国民防衛軍事件
国民防衛軍事件 各種表記ハングル:漢字:発音:
整列する国民防衛軍の将兵 | |
국민방위군 사건 | |
國民防衛軍事件 | |
クンミンバンウィグン サコン |
国民防衛軍事件(こくみんぼうえいぐんじけん)は、朝鮮戦争中の1951年1月に、韓国の国民防衛軍司令部の幹部らが、国民防衛軍に供給された軍事物資や兵糧米などを横領した事件。横領により9万名余りの韓国軍兵士が餓死したとされる[1]。
概要
朝鮮戦争を戦っていた韓国軍は一時期中朝国境付近にまで進軍したが、中国義勇軍の参戦(1950年10月19日)によって戦局が悪化する一方で、まともな兵員招集ができる状況になかった[3][4]。そのため、韓国政府は悪化する戦況を打開するために、約50万人の将兵達を51個の教育連隊に分散・収容して国民防衛軍を編成し、韓国軍の戦力を補強しようとした。しかし、早急に編成された軍隊であるため、将兵の動員・輸送・訓練・武装などのための予算不足、及び指揮統制の未熟さ等の問題点を当初から抱えていた。
防衛軍発足直前の時点で前線は北朝鮮地域の一部占領地域(黄海道、及び東朝鮮湾沿岸部)、及び北緯38度線付近にまで後退していたが、1951年1月4日に北朝鮮・中国両軍の攻勢を受けた韓国軍は前線の後退(いわゆる「1・4後退」)作戦を敢行し、国民防衛軍は50万人余りの将兵を後方の大邱や釜山へと集団移送することになった。しかし、防衛軍司令部の幹部達は、国民防衛軍のために編成された軍事物資や兵糧の米などを、不正に処分・着服した。その結果、極寒の中を徒歩で後退する将兵に対する物資供給(食糧・野営装備・軍服)の不足が生じ、9万名余りの餓死者・凍死者[1]と無数の病人を出す「死の行進」となった。
この事件は国会で暴露され、真相調査団が設置された。調査の結果、人員数の水増し報告により国庫金23億ウォン、糧穀5万2000石が着服・横領され、食料品費の計上額と実際の執行額・調達額の差が約20億ウォンに上ることが明らかとなった。また、着服金の一部が李承晩大統領の政治資金として使われたことも明かされ、李始栄副大統領と、事件の黒幕と見られた申性模国防部長官が辞任した。
翌1951年4月30日、国会は防衛軍の解散を決議し、5月12日に解体された。同年7月19日に中央高等軍法会議が開かれ、国民防衛軍司令官金潤根(キム・ユングン、김윤근)、副司令官尹益憲(ユン・イクホン、윤익헌)など5人に死刑が言い渡され[5]、8月12日に大邸郊外の端山で死刑が執行された[1]。
この事件によって、韓国陸軍本部では李承晩への反感が高まった[6]。
李承晩
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(ハングル)が含まれています 。 |
李承晩 이승만 | |
1948年7月20日– 1960年4月26日 | |
李始栄(1948-1951) 金性洙(1951-1952) 咸台永(1952-1956) 張勉(1956-1960) | |
李範奭(1948-1950) 張勉(1950-1952) 張沢相(1952) 白斗鎮(1953-1954) 卞栄泰(1954) | |
1947年3月3日– 1948年8月15日 | |
金九 | |
1919年4月10日– 1925年3月 | |
1875年3月26日 大朝鮮国、黄海道平山郡馬山面大慶里 (現・黄海南道峰泉郡) | |
1965年7月19日(90歳没) アメリカ合衆国、ハワイ州ホノルル | |
大韓独立促成国民会→自由党 | |
フランチェスカ・ドナー | |
李承晩(1909年撮影) | |
이승만(韓国) 리승만(北朝鮮) | |
李承晩 | |
イ・スンマン(韓国) リ・スンマン(北朝鮮) | |
り・しょうばん | |
Syngman Rhee 別表記としてI Seung-man 等。 |
1941年 -『日本の内幕記』を著す。日本の対米宣戦を予告。
1945年(昭和20年)10月 - 日本の降伏と朝鮮解放に伴い、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁直接統治下の朝鮮半島に帰還。
1946年 2月 - 大韓独立促進国民会を結成。総裁に就任。
1948年(昭和23年)4月3日 - 済州島四・三事件反乱鎮圧。
1948年(昭和23年)8月13日 - 朝鮮半島南部単独で大韓民国建国。初代大統領に就任。
1948年(昭和23年)10月 - 連合国軍占領下の日本を非公式訪問(ダグラス・マッカーサーGHQ司令官などとの会談のため)。
1948年(昭和23年)10月27日 - 麗水・順天事件反乱鎮圧。
1948年(昭和23年)12月1日 - 国家保安法を制定。
1949年(昭和24年)6月5日 - 国民保導連盟を組織させる。
1949年(昭和24年)12月24日 - 聞慶虐殺事件。
1950年(昭和25年)6月25日 - 朝鮮戦争勃発。
1950年(昭和25年)6月 - 国民保導連盟の加盟者や収監中の政治犯など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺(保導連盟事件)。
1951年(昭和26年)1月 - 前線で戦闘中の将兵の物資を転売し着服(国民防衛軍事件)。
1952年(昭和27年)1月18日 - 海洋主権宣言。「平和線」、いわゆる李承晩ラインを設定する。
1952年(昭和27年)5月26日 - 戒厳令を施行し、反対派議員を監禁・憲法改正を強行(釜山政治波動)。
1953年(昭和28年)7月27日 - 朝鮮戦争休戦。
1956年(昭和31年)5月15日 - 大統領に3選。副大統領には野党の張勉が当選。
1958年(昭和33年) - 進歩党党首の奉岩をスパイ容疑で逮捕。1959年7月に処刑。
1959年(昭和34年) - 新潟日赤センター爆破未遂事件。
1960年(昭和35年) - 3月15日 大統領選挙。不正選挙が問題となり野党や国民の批判が公然化。
1960年(昭和35年)4月19日 - 不正選挙を糾弾するデモ隊と警官隊が衝突。死者186人。4月26日に下野を表明し、5月29日にハワイへ亡命(四月革命)。