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1937年12月南京 中国軍による焼き払い …   堅壁清野  中国軍による残虐行為

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堅壁清野

   
堅壁清野(けんぺきせいや)は、焦土作戦の一種。清野作戦ともいう[1]。城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)ことで、進攻してきた敵軍は何も接収できないようにして[2]疲弊させ、持久戦を有利に運ぶ狙いで行われる。


古代[ソースを編集]

中国では古来からの戦法とされ[3]、古くは『後漢紀』巻四にも現れる。また白蓮教の乱の際の勒保龔景瀚ヌルハチを敗走させた袁崇煥などの策がある[4]

中国国民党による作戦

日中戦争支那事変)期に中国国民党軍によって堅壁清野は行われた。国民党軍は日本軍・中国共産党軍の双方に対しこの作戦を取った。焦土化の対象は、軍事施設や食糧倉庫のみならず田畑や民家にまで及び、南京戦の際には、日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物をすべて焼却した[1]。国民党軍により南京城壁の周囲1〜2kmの居住区全域と、南京城から半径16km以内にある道路沿いの村落と民家を焼き払い、焦土化された[1][5]

1937年12月 南京において中国軍は撤退する際に、日本軍に利用されないために多くの建物を焼き払う清野作戦を実施した[6][7]

ニューヨーク・タイムズダーディン記者は「湯山と南京の間、公路沿いにだいたい一マイルおきに堡塁が設けられている。首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。 ある谷では一村が丸々焼けていた。木々や竹林は切り倒され、竹の切り株は日本軍歩兵を妨害するべく鋭い刃物状にされた」と報道した[8]

1937年12月8日 N.Y.Timesダーディン記者は、中山陵園の中国高官邸宅、半径一〇マイル以内の建物や障害物、中山門外・中山陵東南の谷全体、中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村が中国軍によって焼かれたと報じた[9]

1937年12月9日 午後、中国軍は南京市内の銃撃の邪魔になるものや日本軍に役立つ物を取り除くために放火し、北西以外の方角から煙がのぼった(ヴォートリン日記[10]。マクダニエル特派員は中国兵が灯油を家にかけて火をつけている所を目撃した[10]。焼け出された人が城内に避難した[10]ダーディン記者は、中国軍は防衛作業として城内の建物の全面的焼却作戦を開始し、南門近くの住民を安全区に追い立て、地区がまるごと燃やされ、同様に下関駅近くの新村も焼却され、湯山の軍事施設、政府高官の宏壮な邸宅も放火されたと報道した[11]。南京は北部と東部が火に囲まれた[12]

12月12日 中国軍によって、紫金山南京対岸の浦口長江岸全体が放火され、埠頭や倉庫も含め燃え、下関の半分も燃えた[13]。 南京の唐司令官は陣地死守を命じ揚子江の無断渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討ちが始まった[6]。この時点で唐将軍は渡河して逃亡していた。
北部の長江へつながる挹江門には督戦隊が置かれて撤退する中国軍と同士撃ちとなった (挹江門事件)[14]

ミニー・ヴォートリンによれば、中国軍の統制が取れなくなり城内殆どの場所で掠奪が行われており、中国軍が城壁外側のすべての家屋と城内の家屋も焼き払った事は酷い過ちだ。被害者は中国の貧しい人々であり、なぜ南京を破壊せず引渡さなかったのだろうかと日記に綴った[15]

ニューヨーク・タイムズダーディン記者は将軍だけが逃亡し、その他の将兵らが「ねずみとりの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らをとらえて木っ端微塵にするような状況にすすんで置かれることを選んだ」と翌年に報じた[16]

中華民国陸軍軍官学校出身の朝鮮人将校崔徳新は、中国国民党軍を率いて共産ゲリラ討伐戦術で堅壁清野作戦を実施した[17]

