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南京陥落
- 12月13日
- 午前3時10分、紫禁山から向かった16師団歩兵33聯隊は中山門を占領[79]。同隊中隊長は全員戦死した[79]。午前8時30分、16師団戦車第一大隊は中山門に到着した[79]。13師団山田支隊は烏龍山砲台を占領[82]。
- 揚子江を渡ってきた国崎支隊は南京の対岸浦口を占領し、敵の退路を遮断した[82]。
- 午前9時頃[101]、南京城内の新路口5番の民家に賊が押し入り、生存者で当時7〜8歳の夏淑琴の祖父、祖母、五女(0歳)を殺害し、夏夫人(母)と長女(16歳)次女(14歳)を強姦後に殺害した新路口事件が発生した。ジョン・マギーはこの賊を日本兵として東京裁判で供述した。
- 夕方、南京城が陥落し、日本軍が占領した[21][5]。ダーディン記者は「最初の日本軍の一縦隊が南門から入り、市のロータリー広場に通ずる中山路を行軍しはじめると、中国人は包囲攻撃が終わった安堵感と、日本軍は平和と秩序を回復してくれるはずだという大きな期待から、一般市民が数人ずつかたまって、大きな歓声をあげた」と報じた[87]。
- 独立軽装甲車第二中隊は雨花台北麓の兵工廟でドック内の中国人遺体400〜500を発見し、同隊本部曹長藤田清は中国軍が退却の際の処理かと推定した[82]。藤田は雨花台付近で婦女子や非戦闘員の遺体は目撃しなかった[82]。
- 中国敗残兵は外国人に身を任せてきて、ダーディン記者に何十挺もの銃を押しつけた[87]。日本軍は捕虜政策を実施せず、第16師団中島今朝吾師団長の12月13日の日記が捕虜殺害の証拠として論じられることもある[5]が、東中野修道は異論を唱えている[102](南京事件論争)。中国共産党の毛沢東は延安で南京陥落を聞いて大喜びし、祝杯をあげたという[103]。
- 午後7時、2~300の中国軍が、上海派遣軍独立攻城重砲兵第2大隊を襲撃するが、撃退される[104]
- ロイター通信のスミス記者によれば、13日夜、中国敗残兵や中国人市民が食料品店から掠奪をした[105]。また中華門付近での戦闘では中国の戦死者は1000人以上となった[105]。
掃討戦
- 12月14日
- 午前4時、第13師団山田旅団(山田栴二隊)は幕府山に向かい、先遣隊が午前8時占領、山田旅団は捕虜14,777を上元門外の学校に収容[106])。
- 南京城内の敗残兵掃蕩を開始(-16日)[107][108]。掃蕩にあたっては(1)外国権益への留意(2)住民に対する配慮 (3)失火放火に厳重注意とされ、犯せば厳罰と通達された(4)将校の指揮する掃蕩隊でなければ認められず、下士官の指揮では認めない(5)無用の部隊の侵入は認めない(富山と金沢部隊が実行している)(6)掃蕩を終えて帰還する時刻を定めた(7)捕虜は一箇所に集め、その食料は師団に請求することが命令され、通訳をつけて問題を起さないように注意もあったという[108]。主にこの日以降、捕虜、敗残兵の数千人単位の殺害が何か所も殺害が行われたが、一部民間人の殺害・暴行も含めて、その中には戦時国際法違反の疑いもあるとして戦後追求された(南京事件(南京大虐殺))[109]。
- 昼になってもまだ抵抗を続ける中国部隊があった、彼らは日本軍に包囲されている現状も知らずに戦っていた[87]。
- 午後2時頃堯化門において約7000〜7200名の中国兵が降伏してきたため、午後6時に歩兵第38連隊一中隊護衛をつけ仙鶴門鎮北側に集め、17,8日頃、中央刑務所(第一監獄所)に護送した[104][110][111]。
- A・T・スティール記者がシカゴ・デイリー・ニューズで”NANKING MASSACRE STORY”(南京大虐殺物語)を報道[112]
- ロイター通信のスミス記者によれば、14日朝までに日本軍は市民に危害を加えなかったが、14日昼になると6〜10人で徒党を組んだ日本兵が「連隊徽章を外して」、民家を見境なく「組織的に、徹底的に掠奪し」、15日までに中国人と欧米人の民家からは家財道具や壁掛け時計が掠奪されたとスミスはいう[105]。
- 東京では40万人が南京攻略祝賀の提灯行列を行った[5]
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- Image may be NSFW.15日
Clik here to view. - 第13師団山田支隊が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜とし、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容したところ、夜に半数が逃亡した(戦史叢書[113])とするが、山田栴二日記では捕虜の仕末について本間騎兵少尉を南京に派遣すると「皆殺せとのことなり」とある(これに関する論争は幕府山事件(山田支隊の捕虜処断))[106]。
- ジョン・ラーベは、日本軍が安全区に隠れていた中国兵1300人を捕えたので、射殺されると予想し、スマイスと日本大使館補福田篤泰に救援を依頼した[114]。またラーベは、中国軍が済南で日本人捕虜2000人を射殺したとも日記に書いた[114]。
- ダーディン記者は、交通部近くの防空壕に潜む100人以上の中国部隊に戦車砲で発砲がなされるのを見たり、整壕での10人ほどの兵隊の銃殺など、3つの集団処刑を目撃した[87]。
- 日本軍がすでに占領統治を開始した北京にある天安⾨広場には5万人の北京市民が集まり、日の丸 と五⾊旗を振って南京陥落を祝っている[115]姿が写真に残っているが、その前日に北京では、日本の傀儡政権である中華民国臨時政府 (北京)が設立していた[116]。
- 16日
- 日本軍司令部は、軍服を捨て武器を隠し平服を着た中国兵25,000人が市内にいると発表[117]。
日本軍による南京城への入城式
(1937年12月17日)[118]
(1937年12月17日)[118]
- 17日
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日本占領下の南京
- 12月21日
- 各兵団は城内から退出[124]
- 12月22日
- 第16師団歩兵第30旅団が警備を担当[124]。
- 12月23日
- 陶錫山委員長の下、南京自治委員会が設立され、治安はかなり回復した[125][126]。(写真)
兵民分離査問工作
- 12月24日
- 第16師団憲兵隊と南京安全区国際委員会が合同し南京難民区の兵民分離査問工作が開始された(翌年1月5日に終了)[127]。
- 難民所の金陵大学テニスコートから200〜300人が五台山と漢西門外に連れ出され殺害された[128][5]。
- 午前10時、ミニー・ヴォートリンに日本将校が娼婦100人を募集することを要請し、慰安所(regular licensed place)設置の理解を求めた[129](宋維木は設置されたとする[5])。
- 12月28日
- 28日までに安全区の外国大使館に隠れていた中国軍将校23名、下士官54名、兵1498名が摘発された(日本憲兵隊報告[130][131])。中国軍指揮官Wang Hsianglao(王信労)は民間人を装い、国際避難民の第4地区を指揮していた。88師副師長Ma Poushang(馬跑香)中将は安全区内で反日攪乱行為の活動を続け、ほか小銃17挺とHuan An(黄安)大尉も発見された[130]。この中国軍将兵は、掠奪、脅迫、レイプを繰り返していたと報告された[130]。さらに大使館に隣接する防空壕からは、チェコ式機関銃21挺(弾丸60発)、機関銃3挺、水冷式重機関銃10挺(弾丸3,000発)、小銃50挺(弾丸42,000)、手榴弾7,000個、小型野砲1台(重迫撃砲弾2,000個、砲弾500個)など兵器が発見された[130]。
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