学校協議会
        (2010.9.3)

    平成21年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・古郷 幹彦 (大阪大学大学院歯学研究科教授)
    ・森田 英嗣 (大阪教育大学教育学部教授)
    ・安元 寛子 (心理カウンセラー)
    ・竹村 伍郎 (地域情報誌「うえまち」編集局長)
    ・松山 明  (大阪市立高津中学校 校長)
    ・岩本 慶則 (本校 前PTA会長)

        第1回学校協議会     第2回学校協議会      第3回学校協議会
           (2009.08.25)        (2009.11.13)

    平成20年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・古郷 幹彦 (大阪大学歯学部教授・付属病院副院長)
    ・松井伊代子 (大阪商工会議所 流通担当課長)
    ・秋田 光彦 (大蓮寺・應典院住職)
    ・安元 寛子 (心理カウンセラー)
    ・竹村 伍郎 (地域情報誌「うえまち」編集局長)
    ・松山 明   (大阪市立高津中学校 校長)
    ・義井 弘一 (高津高校前PTA会長)

        第1回学校協議会    第2回学校協議会    第3回学校協議会 
          (2008.07.14)       (2008.12.05)        (2009.02.18)

    平成19年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・二瓶 文博 (大阪大学 監事 本校同窓会副会長)
    ・松井伊代子 (大阪商工会議所 流通担当課長)
    ・秋田 光彦 (大蓮寺・應典院住職)
    ・山中 幹夫 (株式会社タイムス社長)
    ・辻 榮光   (本校18年度PTA会長)
    ・松山 明   (大阪市立高津中学校 校長)

         第1回学校協議会   第2回学校協議会   第3回学校協議会 
          (2007.06.27)       (2008.10.31)        (2008.02.18)

    平成18年度学校協議会

       <協議会委員>(敬称略)
    ・鳥居 宏次 (奈良先端科学技術大学院大学 前学長)
    ・松井伊代子 (大阪商工会議所 流通担当課長)
    ・福家 清美 (正幸会病院・薬剤指導局長)
    ・二瓶 文博 (大阪大学 監事 本校同窓会副会長)
    ・稲垣 房子 (元大阪府立中之島図書館 司書部長)
    ・小谷 真功 (高津宮 宮司)
    ・岡本 邦夫 (本校17年度PTA会長)
    ・松山 明   (大阪市立高津中学校 校長)

         第1回学校協議会   第2回学校協議会   第3回学校協議会
          (2006.06.14)      (2006.10.25)       (2007.02.27)

    平成17年度学校協議会

       <協議会委員>(敬称略)
    ・鳥居 宏次 (奈良先端科学技術大学院大学 前学長)
    ・松本 道弘 (大阪商工会議所 常務理事・事務局長)
    ・福家 清美 (正幸会病院・薬剤指導局長)
    ・二瓶 文博 (大阪大学 監事 本校同窓会副会長)
    ・稲垣 房子 (大阪府立中之島図書館 司書部長)
    ・小谷 真功 (高津宮 宮司)
    ・内田 承教 (本門佛立宗日乗寺住職 本校16年度PTA会長)
    ・松山 明   (大阪市立高津中学校 校長)

         第1回学校協議会   第2回学校協議会   第3回学校協議会
          (2005.06.01)      (2005.10.04)      (2006.02.14)

    平成16年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・井上 宏   (関西大学総合情報学部教授 本校OB)
    ・森田 雅美 (大阪市開発公社社長 同窓会副会長 本校OB)
    ・今井 芳彦 (大阪市立高津中学校長)
    ・松永 高博 (高津サッカー部監督 本校OB)
    ・柴田 ミネ子(芦屋女子短大教授 同窓会副会長)
    ・池島 照幸 (本校15年度PTA会長) [第3回は内田新会長が出席]

         第1回学校協議会   第2回学校協議会   第3回学校協議会
         (2004.05.21)       (2004.11.25)      (2005.03.02) 

    平成15年度学校協議会

      <協議会委員>(敬称略)
    ・井上 宏   (関西大学総合情報学部教授 本校OB)
    ・森田 雅美 (大阪市開発公社社長 同窓会副会長 本校OB)
    ・今井 芳彦 (大阪市立高津中学校長)
    ・松永 高博 (高津サッカー部監督 本校OB)
    ・柴田 ミネ子(芦屋女子短大教授 同窓会副会長)
    ・福井 進   (本校14年度PTA会長) [第3回は池島新会長が出席]

         第1回学校協議会   第2回学校協議会   第3回学校協議会
         (2003.02.07)       (2003.06.27)       (2003.12.6) 



    19歳の少年に殴る蹴るなどの暴行を加え、死亡させたとして男女3人が逮捕されました。
      逮捕されたのは、山梨県都留市の無職・天野正弘容疑者(28)と土木作業員・権守健太容疑者(22)、それに大月市の18歳の少女の3人です。
      3人は、6月24日の午後8時ごろからおよそ3時間にわたり都留市の住宅で19歳の少年に殴る蹴るなどの暴行を加え、死亡させた疑いがもたれています。
      警察は認否を明らかにしていませんが、既に暴行の疑いで逮捕した男2人を含め、5人で集団暴行した疑いもあるとみて慎重に捜査を進めています。

    転載元: 在日の違法行為を咎めるのブログ

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