通州事件
通州事件 場所 標的 日付 攻撃側人数 死亡者 犯人 謝罪 賠償
事件翌日、日本軍救援部隊により安寧を取り戻す通州 | |
通州(現:北京市通州区北部) | |
日本軍通州守備隊・日本人居留民 | |
1937年(昭和12年)7月29日 午前2時-午前3時[1][2]– | |
3000人 - 4000人(6000人[3][4]) | |
通州在留日本人・朝鮮人385名のうち223名[5][4] - 260名[6][7][8]。 223人の内訳: 日本人117人、朝鮮人106人[4]。 | |
冀東防共自治政府保安隊 保安隊長:張慶餘・張硯田 | |
冀東政府による謝罪 | |
120万円 |
通州事件とは、1937年(昭和12年)7月29日に中国陥落区の通州(現:北京市通州区)において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍の通州守備隊・通州特務機関及び日本人居留民を襲撃した事件。通州守備隊は包囲下に置かれ、通州特務機関は壊滅し、猟奇的な殺害、処刑が行われた。通州虐殺事件とも。
当時中国を取材していたアメリカ人ジャーナリストフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズは通州事件を以下のように報道している。
日本人は友人であるかのように警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。
それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男性、女性、子供たちは野獣のような支那兵によって追い詰められていった。
家から連れ出され、女子供はこの兵隊の暴漢どもに暴行を受けた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼等の同国人が彼等を発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。
それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男性、女性、子供たちは野獣のような支那兵によって追い詰められていった。
家から連れ出され、女子供はこの兵隊の暴漢どもに暴行を受けた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼等の同国人が彼等を発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。
多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼等の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。支那兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。
背景
冀東政府保安隊
冀東防共自治政府は日本の華北分離工作によって樹立された ものであった[6]。早稲田大学を卒業した親日派の殷汝耕を中心に1935年11月25日、通州で自治宣言を発表し、12月には自治政府として活動を始め、自治政府保安隊2個隊が設置された[6]。国民党政府はこの冀東自治政府に対抗して冀察政務委員会(冀察政府)(委員長:宋哲元)を設置した[6]。
冀東防共自治政府保安隊は、日本軍の支那駐屯軍から派遣された将兵により軍事訓練が施された治安部隊であり、教導総隊及び第一、第二、第三、第四の五個総隊で編成されていた[12][13]。通州城内には、保安隊第一総隊(総隊長:張慶余)の一個区隊と教導総隊(総隊長:殷汝耕、副総隊長:張慶余)が、城外には、第二総隊(総隊長:張硯田)の一個区隊が配備されていた[12]。第一総隊第二区隊は、重機関銃や野砲も装備していた[14]。
ただし、旧東北軍の一部から編成された部隊であり、対日感情は決して良いものではなく、強い反日感情を抱く幹部もいたという[12][15]。1936年11月20日午後7時頃に昌黎保安隊第5、第6中隊の約400名が北寧鉄道の同治 - 開平間で機関車を停車させ、灤県部隊査閲のため同地に向っていた山海関守備隊長古田龍三少佐、副官松尾新一大尉、灤県守備隊長永松享一大尉、片木應緊軍医、久住照雄主計と同乗の日本人10名を拉致した[16][17]。この兵変は鎮圧されたが、古田少佐が責任をとって割腹自殺した[16][18]。
日本軍通州部隊
