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[転載]李氏朝鮮

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李氏朝鮮

   
李氏朝鮮
大朝鮮國
高麗
耽羅
1392年 - 1897年[1]大韓帝国
李氏朝鮮の国旗李氏朝鮮の国章
朝鮮国王旗(朝鮮国王章)
国の標語: 大明天地
国歌: 愛国歌
李氏朝鮮の位置
公用語首都通貨
朝鮮語
漢城府
国王
1393年 - 1398年1863年 - 1897年
李成桂
高宗
人口
1864年(高宗1年)[2]
6,828,520人
変遷
建国大韓帝国に改称韓国併合により消滅
1392年
1897年10月12日
1910年8月29日
  1. ^朝鮮国として。李氏朝鮮は大韓帝国として1910年まで存続。
  2. ^人口
李氏朝鮮/李朝/朝鮮(王朝)朝鮮語表記中国語表記英語表記
ハングル조선(왕조)시대이씨조선리조(봉건)시대
朝鮮の漢字朝鮮(王朝)時代李氏朝鮮李朝(封建)時代
日本語読み:ちょうせん(おうちょう)/
りちょう(ほうけん)じだい
片仮名転写:チョソン(ワンジョ)/
リジョ(ボンゴン)シデ
ラテン文字転写:RR:Joseon wangjo
MR:Chosŏn wangjo
繁体字李氏朝鮮李朝朝鮮王朝
簡体字李氏朝鲜李朝朝鲜王朝
ピンインLǐshì Cháoxiǎn/Lǐcháo/Cháoxiǎn Wángcháo
アルファベットJoseon Dynasty/Joseon/Chosŏn/Choson/Chosun
朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学櫛目文土器時代8000 BC-1500 BC
無文土器時代1500 BC-300 AD
伝説檀君朝鮮
史前箕子朝鮮
辰国衛氏朝鮮
原三国辰韓弁韓漢四郡
馬韓帯方郡楽浪郡

三国伽耶
42-
562
百済
346-660
高句麗
前37-668
新羅
356-
南北国熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東
都護府
668-756
渤海
698
-926
後三国新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗1356-1392
李氏朝鮮1392-1897
大韓帝国1897-1910
近代日本統治1910-1945
現代連合軍軍政期1945-1948
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、韓国語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家朝鮮王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。

1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる[1])が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年中国から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明からに変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。

1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。

大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。

日本への併合と朝鮮王朝の滅亡

一進会によって漢城に建立された日本を奉迎する門(1907年

1904年になると、日露戦争が勃発し、日本が勝利する。1905年には第二次日韓協約が締結された。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。これら一連の主権接収の責任者となったのは伊藤博文であった。一方、高宗も1907年オランダのハーグに密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るが(ハーグ密使事件)、この主張は国際社会に拒絶された。これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及び韓国統監伊藤博文は高宗に譲位するよう迫り、同年退位した。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である純宗が即位した。

1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。日本政府内では併合派と反対派が拮抗しており議論が紛糾していた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は併合派に対して異論を唱え、併合には反対の姿勢をとった。彼が併合に反対する理由として述べたのは、
  1. 現在の保護国化状態でも実質的には併合した場合と同じく朝鮮を支配でき、又韓国進出の口実として用いてきた『韓国の独立富強』という建前を捨てることは却って益なしである。
  2. 加えて財政支出の増大を招くことからも併合は勧められず、今は国内の産業育成に力を注ぐべきである。ということであった。
1909年10月26日に伊藤博文が安重根によって暗殺されると、韓日合邦を要求する声明書が朝鮮人によって出されるなど併合派が優勢となり韓国併合および大韓帝国の滅亡は決定的なものとなった。日本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉を進め、1910年8月22日韓国併合ニ関スル条約が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は完全に消滅した。なお、韓国皇族は日本の皇族に準じる地位(王公族)に封ぜられ、処刑もしくは追放などの厳罰処置は行われなかった。

日本に併合されて(大韓帝国が滅亡して)まもなく、朝鮮人の一部宗教家や学生らによる三・一独立運動又は「三・一鮮人暴動」と呼ばれる反日蜂起が起こったが、朝鮮総督府当局の鎮圧により終息した。

転載元: フクロウとやまんばの眼差し、天網恢恢疎にして漏らさず


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