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[転載]新居浜の土壌汚染を考える

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新居浜の土壌汚染を考える
  1. mako671178 ‏@mako67117812月20日

  2. 【再掲】【住友金属鉱山とは】資料3 『四阪島煙害問題の記録』




    1.               

    【再掲】【住友金属鉱山とは】資料2 『煙害克服(?)への挑戦』… …








      




    1. 河野俊嗣宮崎県知事



    別子銅山   




    戦前の別子銅山


    別子銅山の銅で献納された皇居前広場楠木正成銅像


    楠木正成銅像背面「別子銅山」記


     別子銅山(べっしどうざん)は、愛媛県新居浜の山麓部にあった銅山1690年元禄3年)に発見され、翌年から1973年昭和48年)までに約280年間に70万トンを産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。


    概要


      最初の採鉱は海抜1,000メートル以上の険しい山中(旧別子山村)であったが、時代と共にその中心は新居浜市側へ移り、それにつれて山の様相も変化していった。坑道は全長700メートル、また最深部は海抜マイナス1,000メートルにもおよび、日本で人間が到達した最深部である。
     皇居前広場の公園内に現存する楠木正成像は、1900年明治33年)に別子銅山ので献納された。 また、1900年の銅山川鉱毒事件など、鉱毒事件が数回発生した。
     閉山後の今は植林事業の成果もあり緑深い自然の山へと戻って、夢の跡のような産業遺跡がひっそりと佇んでいる状態であるが、近年はそれらの歴史的意義を風化させないことを目的として活用したマイントピア別子など観光開発が進み、新居浜市の新たな資源として甦りつつある。また、別子山村の合併により一体的な観光開発にも弾みがついている。

    世界遺産登録への動き


     近代産業遺産の宝庫として文化財関係者等からは注目されていたが、そのほとんどが住友グループに属することもあって、活用が進んでいなかった。こうした近代日本を切り開く礎となった産業開発の歴史さらにはその後の環境の復元という人の営みに着目し、また石見銀山2007年平成19年)6月28日ユネスコ世界遺産文化遺産)へ登録が決定されたこともあって、別子銅山も世界遺産登録を目指す動きがある。日本を代表する金銀銅の産地である、新潟県佐渡市(金山)、島根県大田市(銀山)、愛媛県新居浜市(銅山)の3市長が集まって「金銀銅サミット」が2006年5月開催された。

    沿革


    鉱山の発見
    大坂屋久左衛門経営の伊予国立川銅山で働いていた切場長兵衛は立川銅山に隣接する足谷山(別子)に銅鉱が連鎖しているのを覚り、備中吉岡鉱山に住友の田向重右衛門を訪ね、見込みを告知した。田向は部下とともに長兵衛を案内人に、大坂屋に気づかれないように天満村から険しい山中を踏み越えて足谷山に入り、大鉱脈が横たわることを確認した。
    • 1690年元禄3年)秋 - 田向重右衛門一行が別子銅山を検分。

    開坑の計画
    • 1691年(元禄4年)4月、住友家は開坑を願い出たが、その条件は下記のとおり。

    1. 元禄4年6月から9年5月まで満5箇年請負

    2. 運上は銅1000貫につき130貫、代金は銅100貫目につき銀500目

    3. 炭窯運上は10口につき1箇年銀30枚、ただし毎月上納、

    4. 銅山付近の材木は残らず銅山付、

    5. 奥山大難所の林木で年々枯れ捨てる分は銅山用材として下付 など

    であった。「1」は成績が不良であった場合は請負を辞退することを保留したもので、永代請負となったのは1702年(元禄15年)3月である。これよりさき元禄15年1月、住友友芳勘定奉行荻原重秀に呼び出され、成績不良で1698年(元禄11年)に請負を辞退した吉岡鉱山の経営を高圧的に命じられたが、これは江戸幕府の貨幣政策で丁銅不足に悩んでいたためであるが、友芳はその交換条件を提出したが、それは下記のとおり。
    1. 別子銅山と吉岡銅山に対して鉱業助成金10000両を貸し下げ

