●朝鮮戦争 辞
出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
戦争:東側陣営と西側陣営の戦争。冷戦における最初の戦争
年月日:1950年6月25日 - 1953年7月27日(休戦日)
年月日:1950年6月25日 - 1953年7月27日(休戦日)
【戦力】
連合国
韓国590,911 アメリカ480,000 イギリス63,000 フランス3,421
カナダ26,791 オランダ 3,972 べルギー900 ルクセンブルグ44
ギリシャ1,263 オーストラリア17,000 ニュージーランド 1,389
トルコ5,455 タイ 1,294 フィリッピン 7,430
コロンビア1,068 エチオピア1,271 南アフリカ 826 日本1200
連合国
韓国590,911 アメリカ480,000 イギリス63,000 フランス3,421
カナダ26,791 オランダ 3,972 べルギー900 ルクセンブルグ44
ギリシャ1,263 オーストラリア17,000 ニュージーランド 1,389
トルコ5,455 タイ 1,294 フィリッピン 7,430
コロンビア1,068 エチオピア1,271 南アフリカ 826 日本1200
北朝鮮260,000 中華人民共和国780,000(諸説有り) ソビエト26,000
【目次】
1 概説
2 背景
2.1 米ソの半島分割占領
2.2 信託統治案
2.3 米ソ対立
2.4 分断の固定化と対立
3 戦争の経過
3.1 南北の軍事バランス
3.2 北朝鮮の奇襲攻撃
3.3 国連の弾劾決議
3.4 韓国軍の敗退
3.5 アメリカ軍の出動
3.6 国連軍の苦戦
3.7 仁川上陸作戦
3.8 38度線越境と中国人民志願軍参戦
3.9 初のジェット機同士の空中戦
3.10 膠着状態に
3.11 マッカーサー解任
3.12 停戦
3.13 犠牲と影響
3.14 韓国軍慰安婦
4 現状
4.1 政治状況
4.2 軍事バランス
5 参戦国一覧
6 日本への影響
6.1 日本特別掃海隊
6.1.1 派遣の経緯
6.1.2 部隊編成
6.1.3 元山掃海作業
6.1.4 元山以外の掃海作業
6.1.5 派遣後
7 朝鮮戦争を題材とした作品
8 注釈
【概説】
北朝鮮の侵略を受けた韓国側にはアメリカ合衆国軍を中心に、イギリスやオーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が、北朝鮮側には中国人民義勇軍(または「志願軍」。実際は中国人民解放軍)が加わり、ソビエト連邦が武器調達や訓練などの形で援助した。
1 概説
2 背景
2.1 米ソの半島分割占領
2.2 信託統治案
2.3 米ソ対立
2.4 分断の固定化と対立
3 戦争の経過
3.1 南北の軍事バランス
3.2 北朝鮮の奇襲攻撃
3.3 国連の弾劾決議
3.4 韓国軍の敗退
3.5 アメリカ軍の出動
3.6 国連軍の苦戦
3.7 仁川上陸作戦
3.8 38度線越境と中国人民志願軍参戦
3.9 初のジェット機同士の空中戦
3.10 膠着状態に
3.11 マッカーサー解任
3.12 停戦
3.13 犠牲と影響
3.14 韓国軍慰安婦
4 現状
4.1 政治状況
4.2 軍事バランス
5 参戦国一覧
6 日本への影響
6.1 日本特別掃海隊
6.1.1 派遣の経緯
6.1.2 部隊編成
6.1.3 元山掃海作業
6.1.4 元山以外の掃海作業
6.1.5 派遣後
7 朝鮮戦争を題材とした作品
8 注釈
北朝鮮の侵略を受けた韓国側にはアメリカ合衆国軍を中心に、イギリスやオーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が、北朝鮮側には中国人民義勇軍(または「志願軍」。実際は中国人民解放軍)が加わり、ソビエト連邦が武器調達や訓練などの形で援助した。
なお、日本では朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)もしくは朝鮮動乱(ちょうせんどうらん)と呼んでいるが、韓国では韓国戦争や韓国動乱あるいは開戦日にちなみ6・25(ユギオ)、北朝鮮では祖国解放戦争、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカやイギリスではKorean War (朝鮮戦争)、北朝鮮を支援した中華人民共和国では抗美援朝戦争(「美」は中国語表記でアメリカの略)と呼ばれている。また、戦況が一進一退を繰り返したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれる。
本稿では、朝鮮半島の南北分断の境界線以南(韓国政府統治区域)を「南半部」、同以北(北朝鮮政府統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府(国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接しあった国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する二つの政権(国家)」の関係にあるためである。