通州には、義和団の乱後の北京議定書に基づき、欧米列強同様に日本軍が邦人居留民保護の目的で駐留していた。この通州部隊は元々、通州に配置されようとした際に、京津線から離れた通州への配置は北京議定書の趣旨では認められないと梅津美治郎陸軍次官が強く反対したため、代わりに北平西南の豊台に配置された部隊であった[19]。
盧溝橋事件発生時、通州には支那駐屯歩兵第一大隊の一個小隊(小隊長:藤尾心一中尉)の約45名と通州憲兵分隊7名が駐屯しており、7月18日夜、支那駐屯歩兵第二連隊(連隊長:萱島高中佐)が天津から到着し、通州師範学校に逗留した[20]。1937年7月15日付「支那駐屯軍ノ作戦計画策定」に従い、「第一期掃蕩戦」の準備のため通州と豊台に補給基点が設置され[注釈 1]、会戦間に戦闘司令所の通州又は豊台への進出の可能性が想定された[注釈 2]。
通州事件までの諸事件
1937年7月7日に中国軍による駐留日本軍への銃撃に端を発した盧溝橋事件が勃発し宋哲元の第29軍と日本軍が衝突した[6]。まもなく停戦協定が結ばれたが、7月10日に日本軍将校斥候へ迫撃砲弾が撃ち込まれた[22]。7月13日、北京郊外の豊台付近で第29軍第38帥によって日本軍トラックが爆破され4名が殺害され(大紅門事件)[22]、7月16日には両軍の間で砲撃が行われた[22]。7
月17日には宋哲元は日本との和平を決意し、翌18日には支那駐屯軍司令官香月中将と会見し、宋は遺憾の意を表明した[6]。19日には冀察政務委員会と日本とで停戦協定が締結された[6]。しかし、国民政府外交部はこの協定の「地方的解決は認めない」と通告した[6]。日本側も参謀本部で硬軟派で意見が対立し、対中外交は機能不全となっていた[6]。
7月26日深夜、通州新南門外の宝通寺に駐屯していた国民革命軍第29軍の独立第39旅(旅長:阮玄武)の隷下にある717団1営(営長:傳鴻恩)[24][25]に対し、日本側は武装解除し北平に向け退去するよう求める通告を行った。翌27日午前3時に至っても傳鴻恩からの回答はなく、兵営には抗戦の規制が横溢し兵馬の騒めきもひとしおであるとの密偵の報告があったため、同日黎明4時、支那駐屯歩兵第二連隊は攻撃を開始し[26]、午前11時までに傳鴻恩部隊の掃蕩を完了した[27][28][29]。
7月28日、南苑は陥落し、7月30日までに日本軍は北京(北平)・天津地域を占領した(平津作戦)。
関東軍による冀東保安隊への誤爆
7月27日の傳鴻恩部隊掃蕩の際、日本の関東軍の爆撃機が冀東保安隊幹部訓練所を誤爆し、保安隊員の数名が重傷を負い、数名は爆死した。細木繁特務機関長は、冀東€政府の殷汝耕長官に陳謝し、爆死者の遺族への補償と負傷者への医療と慰藉を講ずる旨申し出た[27]。翌28日、細木は、保安隊教導隊幹部を冀東政府に招集し、誤爆に関して説明し慰撫に努めた。
中華国民政府によるデマ放送
1937年7月27日に中華国民政府はラジオ放送で「盧溝橋で日本軍は二十九軍に惨敗し、豊台と廊坊は中国軍が奪還した」と虚偽報道をした[30]。それに続き、「最近北京における軍事会議の結果、蔣委員長(蒋介石)は近く29軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州の敵を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにあげる」と宣言した[31][30]。
冀東防共自治政府保安隊の幹部張慶餘と張硯田は密かに第29軍と接触していた[30]。第29軍の通州攻撃を防ぐために開かれた軍事会議上で張慶餘と張硯田は分散していた配下の保安隊を通州に集結させることを提案し、保安隊の監督を担当していた日本軍の通州特務機関長細木繁中佐[32](支那駐屯軍司令部付)も、日本人保護のためと認識してこれを了承していた[30]。保安隊が集結し準備が整うと深夜に通州城門を閉鎖し、通信手段を遮断すると決起した[30]。
事件直前の情勢
中国軍の北京退却
天津と通州等への攻撃
7月28日(前日)
天津では7月28日午前1時頃、中国軍38師団228団と独立26旅団678団と保安隊が、海光寺兵営、鐘紡向上、東站停車場、糧秣集積所を、午前3時頃には飛行場を襲撃したが、日本軍は東站停車場をのぞいて撃退に成功した[35]。
通州では、7月28日夜半、冀東防共自治政府保安隊中教導総隊第一・第二総隊と国民革命軍29軍敗残兵ら約3000人の中国軍が決起した(日本軍陸軍省新聞班による[1])。
7月29日(事件と同時期)
- 冀東防共自治政府保安隊が通州日本人を襲撃したのとほぼ同時刻の7月29日午前2時、38団師団長李文田率いる天津中国軍は日本軍に反撃を開始した[33]。しかし翌30日に敗北した[33]。
- 翌日の7月29日朝(通州事件と同じ頃)、日本軍の塘沽守備隊が中国軍より攻撃を受けたので反撃し、午後1時半頃同地を占領した[37]。