    2. 西国筋天領のうちから吉岡別子両従業員食糧用に米6000石払い下げ、ただし10ヶ月延買

    3. 別子銅山永代請負   など



    第一通洞南口 新居浜市旧別子山村
    住友による開坑
    • 1691年5月 - 別子銅山請負稼行認可。


    鉱山鉄道




    鉱山鉄道の廃線跡予讃線新居浜〜中萩から

      住友別子鉱山鉄道が、石ヶ山丈〜角石原、惣開〜端出場に走っていた。1893年開業、1952年に旅客営業廃止、1977年鉱山鉄道としても廃止となった。

    筏津


      筏津坑は赤石山系の南斜面に位置し、1878年(明治11年)開坑され、最初は弟地坑(おとじこう)と呼ばれていた(弟地は付近の地名)。一時休止された時期もあったが、別子銅山の一支山として機能を果たしてきた。最初の坑口とは銅山川をはさんだ対岸に1940年(昭和15年)に筏津新坑口として開坑された坑口は1973年の別子銅山閉山まで使われた。
     新坑口の近辺には、当時、社宅、クラブ、娯楽場、診療所、小売商店などが軒を連ね殷賑を極めていたが、閉山とともに人は去り、静かな山に戻った。旧:宇摩郡別子山村(合併により現在は新居浜市)では、この筏津を観光間拠点の一つとして位置づけ、観光開発を進め、坑口跡近くに、筏津山荘、キャビン、遊歩道などがある。なお、坑口内は立ち入り禁止となっている。

    東平地区




    東平選鉱場跡


    東平索道基地跡


    旧東平第三変電所


     東平(とうなる)地区は、1916年(大正5年)から1930年(昭和5年)まで別子銅山採鉱本部が置かれていた。このような山中に、かつて多くの人が鉱業に従事し、その家族共々生活し、小中学校まであった「街」があったのかと信じられないように現在は山中に静まり返っているが、閉鎖された坑道や鉱物輸送用の鉄道跡などが残っている。
     付近は再整備され、歴史資科館や、保安本部跡を利用したマイン工房、花木園、高山植物園、子供広場などがある。また東平小学校、中学校の跡地には銅山の里自然の家がある。

     『東洋のマチュピチュ』と新聞に取り上げられ、観光会社がツアーを企画するなど人気を集めつつある。

    端出場地区


     端出場(はでば)地区は、採鉱本部が1930年(昭和5年)に東平地区から移転され、1973年(昭和48年)の閉坑まで使用された地区である。現在、ここにはマイントピア別子が整備されている。 マイントピア別子では、鉱山鉄道敷跡を活かした観光用鉱山鉄道、火薬庫跡を活かした観光坑道などの地中展示施設のほか、砂金採り体験パーク、温泉保養センター、売店・レストランなどを備えている。道の駅に指定されている。

     地区に南には1915年(大正4年)に開通した端出場坑口と大立坑を結ぶ第四通洞や1912年(明治45年)に完成した端出場水力発電所(登録有形文化財)が現存している。内部には電気機械が残っているが、一般の人は立ち入り禁止となっている。

    四阪島


     四阪島にも多数の産業遺産・遺構が存在するが、住友金属鉱山の私有地であり一般の人は許可なく立ち入ることはできない。詳細は四阪島の記事を参照のこと。

    住友別子鉱山鉄道


       


    下部鉄道の廃線跡
    予讃線新居浜 - 中萩から


     住友別子鉱山鉄道(すみともべっしこうざんてつどう)は、かつて1977年(昭和52年)まで愛媛県新居浜において鉱石輸送や旅客輸送を行っていた住友金属鉱山運営の鉱山鉄道(一時期地方鉄道)の通称である。「別子鉱山鉄道」や「別子鉄道」とも呼ばれた。

     伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道(山岳鉱山鉄道としては日本初)として1893年(明治26年)に開業した。主に別子銅山から採掘された銅鉱石を製錬所港湾へと輸送する役割を担ったが、1973年(昭和48年)の別子銅山閉山を見届けた後、1977年(昭和52年)1月31日限りで廃止された。


    駅一覧


    端出場本線新居浜港駅 - 昭和橋駅 - 星越駅 - 多喜ノ宮信号所 - 多喜ノ宮駅 - 土橋駅 - 山根駅 - 板ノ元駅 - 黒石駅 - 端出場駅専用鉄道区間端出場駅 - 打除駅惣開支線星越駅 - 原地臨時駅 - 原地駅 - 惣開駅国鉄連絡線星越駅 - 多喜ノ宮信号所 - 新居浜





    マイントピア別子


       
    マイントピア別子 施設情報 前身 テーマ キャッチコピー 面積 来園者数 開園 所在地 位置 公式サイト別子銅山別子銅山世界的産業遺産の里約6万m2約32万人(2003年度)1991年6月5日792-0846
    愛媛県新居浜市立川町707-3
    http://www.besshi.com/
    マイントピア別子(マイントピアべっし)は、愛媛県新居浜の産業基盤の礎となった別子銅山の施設跡などを利用したテーマパーク道の駅マイントピア別子を併設する。
    最後の採鉱本部が置かれていた端出場(はでば)地区を開発した端出場ゾーンと、最盛期の拠点であった東平(とうなる)地区を開発した東平ゾーンがある。