☆ 李承晩(左)
【米ソの半島分割占領】
1945年8月14日に日本がポツダム宣言を受諾、連合国に降伏し第二次世界大戦が終結すると、日本はポツダム宣言に則り植民地下においていた朝鮮半島の統治権を放棄することとなった。朝鮮半島は朝鮮総督府の下、独立準備委員を設立し、朝鮮半島の速やかな独立を計ったが、その後進駐してきたアメリカやソビエト連邦、イギリスを中心とする連合国軍により、その行動はポツダム宣言に違反するとされ、独立準備委員会は解散させられてしまう。
【米ソの半島分割占領】
1945年8月14日に日本がポツダム宣言を受諾、連合国に降伏し第二次世界大戦が終結すると、日本はポツダム宣言に則り植民地下においていた朝鮮半島の統治権を放棄することとなった。朝鮮半島は朝鮮総督府の下、独立準備委員を設立し、朝鮮半島の速やかな独立を計ったが、その後進駐してきたアメリカやソビエト連邦、イギリスを中心とする連合国軍により、その行動はポツダム宣言に違反するとされ、独立準備委員会は解散させられてしまう。
日本の敗戦による「解放」は「与えられた解放」であった[2]。独立を目指す諸潮流のいずれかが主導権を得るということもなく、自らの運動が解放に直結したという実感もなかった[3]。朝鮮人が自ら独立を勝ち取ることができなかったこと、独立運動の諸派が解放後の、それも数年間に激しく対立しつづけたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた[4]。
朝鮮半島内では、独立運動を志向する諸潮流があったものの、それらを統一的に導ける組織は存在していなかった。朝鮮の独立を目指す組織は朝鮮半島内よりもむしろ国外にあり、亡命先での活動が主だった。大きく分けると上海の大韓民国臨時政府、中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、アメリカ国内における活動などが挙げられる。朝鮮国内では1930年代までに多くの民族主義派が支配体制に組み込まれていった。最大の民族資本・湖南財閥は東亜日報紙面を通してしばしば抵抗姿勢を見せつつもしばしば恭順姿勢を見せた。独立派としての立場を鮮明にしつづけたのは共産主義者だったが、徹底して弾圧された。
朝鮮半島内では、独立運動を志向する諸潮流があったものの、それらを統一的に導ける組織は存在していなかった。朝鮮の独立を目指す組織は朝鮮半島内よりもむしろ国外にあり、亡命先での活動が主だった。大きく分けると上海の大韓民国臨時政府、中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、アメリカ国内における活動などが挙げられる。朝鮮国内では1930年代までに多くの民族主義派が支配体制に組み込まれていった。最大の民族資本・湖南財閥は東亜日報紙面を通してしばしば抵抗姿勢を見せつつもしばしば恭順姿勢を見せた。独立派としての立場を鮮明にしつづけたのは共産主義者だったが、徹底して弾圧された。
国内では、呂運亨らによって建国準備委員会が結成され、超党派による建国準備を目指した。これに釈放された政治犯たちが加入した。政治犯の多くは共産主義者であり朝鮮共産党の中核を担うメンバーも含まれていたため、建国準備委員会は左傾化していった。これに対抗する右派のなかでは宋鎮禹が湖南財閥をバックに代表的な存在になった。にもかかわらず、建国準備委員会はこの頃の朝鮮において最も広く組織された団体だった。なお、建国準備委員会が実際に果たした役割については諸説ある。日本が朝鮮統治から撤退した後に行政機構として機能したとする者もいれば、ある日突然当事者とされたことに対応してできた組織であることを強調し実際に朝鮮人民の意思は反映されなかった点を強調する者もいる。どちらにしても、成立期間が短く、また諸外国からは一切承認されていないため、影響力は限定的であった。
☆ 平壌で行われた赤軍歓迎式典で敬礼するソ連軍将校
建国準備委員会は9月6日に朝鮮人民共和国の成立を宣言した。しかし、その後、建国準備委員会内部においても意見と足並みの乱れが目立った。アメリカに亡命していた李承晩が反共姿勢を鮮明にして朝鮮人民共和国主席への就任を拒否し、またアメリカ軍政が人民共和国を承認しない意思を早々に明らかにしたことが決定打となって、人民共和国は空中分解し解消された。
一方、北緯38度線以北では関東軍の壊走によってソ連の進駐が予定よりも早く進み、「各地で自発的に生まれた」と言われている人民委員会は10月にはソ連軍によって接収された。ソ連の進駐が速過ぎたせいで、38度線は降伏受諾線ではなく分割占領線となった。北部でも、朝鮮人による独立運動には様々な潮流があったと言われているが詳しいことは分っていない。
