暗黒半島・李氏朝鮮①』宮脇淳子 AJER2012.12.20(3)
古代の朝鮮半島
衛氏朝鮮・漢四郡・原三国時代
朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた[17]。戦国時代、燕は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、中国商人の権益を保護していた[18]。秦代は遼東郡の保護下にあった[19]。
秦末漢初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(清川江以南)から撤退させた。紀元前197年、漢朝は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満が清川江を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、衛氏朝鮮が成立した[20]。
- 考古学的に証明できる朝鮮の最初の国家。建国者から名乗って衛満朝鮮とも。中国の燕を出自[21]とする中国人亡命者である衛満が朝鮮半島北部に建国した。衛氏朝鮮は三代衞右渠の時の紀元前108年に漢の武帝に滅ぼされた。その故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島中・西北部を統治した。
- 原三国時代(BC108 - 2世紀中葉)
- 遼東郡東部都尉(平安北道)
- 楽浪郡(平安南道・黄海北道)
- 帯方郡(黄海南道。ただし、京畿道まで含むとする説もある。)
- 北沃沮(咸鏡北道)
- 東沃沮(咸鏡南道)
- 濊(ワイ)(江原道)
- 馬韓(京畿道・忠清北道・忠清南道・全羅北道・全羅南道。ただし、京畿道・忠清北道・忠清南道を含まないとする説もある。)
- 辰韓(慶尚北道・慶尚南道)
三国時代
詳細は「三国時代 (朝鮮半島)」を参照
高句麗・百済・新羅の三国が並立。唐は660年に百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に安東都護府を設置、百済の故地に熊津都督府を設置する。さらに、新羅を鶏林州都督府として半島全域を藩属国から羈縻州としたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から冊封を許された。
- 伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争ったが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収された。伽耶諸国の呼称については、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅あるいは任那と表記されることが多く、広開土王碑文には「任那加羅」という並列表記も見られる。日本の学界ではかつては任那という呼称が支配的であったが、1980年代後半からは「伽耶諸国」と呼ばれることが一般的となっている[24]。
- 伽耶諸国の地域(半島南部)は史書[25]や碑文[26]の記録から日本(ヤマト王権)の強い影響力があったことは有力視されているが、その影響力の範囲を巡って多くの説が存在する。宋書倭国伝では478年、倭王武が宋の順帝に上表文を奏上し「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任命されたと記されており、倭が六国の諸軍事に少なくとも影響力を行使している状況を認めている。詳細は伽耶・任那を参照。[27]
- 于山国は6世紀初めに新羅に服属した。
5世紀後半から6世紀半ばに、日本のものと同じ前方後円墳が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。全羅南道では、日本にしかない原石からつくられた勾玉をつけた装飾品が出土している。また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している[28]。
統一新羅時代、或いは南北国時代
詳細は「南北国時代」を参照
新羅による三国統一後、ほぼ同時期に渤海が旧高句麗の支配地域に建国され、両者は渤海が滅亡するまで並立していた。ただし、渤海を朝鮮の歴史の一部とみなすべきか否かについては賛否両論があり、渤海を朝鮮史の一部とする1975年以降の韓国では統一新羅・渤海並立時代を「南北国時代」と称しているが[29]、渤海を朝鮮史へ組み込むことに否定的な日本・中国などでは「統一新羅時代(中国語版記事)」と称される。
後三国時代
詳細は「後三国時代」を参照
新羅・後高句麗・後百済の三国が並立。最終的に後高句麗を継承した高麗によって統一された(936年)。
中世の朝鮮半島
高麗
詳細は「高麗」を参照
- 918年王建が高麗を建国。
- 933年後唐の冊封を受ける。
- 935年新羅の敬順王、高麗に国を譲渡し、滅亡。
- 936年後百済を滅ぼし朝鮮半島統一。
- 976年田柴科制の創設。
- 1010年契丹の侵入を撃退。
- 1018年契丹の再侵入。姜邯賛の活躍により契丹軍を殲滅(亀州大捷)。
- 1033年千里長城の建設開始。
- 1126年李資謙の乱(ko:이자겸)。金に服属。
- 1135年妙清の乱(ko:묘청)。
- 1170年庚寅の乱。以後武人政権が続く。
- 1196年崔忠献によるクーデター。崔氏政権の始まり。
- 1232年モンゴル帝国の侵略始まる(→モンゴルの高麗侵攻)。
- 1259年高麗の太子(のちの元宗王)がフビライに降り、モンゴル帝国(元)の属国化。
- 1260年忠烈王は、大ハーンに即位したフビライの娘婿となる。これ以来、代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)はモンゴル貴族や時には皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後、高麗王に任命されるのが習慣となる。4代の高麗王は元皇族の娘婿となる。
- 1270年-1273年武人派の軍隊三別抄のモンゴルに対する反乱。日本に対し軍事的援助を要請。
- 1274年・1281年忠烈王の要請に応えた元の協力を得ての2度の日本侵攻(元寇文永の役、弘安の役)への侵略出兵により、逆に甚大な被害を受ける[31][32]。
- 1289年元の征東行省が常設され、元朝の領土化。
- 1350年この頃より倭寇に悩まされるようになる(「前期倭寇」〜15世紀前半)。
- 1351年恭愍王即位(〜1374年)。
- 1354年恭愍王による反元運動が始まる。
- 1356年元軍が高麗から撤退(双城総管府を回復)。
- 1365年辛旽による改革政治(〜71)。
- 1374年恭愍王が暗殺される。禑王が即位(〜88)。
- 1388年親明派の武将李成桂(女真族ともいわれる[13])がクーデターを起こし実権者になる(威化島回軍)。
- 1391年科田法の制定。
- 1392年鄭夢周が暗殺される。
- 征東等処行中書省(征東行省)
- 東寧府
- 双城総管府