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良識ある日本国民の皆様には、天安門事件から24年になることはご存知だと考えます。
天安門事件から24年 再評価見通しなく 習体制、逆に締め付け強化http://sankei.jp.msn.com/world/news/130603/chn13060321330010-n2.htm
中国で民主化を求める大学生らが人民解放軍に武力弾圧された1989年の天安門事件から4日で24年。習近平体制が昨年秋に発足してから初めての記念日だが、中国当局は遺族らによる犠牲者への追悼活動を禁止し、多くの事件関係者を北京郊外に連行するなど、締め付けを強化している。「天安門の母」と呼ばれる丁子霖氏ら事件の遺族は海外のインターネットを通じて「習近平新体制に失望した。あらゆる方向から絶望感が襲ってくる」との公開書簡を発表、中国当局の対応を批判している。
事件で長男を亡くした北京在住の女性遺族によると、習体制が発足した当時、「新体制のもとで、『反革命暴動』とされた事件が再評価されるのではないか」と多くの関係者が高い期待を寄せたという。
習氏の父親の仲勲氏(元副首相)は天安門事件当時、武力弾圧に反対した改革派だったことと、現在の習指導部の主要メンバーは事件当時、責任ある立場にいなかったことが理由だ。
遺族らは昨秋と今春の2度にわたり、習指導部に対し「事件の見直し」を求める内容の公開書簡を発表した。
しかし、習政権は公開書簡の要求を無視しただけではなく、事件関係者への監視や盗聴を強化し、複数の遺族が集まることも制限するなど、胡錦濤前政権より締め付けは厳しくなっている。数年前に一時認められた遺族らによる追悼活動も「今年は禁止」と伝えられ、当時の学生リーダーや人権派弁護士ら複数の事件関係者は5月末から治安当局者に北京郊外に連行され、外部と連絡が取れなくなっている。
中国外務省の洪磊報道官は3日の定例記者会見で、天安門事件について「すでに結論が出ていること」と述べ、現時点で習体制には事件を見直す意思がないことを確認した。そのうえで、洪報道官は「二十数年来、中国の経済と社会は大きく発展し、人民は広く自由と権利を有している」と述べ、当時の中国当局の武力弾圧の“正しさ”を強調するような発言も行った。
24周年記念日前に発表された遺族らの公開書簡は、習体制について「毛沢東時代に戻ろうと大きく動いている。建国以降の最も否定すべきものを大事にし、政治改革に期待する人々を大きく落胆させている」と指摘した上で、「私たちは決して諦めない。天安門事件が再評価され、死者が安らかに眠れるまで、戦い続ける」と結んでいる。
2013.6.3産経新聞
>中国で民主化を求める大学生らが人民解放軍に武力弾圧された1989年の天安門事件から4日で24年
「天安門事件」から24年になりましたが、中共の国家体制は変わっていません。
そして、胡錦濤前政権よりも習近平体制になってからのほうが「天安門事件」の関係者への締め付けは厳しくなっています。
また、6月3日に中共当局が「天安門事件」について、議論したり話題にしたりしないよう北京市内の事業所や企業に通知していたことがわかりました。
関係者によると、5月31日前後に事業所や企業内で従業員を集めた会合が開かれ、当局の意向を受けた幹部から事件について議論することを禁止し、共産党の思想を学ぶよう指示がありました。
後述しますが、「天安門事件」で日本国民が忘れてはならないことは、中共に天皇陛下を政治利用されたという事実です。
1989年4月15日に死去した胡耀邦元共産党総書記を学生や知識人らが追悼する動きが広がり、北京の天安門広場を中心に民主化要求運動に発展しました。
中共政府は戒厳令を布告し、6月4日未明に軍が学生らを武力鎮圧しました。
■ 動画
天安門事件
●天安門事件「写真」(グロあり注意!)
