そもそも、日本軍による占領後に南京の人口が増えたのだから、虐殺なんてあった筈がない。
南京で戦闘が始まった12月12日の夜には南京の人口は20万人で、しかも、ほぼ全市民が安全区に避難していた。
まずは、南京の人口推移から。
●1937年11月~12月の南京の人口推移
1937/11/23日「50万」
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である」
南京市政府書簡(南京事件P220 笠原十九司)
11/27「30~40万」
在留外国人に対して「避難勧告」が出された。
「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」
米大使館報告 (アメリカ資料編P90)
12/6「約20万」
なぜ。金持ちを、約80万という恵まれた市民を逃がしたんだ?
(ラーベの日記P96)
陥落直前の南京の人口に関する資料
―――――――――――――――――――
安全委員会公文書【20万人の市民】
ステール【10万人の市民】
アベンド【10万人以上】
ダーディン【10万を越す非戦闘員たち+民間人は5万以上】
ラーベ【20万人】
リリー・アベック【15万人】
米ライフ紙【15万人の南京市民】
張群思少佐【非戦闘員10万】
劉啓雄少将【20万】
松井大将【12万余】
―――――――――――――――――――
以上の資料を総合してみると、12月13日、南京陥落時点の南京の人口は、【10万人から最高20万人】の間とみて間違いなく、陥落後の生存人口が約25万人(安全委員会公文書)だから人口は増えた。
■日本軍が南京を占領してからは、減るどころか逆に増えている。
そして、南京で戦闘が始まる前に、多くの市民が南京を脱出したが、そのうちの多くは日本軍が開放した上海に行っていた。
もう一度、南京の人口推移を長い期間で見てみる。
●1937年前半(支那事変以前)~1938年9月の南京の人口推移
1937年前半 「100万人」
↓
11月初旬~11月23日 「50万人」(支那軍が南京に来て減少)
↓
11月27日 「30~40万」
↓
12月13日 「20万」
↓
1938年1月14日 「25万人」(日本軍が占領し支那軍が南京を去ったため増加に転じる)
↓
1938年9月23日 「40~50万人」
・1938年9月23日「40~50万人」の資料
『文藝春秋』P193 第十六巻 第十九號 昭和十三年十一月特別號 (1938年)
従軍通信/上海より廬州まで/瀧井孝作
九月二十三日。晴。南京にて。
午前九時、特務機関に行く。大西大佐より南京施政状況の説明あり。人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり。
しばらく南京に戻って来なかった人々のうち、漢口に行っていた25万人は支那の政府関係者が多く、上海に行っていた25万人は一般市民だから、やはり市民は日本軍の居る上海に行っていたのだ。
人気ブログランキング
https://blog.with2.net/in.php?671525
くつろぐブログランキング
http://kutsulog.net/index.php?id=66431
クリック、よろしくお願いします
∧_∧
( ・∀・) よろしく ↑
( ∪ ∪
と__)__)
南京で戦闘が始まった12月12日の夜には南京の人口は20万人で、しかも、ほぼ全市民が安全区に避難していた。
まずは、南京の人口推移から。
●1937年11月~12月の南京の人口推移
1937/11/23日「50万」
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である」
南京市政府書簡(南京事件P220 笠原十九司)
11/27「30~40万」
在留外国人に対して「避難勧告」が出された。
「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」
米大使館報告 (アメリカ資料編P90)
12/6「約20万」
なぜ。金持ちを、約80万という恵まれた市民を逃がしたんだ?
(ラーベの日記P96)
陥落直前の南京の人口に関する資料
―――――――――――――――――――
安全委員会公文書【20万人の市民】
ステール【10万人の市民】
アベンド【10万人以上】
ダーディン【10万を越す非戦闘員たち+民間人は5万以上】
ラーベ【20万人】
リリー・アベック【15万人】
米ライフ紙【15万人の南京市民】
張群思少佐【非戦闘員10万】
劉啓雄少将【20万】
松井大将【12万余】
―――――――――――――――――――
以上の資料を総合してみると、12月13日、南京陥落時点の南京の人口は、【10万人から最高20万人】の間とみて間違いなく、陥落後の生存人口が約25万人(安全委員会公文書)だから人口は増えた。
■日本軍が南京を占領してからは、減るどころか逆に増えている。
そして、南京で戦闘が始まる前に、多くの市民が南京を脱出したが、そのうちの多くは日本軍が開放した上海に行っていた。
もう一度、南京の人口推移を長い期間で見てみる。
●1937年前半(支那事変以前)~1938年9月の南京の人口推移
1937年前半 「100万人」
↓
11月初旬~11月23日 「50万人」(支那軍が南京に来て減少)
↓
11月27日 「30~40万」
↓
12月13日 「20万」
↓
1938年1月14日 「25万人」(日本軍が占領し支那軍が南京を去ったため増加に転じる)
↓
1938年9月23日 「40~50万人」
・1938年9月23日「40~50万人」の資料
『文藝春秋』P193 第十六巻 第十九號 昭和十三年十一月特別號 (1938年)
従軍通信/上海より廬州まで/瀧井孝作
九月二十三日。晴。南京にて。
午前九時、特務機関に行く。大西大佐より南京施政状況の説明あり。人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり。
しばらく南京に戻って来なかった人々のうち、漢口に行っていた25万人は支那の政府関係者が多く、上海に行っていた25万人は一般市民だから、やはり市民は日本軍の居る上海に行っていたのだ。
人気ブログランキング
https://blog.with2.net/in.php?671525
くつろぐブログランキング
http://kutsulog.net/index.php?id=66431
クリック、よろしくお願いします
∧_∧
( ・∀・) よろしく ↑
( ∪ ∪
と__)__)