http://www.nocutnews.co.kr/news/4845059 <ノーカットニュース> 2017.9.14の記事
父母と山に隠れた少年、友人と捕まる
<済州4・3の受刑者>④ オ・ヨンジョン「7年刑の果てに両親は死に、弟だけが残った…」
済州4・3事件(1947.3~1954.9)で約3万人の済州島民が死亡し、約2,500人の民間人が軍事裁判を受けた。彼ら受刑者は、拷問の後遺症で獄死したり、生き残った者は肉体的・精神的な後遺障害とともに無念の人生を生きてきた。現在まで申告された受刑生存者は33人。このうち18人が去る4月19日に済州地方法院に「4・3受刑犠牲者不法軍事裁判の再審」を請求した。CBSノーカットニュースは、彼ら18人の数奇な人生を紹介する。記事は受刑生存者の人生を理解しやすいように、一部は1人称で、残りはインタビュー形式をとった。当時の年齢は受刑者名簿による。(編集部注)
▲オ・ヨンジョン氏(写真:ムン・ジュニョン記者)
オ・ヨンジョン氏(87)は、1930年、西帰浦南元邑漢南里で生まれた。両親は農業を営み、主にサツマイモを薄く切って干した「ペテギ」を売って金を稼いでいた。日帝強占期に農産物の供出がひどく、生活が苦しい時期だった。
家が貧しいため、オ氏は学校に通えなかった。書堂で文字を少し覚えたのがすべてだった。村の友だちと一緒に遊ぶのが一日のすべてだったオ・ヨンジョン少年。
小さな島済州、その中でも小さな村の南元邑漢南里に暮らしていた少年は、「理念」が何なのか、「アカ」がどういう意味なのか分からなかった。
少年に4・3という理念が垂れこめてきたのは1948年のことだ。オ氏はこの年、南元邑に住んでいるチョン・ギソンという同い年の女性と結婚した。当時、二人の歳は18歳。オ氏は南元邑の中山間地域に、チョン・ギソンは海岸地域に住んでいた。4・3当時、済州島の海岸と中山間地域には、「理念」と「アカ」という名の深刻な葛藤があった。軍警の弾圧を避けて中山間に逃げて行った人々は「アカ」と決めつけられたからだ。
「最近では、結婚したその日から夫婦が一緒に暮らすが、当時は結婚した後も(両方の親の家を)行ったり来たりしていました。海岸では、中山間の人をアカ、山の暴徒と呼んでいました。中山間では歩哨に立って、麓の人(軍警)に備えていました。軍警が中山間の人を見ると銃で殴り倒しましたから。
▲4・3当時、婦女たちが竹槍を持って村の歩哨に立っている。(写真:第2連隊済州島駐屯記。4・3真相報告書)
中山間の村である漢南里の村人たちは、このままでは死ぬと思って、村の近くで歩哨に立った。警察が上がって来ると村人に知らせ、逃げさせた。当時、村人たちは、軍人を「黄色い犬」、警察を「黒い犬」と呼んだ。自然と海岸に住んでいた新婦とも疎遠になっていった。
「葛藤が極限に達した1948年10月末に、漢南里がみんな燃やされました。軍人がやって来て火を放ったのです。燃えなかった家はありませんでした。そうして、村人たちはみんな山に逃げて行きました。私も両親やきょうだいと一緒に山に行きました。家の裏にコリンオルムというのがありました。そこに行きました。」
オ氏の家族は、昼は山にいて、夜は家に降りて来て、埋めておいたサツマイモをこっそりと掘り出し、飢えをしのいだ。そうして数カ月間を山で暮らしたオ氏は、友だちと小川に出かけて軍人に見つかり、銃で撃たれて怪我をした。
「友だちと川で石を踏んで跳んでいたら、軍人に銃で撃たれました。銃弾が左側のお尻の付近を貫通しました。撃たれて足が曲がったのですが、火薬の煙が上ってきました。その時、6~7人が西帰浦市の吐坪里にある軍の駐屯地に連れて行かれました。そこで軍人が同僚に『銃で撃って殺せよ。なんで連れて来たんだ』と言っていました。」
▲オ・ヨンジョン氏(写真:ムン・ジュニョン記者)
オ氏は、銃で撃たれて拷問を免れたが、一緒に捕まった人たちはひどい苦痛を敬虔しなければならなかった。オ氏の一行は、その後、東拓会社に移された後、観徳亭で不法な軍事裁判にかけられ、大邱刑務所に収監された。
「観徳亭では名前を呼ばれて返事をしただけです。それが裁判だとは知りませんでした。その後、船に乗って大邱刑務所に行って初めてわかりました。1949年7月頃に大邱刑務所に行ったと記憶しています。そこで教導官が国防警備法違反だと言って、懲役15年だと言われました。」
国家記録院に記録されている4・3受刑者名簿によると、オ氏は1949年7月3日に判決を受けたと記録されている。
▲チュ・ミエ共に民主党代表が1999年9月15日、当時の政府記録保存所で発見した4・3受刑者名簿によると、オ・ヨンジョン氏の軍法会議の判決日は1949年7月3日と記録されている。(写真:4・3受刑者名簿/ムン・ジュニョン記者)
オ氏は済州で捕まっている時は死ぬ運命だと思っていた。刑務所に移された時に生きられるという確信を持ったが、懲役15年という言葉を聞いて挫折した。以後、釜山刑務所に移されたオ氏は、赦免で7年に減刑された。
「減刑されて希望を持ちました。15年の宣告を受けた時は死ぬ運命だと思っていました。尻の銃創は大邱刑務所で治療しました。尻に穴が開いて膿がだらだら流れて来るのを、刑務所の警備員がナイフで抉り出して膿を捨てました。若いから回復力が早かったのか、すぐに治りました。」
釜山にいたオ氏は、朝鮮戦争が起きた年の10月に馬山に移された。馬山刑務所では藁で縄を編んで買い物かごを作っていた。そこで5年過ごした後、再び馬山に移され、1956年2月に刑を終えて満期出所した。
「出所する時に身分確認証をくれました。それを示すと船に乗れました。済州に着いて故郷の漢南里に戻って来ました。戻ってみると、父は捕まって亡くなり、母は病気で亡くなったと聞きました。祖母と叔母、弟だけが残っていました。
▲オ・ヨンジョン氏(写真:ムン・ジュニョン記者)
家族を失ったオ氏は、農業をして生きながらえた。要視察人物となって警察の監視がついて回った。警察は、村の里長とオ氏の周辺の人々にオ氏の行動と噂を聞いたりした。
「死ぬ直前であっても安らかな気持ちで生きるのが願いです。名誉回復がされて、苦しかった人生に対する補償もしてくれないと。なのに、率直に言って、今はみななくなってしまって、希望もありません。私がこうして話しても、言葉だけでは分からないでしょう。あの時の苦しみを…。」
90歳を目の前にしたオ氏の死ぬまでの願いは、70年の無念の恨(ハン)を解くことだ。