韓国軍慰安婦
韓国軍慰安婦(かんこくぐんいあんふ)、または大韓民国軍慰安婦(だいかんみんこくぐんいあんふ、韓国語: 한국군위안부、대한민국군위안부、英語: Korean Military Comfort Women[1])とは、大日本帝国が大東亜戦争で無条件降伏した後における韓国軍と在韓米軍や国連軍を相手にした慰安婦。
朝鮮戦争やベトナム戦争では韓国はアメリカ合衆国を基盤とした連合軍に参加したため、韓国で設置された慰安所および慰安婦(特殊慰安隊)は韓国軍だけでなく米軍をはじめとする国連軍も利用した。現在も坡州市のヨンジュコル(용주골、en:Yong Ju Gol)[2][3]などに存在している。
基地村政策沿革[5]
- 1947.11.14 公娼制度廃止
- 1950-1954 韓国軍慰安婦設置
- 1961.11.9 淪落行為等防止法(ko:윤락행위 등 방지법)制定
- 1962.6 米軍基地近隣104ヶ所を特定(淪落)地域に指定し売春取締除外
- 1971.12.22 政府主導で基地村浄化委員会発足
- 1970-1980年代 強制性病検診、基地村女性人権侵害がひどい
- 1990-1991年 梨花女子大元教授の尹貞玉が日本軍慰安婦問題を新聞で初めて告発。
- 1992年 尹今伊殺害事件(米軍兵士が基地村女性殺害)
- 1996年 性病管理所閉鎖(韓国政府による管理売春終わる)
- 1990年代後半 フィリピン等外国人女性に代替(民営化)
名称
韓国陸軍本部が1956年に編纂した公文書『後方戦史(人事編)』には「固定式慰安所-特殊慰安隊」とあり、朝鮮戦争中は「特殊慰安隊」[6][7][8][9]または「第5種補給品」[6][10]とも呼ばれた。
韓国では、「慰安婦(위안부)」という言葉は、1980年代までは主に米軍・国連軍慰安婦の事を指しており、日本軍慰安婦はほとんど問題になっていなかった。しかし1990年代に日本との問題が大きくなってからは、「慰安婦」という言葉は、日本軍慰安婦に対して使われるようになり、米軍・国連軍慰安婦に対しては使われなくなった[13]。
年度 日本軍慰安婦関連記事数 米軍・国連軍慰安婦関係記事数1951-55 | 1件 | 17件 |
1956-60 | 0件 | 36件 |
1961-65 | 0件 | 56件 |
1966-70 | 1件 | 118件 |
1971-75 | 5件 | 39件 |
1976-80 | 0件 | 20件 |
1981-85 | 4件 | 9件 |
1986-90 | 5件 | 8件 |
1991-95 | 616件 | 3件 |
ほかに蔑称の意味合いもある「洋パン(ヤン・セクシ)」[10]「洋公主(ko:양공주、ヤンコンジュ、ヤンカルボ)」[14][10][8]、また毛布一枚で米軍基地について回るという意味で「毛布部隊」[14]、ベトナム戦争時は「ディズニーランド」とも呼ばれた[15]。また米兵を相手にするフィリピン人慰安婦を「ヤンキー売春婦」「コメで動くチビ茶色のファッキンマシーン」などとする蔑称もある[16]。ほかにジューシーガール(juicy girls)、バーガール(bar girls)、ホステス(hostesses)、エンターテナー(entertainer)という言い方もされる[17][18]。
これらの英語表記はcomfort womanであり、日本語の慰安婦の英訳と同一である[14]。英語では韓国軍・在韓米軍慰安婦は一般にKorean Military Comfort Womenと表記される[1][14]。
もっとも朝鮮戦争やベトナム戦争におけるこの種の行為について韓国内では全く議論になっていないため、韓国最大手の新聞朝鮮日報でも「人の心を持った国なら、自国民を国営売春婦にするという発想はしない。」との記事を執筆するレベルの認識にとどまっている[20]。
連合軍軍政期の朝鮮における慰安婦
朝鮮半島においては、連合軍による軍政が敷かれ慰安所、慰安婦ともにアメリカ軍に引き継がれた[17][21][14]。1945年9月には、日本軍兵站基地があった富平に米軍基地が居抜きで建設され、基地周辺にあった公娼地域も引き継がれた[14]。富平基地はキャンプ・グラント(Camp Grant)、キャンプ・マーケット(Camp Market)、キャンプ・タイラー(Camp Tyler)、キャンプ・ヘイズ(Camp Hayes)を網羅する広大な基地だった[14]。
1947年11月には公娼制が廃止されたが、1948年に米軍は公娼制廃止によって性病が蔓延したと主張し、娼婦の性病検査は1949年まで続けられた[14]。
朝鮮戦争と特殊慰安隊
1948年8月15日にはアメリカ合衆国の支援を受けて大韓民国が建国された。同年9月9日には朝鮮民主主義人民共和国が独立する。しかし、1950年より南北朝鮮の間で朝鮮戦争が勃発、1953年7月27日に休戦する。