このようにして朝鮮国内の足並みが揃いきっていない中に李承晩や、ソ連の支援を受けて重慶に亡命していた金日成をはじめとする満州抗日パルチザン出身の者たちなど、様々な亡命者が帰国してきた。これが決め手となって占領軍政下・南北朝鮮の政治情勢は大混乱に陥った。左右対立の激化は南北の分断の一因にもなり、特にソウルで朝鮮人の意思を糾合することをますます難しくした。
その後、信託統治案を巡る左右対立に、そのイデオロギーの違いから敵対し始めていた米ソの対立も反映され、結果的には、アメリカ軍占領地域ではアメリカが推す李承晩を中心とした政権と李承晩の権力基盤が作られ、その他の潮流は排除された。ソ連軍政下でもソ連が推す金日成がトップにすえられ、多数を占める国内にいた共産主義者たちは時間をかけて排除されていった。このようにして、両大国の占領軍によって「建国」は主導されていった。
戦時中の1943年に行われたテヘラン会談では、イギリスのウィンストン・チャーチルとソ連のヨシフ・スターリン、アメリカのルーズベルトの3者会談でルーズベルト大統領が「半島全域を40年は、新設する国際連合による信託統治するべきだ」と提案し、ヤルタ会談でも「20年から30年は信託統治するべき」と主張していた。
ルーズベルトは第二次世界大戦の終戦前に死去し、後継のトルーマンはモスクワ会談において、米英ソと中華民国による5年間の信託統治を提案して決定された(モスクワ協定)。独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会を設置したが、具体案において米ソの意見が激しく対立したため、やがて信託統治案は座礁した。
【米ソ対立】
米ソのイデオロギー対立は東西冷戦として、まずドイツのベルリンで対決色を強めたが、地球の反対側ではフランス領インドシナのベトナムがホー・チ・ミンらに率いられて独立運動を繰り広げ、中国大陸も国共内戦が繰り広げられたが、蒋介石率いる中国国民党の中華民国に対するアメリカからの援助が先細りになったことから、赤化が目前であった。これらの冷戦の激化は朝鮮半島にも暗い影を落とした。
米ソのイデオロギー対立は東西冷戦として、まずドイツのベルリンで対決色を強めたが、地球の反対側ではフランス領インドシナのベトナムがホー・チ・ミンらに率いられて独立運動を繰り広げ、中国大陸も国共内戦が繰り広げられたが、蒋介石率いる中国国民党の中華民国に対するアメリカからの援助が先細りになったことから、赤化が目前であった。これらの冷戦の激化は朝鮮半島にも暗い影を落とした。
☆ 金日成(右)
北半部では1946年2月8日に、金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた朝鮮臨時人民委員会を設立(翌年2月21日に朝鮮人民委員会となる)、8月には重要産業国有法を施行し、共産主義国家設立への道を歩みだした。このような北半部での共産国家設立の動きに対して、日本統治時代にアメリカに亡命し独立運動を繰り広げてきた李承晩は、南半部での早期の国家設立をアメリカに迫った。その結果1947年6月には李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立され、北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。
北半部では1946年2月8日に、金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた朝鮮臨時人民委員会を設立(翌年2月21日に朝鮮人民委員会となる)、8月には重要産業国有法を施行し、共産主義国家設立への道を歩みだした。このような北半部での共産国家設立の動きに対して、日本統治時代にアメリカに亡命し独立運動を繰り広げてきた李承晩は、南半部での早期の国家設立をアメリカに迫った。その結果1947年6月には李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立され、北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。
同年11月に、アメリカは朝鮮半島問題を国際社会に問うため、設立されたばかりの国際連合に提訴したものの、北半部は翌1948年2月8日に朝鮮人民軍を創設し、2月26日には北緯38度線以北に金日成を主席とする朝鮮民主人民共和国の成立を一方的に宣言、アメリカはこれを激しく非難した。
金日成は、3月には南半部への送電を停止(当時、南半部は電力を日本統治時代に日本によって山の多い北半部に建設された水豊ダムなどの発電所に頼りきっていた)して、南北の対立は決定的となった。李承晩は対抗し、朝鮮労働党を参加させない選挙を実施して、正式国家を成立させることを決断したが、済州島では南朝鮮労働党のゲリラが武装蜂起し、その鎮圧の過程で軍部隊の叛乱や島民の虐殺が発生した(済州島四・三事件、麗水・順天事件)。