韓国軍による作戦

国民党軍将校であった崔徳新は、第二次大戦後帰国し、その後の朝鮮戦争でも韓国陸軍第11師団長として共産主義ゲリラ討伐のために堅壁清野作戦を実施した[17]。堅壁清野作戦は「必ず確保すべき戦略拠点は壁を築くように堅固に確保し、やむを得ず放棄する地域は人員と物資を清掃し、敵が留まることが出来ないよう野原にする」という内容であった[17]
1951年2月7日、第11師団第9連隊第3大隊は山清郡今西地域芳谷里佳峴村に進撃し、家屋を焼き払った。金目の物を集めた後、村の住民123人を渓谷に突き落としたり、四列横隊に並ばせて銃殺[17]、さらに芳谷村民212名、咸陽郡休川地域桐江里村民60名、花渓里、自恵里と咸陽郡柳林の西洲,蓀谷,池谷村の軍警察の家族以外の住民310名を虐殺し、犠牲者は計705名にのぼった(山清・咸陽虐殺事件)[17]。さらに2月9日居昌郡神院で民家78世帯に放火し、住民80名余を殺戮[17]。2月10日、苽亭里、中楡里、大峴里、臥龍里の全民家を焼き払い、疎開させるという理由で住民を連行し、隊列に遅れた老人20名余を射殺し、女子ども100名余を大峴里担凉渓谷で虐殺した[17]。2月11日には、神院初等学校に強制収容した苽亭里,中楡里の全住民と大峴里,臥龍里の住民1000名のうち軍警察、公務員、青年防衛隊の家族をのぞく540名余の住民を珀珊渓谷に集め、機関銃などで射殺し、焼却した[17]。この居昌虐殺事件の犠牲者は719名であった[17]。山清・咸陽と居昌の事件の犠牲者総計は1424名にのぼった。

1937年12月 中国軍による焼き払いの狂宴 … 中国軍による残虐行為

 ニューヨーク・タイムズのダーディン記者は、断末魔の南京とその周辺における“焼き払いの狂宴”を次のようにレポートしている。
 
 「日本軍が句容をこえて(12月7日)、進撃しはじめたことが中国軍による焼き払いの狂宴の合図となったが、これは明らかに城壁周辺で抵抗するために土壇場の準備を行っているものであった。
 中国の「ウエストポイント」である湯山には、砲兵学校と歩兵学校、それに蒋将軍の夏期臨時司令部が置かれているが、そこから南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
 村ぐるみ焼き払われたのである。
 中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられたが、これらの地区はそれ自体小さな市をなしているのである。
 中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。
 これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きいが、おそらく実際の包囲期間中における日本軍の爆撃によって、また占領後の日本軍部隊によって生じた損害に等しいであろう
 中国軍部は、南京市周辺全域の焼き払いを軍事上の必要からだ、といつも説明してきた。
 城壁周辺での決戦で日本軍が利用できそうなあらゆる障害物、あらゆる隠れ家、あらゆる施設を破壊することが必要だというのだ。
 この目的のために、建物ばかりでなく、樹木・竹やぶ・茂みなどもすっかり焼き払われた。
 「中立国の観察者の信じるところでは、この焼き払いもまた、かなりの程度は中国人の“もったいぶったジェスチュア”であって、怒りと欲求不満のはけ口であった。
 それは、中国軍が失えば日本軍が使用するかもしれないものはすべて破壊したいという欲望の表れであり、極端な《焦土化》政策の表れであって、日本軍が占領する中国の各地方を、征服者には何の役に立たない焦土にしておこうというのであった・・・・」(AII287ページ)。
 
 金陵大学のベイツ教授はこう述べている。

 「南京の城壁に直接に接する市街地と南京の東南京郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置としておこなったものである。それが適切であったかなかったかわれわれの決定しうることではない」(AII212ページ)。
 南京陥落を前にして、中国軍が戦術として用いた「空室清野作戦」、すなわち公共建築物や公邸、私邸などの焼き払いの狂宴がいかにものすごいものであったか、この一文でも理解できよう。
 「南京攻略に先だって何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害」よりもさらに甚大な破壊と、放火と掠奪が行われたというのである。しかも、東京裁判ではこれらの焼き払いと掠奪の狂宴は、すべて日本軍の仕業に置き換えられ、《南京における日本軍の暴虐事件》として告発されているのである。


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