大韓民国政府は、韓国軍と国連軍のための慰安所を運営した[23]。韓国軍は直接慰安所を経営することもあり、韓国陸軍本部は特殊慰安隊実績統計表を作成していた[6][7]。部隊長の裁量で周辺の私娼窟から女性を調達し、兵士達に補給した[10]。韓国軍によりトラックで最前線まで補給された女性達は、夜になると開店しアメリカ兵も利用した[10]。
「特殊慰安隊」
韓国軍が1951年-1954年まで「特殊慰安隊」という名前で、固定式あるいは移動式慰安婦制度を取り入れて運用したことは韓国陸軍本部が1956年に編纂した公式記録である『後方戦史』(후방전사)の人事編と目撃者たちの証言によって裏付けられた[25]。
第五種補給品
韓国軍慰安婦の類型
また、正規の「慰安隊」とは別に部隊長裁量で慰安婦を抱えた部隊もあった[29]。
設置理由
特殊慰安隊の設置理由は、兵士の士気高揚、性犯罪予防であり、これは日本軍慰安婦と同様のものであった[26](韓国政府や軍が直接募集・設置運営している点は日本と異なる)。
計画は陸軍本部恤兵監室が行い[26]、1950年7月には韓国政府は軍作戦指揮権を米軍を中心とした国連軍に譲渡しており、最終的な承認は連合軍が行ったとされる[26]。韓国政府・軍は慰安婦に対して「あなたたちはドルを得る愛国者」として「称賛」したという[30][14]。
設置時期と場所
韓国政府は、韓国軍だけではなく国連軍のための慰安所も運営した。
釜山・馬山
江陵・春川など
ソウルの慰安所
- 第一小隊用慰安所(現・ソウル市中区忠武路四街148)
- 第二小隊用慰安所(現・ソウル特別市中区草洞105)
- 第三小隊用慰安所(現・ソウル特別市城東区神堂洞236)
朝鮮戦域における日本人慰安婦
朝鮮戦争時の慰安婦の数
強制連行
韓国軍慰安婦のケースでは韓国政府やアメリカ政府による強制があったとされている[30][6][7][35]。 韓国における慰安婦はアメリカ兵に残忍に殺害されることや、アメリカ兵によるとされる放火で命を落とすこともあった[35]。
国連軍による性暴力と強制連行
崔吉城は論文「朝鮮戦争における国連軍の性暴行と売春」において、朝鮮戦争時には敵国ではない韓国において国連軍がソウル市北部の村で日中、シェパードを連れて女性を捜索し、発見後に強姦に及んだり、またジープにのって民家を訪れ女性を強制連行して性暴力をはたらいたことや、韓国人兵士が韓国人女性に性暴力や性拷問をはたらいたことを紹介している[36]。性暴力をうけたのは女性だけでなく、10歳位の男子がフェラチオを強要され喉が破裂したこともあった[36]。
北朝鮮人女性の強制連行
捕虜となった朝鮮人民軍女軍[37]、女性パルチザンゲリラ、そのほかに朝鮮人民軍や中国の人民志願軍の占領地内の住民である朝鮮人女性のうちまだ疎開しなかった女性などが、共産主義者を助けたとの名目で強制的に性奴隷にされた。
朝鮮戦争休戦からベトナム戦争まで
閉鎖と存続
1953年7月27日の朝鮮戦争の休戦にともない各慰安所は1954年3月に閉鎖され[26]、翌1954年に「正規」の「慰安隊」はなくなったが、事実上の慰安隊が私娼の形で存続し費用は「厚生費」などの名目で支出されていた[25]。
軍隊慰安所は公式には解体されねばならなかったが、韓国政府とアメリカ政府は存続の協議のため「性病対策委員会」を設置した[14]。1957年の会議では米経済調整官室(Office of Economic Coodinator,OEC)側は、決定を韓国側で行ってほしいと韓国側に要請し、ソウル、仁川、釜山に接客業所やダンスホールを指定し設置した[14]。こうして洋公主は、国家管理によって慰安婦と「米軍同居女」の二つに分類されるようになり、東豆川や議政府という基地村が栄えていった[14]。
売春業者による誘拐事件
朝鮮では1930年代にも売春斡旋業者による少女誘拐事件が頻発したが[38]、朝鮮戦争後も売春斡旋業者による少女誘拐事件が発生している。1956年4月には「売淫ブローカー」によって少女2名が誘拐[39]。
韓国政府による慰安婦政策:「特殊観光」
1960年代の韓国ではアメリカ軍相手の売春が国家を挙げて奨励され、国民総生産の25%を占めていた[40][14]。1962年の韓国の相場では、ショートタイムで2ドル、ロングタイムで5ドルであった[10]。固定的な性的関係を持つことによって月給をもらう女性もいた[10]。
1970年代になると、外貨稼ぎの主軸とみなされるようになり[14]、慰安婦・洋公主たちは「ドルを稼ぐ愛国者」、「真の愛国者」、「ドルを稼ぐ妖精」「民間外交官」[14]と韓国政府から称賛された[30][41][42][35][14]。
1961年、朴正煕政権は観光事業振興法を制定し、免税ビールを許可された特殊観光施設業者を指定し、赤線地帯を設立していった[14]。1962年6月には保健社会部、法務部、内務部合同で韓国国内の104カ所の淪落地域を設置、龍山駅、永登浦駅、ソウル駅、梨泰院、東豆川、議政府などもそこに含まれた[14]。国内で管理売春政策をすすめる一方、1962年4月に韓国は人身売買禁止条約に署名している[14]。