「天安門事件」から20年となる2009年、米国政府が事件当初から全容を把握していたことを証明する秘密文書が解禁されました。
北京の米国大使から本国政府へ送られた「天安門事件」についての最初の秘密報告の概要
6月4日午前1時、北新華街の片隅でも1・6キロも離れた民族飯店周辺から初めての銃声が聞こえてきた。西長安街ではバスやトラックが転覆、放火されて、オレンジ色の炎が道路沿いに広がった。
銃声がさらに大きくなり、人民解放軍の装甲車のヘッドライトが東に向けて動くにつれ、群集の間の怒りが高まった。年配の女性が「なぜ中国人が中国人を撃つのか」と叫んだ。若い男が「われわれは中国人だが、彼らは違う」と声をあげ、中南海を指さして「彼らは悪者なのだ」と叫んだ。
1時10分。群集の後方から腹に響く音が聞こえてきた。炎に包まれた装甲車が疾走してきた。装甲車の車輪に向け、群集は大きなコンクリート片を投げつけ、停止させた。怒った群集は装甲車を取り囲み、古い木材を積み重ねて火を放った。数分後、車の扉が開き、兵士が1人、飛び出した。群集は彼を捕まえて殴り、殺してしまった。
1時20分。後続の装甲車隊が群集を銃撃しながら北新華街に次々に到着した。弾丸が飛来し、群衆のなかに血まみれになって倒れる人間が続出した。デモ参加者は兵士たちが空砲でもゴム弾でもなく実弾を撃っていることを知り、恐怖に駆られて天安門方向や脇道へと逃走した。
1時45分。さらに新たな部隊が天安門に着き、装甲車隊が長安街に面して一定間隔で展開し、人民大会堂の東正面にも達した。装甲車隊は東長安街の約1万5000人の抗議者らにヘッドライトの光をあて、不動の態勢をとった。
2時9分。毛沢東主席の肖像画の前に並んだ将兵と装甲車隊は長安街の大群衆に対し発砲した。群集は東の北京飯店の方向へと、どっと避難した。多数の人間が銃弾を浴びて倒れ、苦痛の悲鳴が起きた。報告者に向かって「なんとかしてくれ! あなたがた外国人に助けて欲しい!」と叫んだ男は次の瞬間、額の真ん中に銃弾を受けて倒れた。
2時30分。約100人の解放軍兵士は歴史博物館隣の道路の向かい側に腹ばいで布陣し、ライフルを40メートルほど東のデモ隊に狙いを定めていた。兵士たちが狙撃をするたびに、デモ隊はばらばらとなり、遮蔽物を求めた。数分後には街路に戻り、仲間の死体を輪タクに乗せ、元の場所に集結した。次に再び銃撃が起きると、10~15人のデモ隊の人間たちがまた倒れた。
4時27分。天安門の照明は同3時30分に消えていたが、また点くと、装甲車、戦車、トラックなどが果てしないほど並んだ兵器集団が姿をみせた。照明は広場の北端近くの「民主の女神」の残骸を照らし出した。人民英雄記念碑の周囲からは煙が上がっていた。広場での銃撃は学生たちが人民解放軍への武器のない対決で、希望を失いながら殺されていったことを意味していた。
5時30分。装甲車、戦車、トラック合計約50台から成る軍の第2の隊列が轟音をあげながら東長安街を通って、天安門広場に入った。民主活動家たちが怒りの声をあげると、解放軍将兵はジープに装備した機関銃2丁を撃ち始め、15分ほども銃撃を続けた。
この大虐殺が中断されたとき、天安門広場と北京飯店の間の東長安街の路上には25~30の人間の体が横たわり、その一部はもがき、他は動かなかった。活動家たちはその道路ににじり寄り、死傷者を輪タクに乗せ、人民解放軍の狙撃手の列とまた対決する構えをとった。
6時20分。装甲車、戦車、トラック合計約40台の軍の第3の隊列が東長安街を東から驀進し、広場に入った。人民解放軍将兵は民主活動家ら群集に向けまた10分ほど機関銃の激しい射撃を続け、多数の死傷者を出した。
この2回の虐殺の間、天安門の政府拡声器からは奇妙に優しくなめらかな声が流れ、「北京の友人たち」に「混乱は終わり、秩序が回復され、乱暴者たちは鎮圧されました」という鎮静の言葉が伝えられ続けた。
7時30分。拡声器が静かになって数分後、聞きなれた勇ましい中国国歌が流れて、周囲の空気を圧した。だが国歌の吹奏はその途中で歴史博物館の背後から響いてくるライフル発射の音と東長安街でのデモ参加者にまた発射された機関銃の連続音とに抑えつけられた。
国歌が終わると、ソフトな女性の声が流れた。「同志たち、おはようございます。幸いにも反革命分子は粉砕されました。私たちの愛する天安門広場に平和が回復されました」
1989年6月4日、中共での民主化を要求して北京の天安門前広場で座り込みをしていた学生や市民らを、中共政府は人民解放軍が戦車で轢き殺すなど大虐殺を行ないました。
中共政府は、「天安門事件」の死者数を319人としていますが、実態は分かっていません。
「天安門事件」の後、西側諸国は中共への制裁として、投資を激減させることなどを行いました。
中共は孤立した状況で、経済的にも窮地に追い込まれていました。
しかし、1991年に首相の海部俊樹が訪中をし、日本政府は対中制裁を全面解除しました。
日本が対中経済制裁解除をしても、他の西側諸国は中共への制裁などの態度を変えませんでした。
中共は、日中国交正常化20周年の年、1992年の自民党政権に天皇陛下のご訪中を要望しました。
1992年に首相になった国賊の宮沢喜一は、日中国交20周年を理由に自民党内の反対派議員や、多くの日本国民の反対を無視して「天皇陛下ご訪中」を閣議決定しました。
私が若い頃に一緒に活動をしていた民族派の同志は、「天皇陛下ご訪中阻止」の目的で自決用の拳銃を所持し、首相官邸に対し火炎車で自爆テロを行いました。
■ 動画
衆院通用門前で車両炎上 自称元右翼
1992年(平成4年)10月23日より、天皇陛下はご訪中をされました。
天皇陛下のご訪中によって、西側諸国も中共への制裁を解除させることになりました。
中共の銭其元外相は「外交十記」という回想録に、
「日本は西側共同戦線の脆弱な部分で、最もいい突破口だった。(天皇訪中は)西側共同戦線や圧力を打破するのにプラス効果をもたらした」
と記しています。
天皇陛下がご訪中された翌年、1993年に江沢民が国家主席に就任しましたが、「愛国主義教育実施要綱」が伝達され、更なる反日教育を推し進めました。
1998年11月26日、国賓として来日した江沢民国家主席を歓迎するために、天皇・皇后両陛下主催の宮中晩餐会が催されました。
宮中晩餐会は、出席者全員がブラック・タイの礼服でしたが、江沢民は中山服(人民服)という平服姿で臨席して皇室を侮辱しました。
江沢民は宮中晩餐会で、「日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み、中国人民とアジアの他の国々の人民に大きな災難をもたらし」などと、日本を批判しました。
「天安門事件」で窮地にあった中共は、天皇陛下を政治利用して西側諸国からの制裁を解除できたのですが、しかし、江沢民は反日教育を推し進めました。
1972年(昭和47年)9月29日、日本は中共との国交を樹立しましたが、これまで約40年間に中共との関係が正常かつ友好的になったことは一度もありません。
「尖閣諸島」でも分かるように、中共は一歩譲れば二歩も三歩も踏み込んでくる国です。
日本国民、沖縄県民は、中共は現在進行形の侵略国家という事実を理解するべきです。
天安門事件から24年ですが、中共は民主活動家やチベットなどの国民を弾圧し、アジア・アフリカなど世界各国に間接・直接侵略しています。
良識ある日本国民の皆様、中共についてご考慮下さい。
支那は人類の敵!
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