    大阪のOAPの三菱マテリアルの汚染土壌が、愛媛県新居浜辺りで埋立に使われたそうですが、詳しい情報を募集します。







      地盤環境は、地盤の持つ多面的機能を環境的側面から捉えるものである。人間活動の広がりとともに、地盤の利用範囲は面的にも深度的にも拡大しつつあり、地盤環境も著しく多様化している。
     地盤は自然地盤としての岩石地盤(岩盤)、土砂地盤、軟弱地盤などに分類され、盛土や埋立地は人工地盤とよばれる。自然生成物、人工生成物を問わず、地表および地下に存在する建造物・生物等、全ての荷重を支える能力を有しており、建設資材としての機能と相まって生活基盤、生産基盤となる諸施設を整備する場として利用されている。

      一方、地盤は様々な大きさの土粒子とその間隙から成り立ち、間隙には水と空気が存在していて、大気・水・多様な生物と連携しており、極めて多面的な機能をもって自然環境そして生活環境に重要な役割を果たしている。すなわち、水循環系における地下水の涵養・流動・貯留の場であるとともに、本来、環境の変化によく順応していく力を備えている。したがって、地盤環境における環境影響評価の視点は、地域の「地形・地質」、「地下水」とともに広く「流域特性」も視野にいれて、他の環境要素との関連性にも配慮することが重要である。

     環境影響評価の対象となる開発事業においては、切土、盛土、埋立等による土地の改変行為や地下水環境の変化などにより、地盤の持つ機能が変化する。また同時にこれに関連する環境要素にも影響を与えることとなる。したがって、地盤に係る環境影響評価項目は、従来から行われてきた地盤沈下のほか、地すべり・斜面崩壊・液状化・地盤陥没といった開発行為による土地の安定性の変化、あるいは地下構造物による地盤の熱環境の変化、有害ガスの発生等物理化学的変化についても、広く考慮する必要がある。




    文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)
    住友家初代・住友政友(涅槃宗に帰依し文殊院の称号を得た・1585〜1652)が晩年に家人の勘十郎に宛てた書状
    商人の心得を簡潔に説いたもので、仏教の教えを基に、政友の処世観が表れている。住友精神の原点。 前文に「商事は不及言候へ共万事情に可被入候」とあり、何事も粗略にせず、心をこめて丁寧慎重に取り扱うよう説いています。



    文殊院旨意書文殊院旨意書



     住友の源流は16世紀に遡ります。出版業や薬店などを営んだ家祖・住友政
    友(1585〜1652)は、仏教の信仰に篤く、宗教家(称号・文殊院)としても多く
    の教えを遺しました。なかでも家人に商売の心得を説いた「文殊院旨意書」
    は、代々その精神が受け継がれ、1882(明治15)年にまとめられた「住友家法」
    の基盤となっています。政友の教えが星霜に紛れることなく人々の心に深く
    刻み込まれてきたのは、そこに時代環境の変化にも耐えうる普遍的な価値が
    あったからにほかなりません。

     「文殊院旨意書」は5カ条からなりますが、そのうちの4カ条は当時、政友
    が暮らしていた京都の奉行所の御触書と共通しています。現代風に言えば、
    コンプライアンス(法令遵守)の重要性を説いたわけです。残りの1カ条には
    短気を戒め、「誰に対しても、重ねてつぶさに話をするように」としています。
    これは経営の説明責任を果たすように求めたものといえるでしょう。ビジネ
    スの根幹を支えるこれらの金言は、後に「信用を重んじ、確実を旨とし」とす
    る「住友の事業精神」へと結実しました。

     また、住友グループ中興の祖とされる広瀬宰平(1828〜1914)は、「100年
    の徳は木を植うることにあり」と述べ、その後を引き継いだ第2代総理事伊
    庭貞剛は、銅製錬で疲弊した山に大規模な植林を展開しました。広瀬は「自
    分たちは種を蒔く世代であり、実を得るのは次の世代である」との言葉を遺
    しています。

     人間個体でいえば遺伝子に相当するものが、組織体では理念にあたります。
    当社が400年にのぼる歴史を紡ぎ、世界に類例を見ない伝統を築いてきたの
    も、しっかりとした企業理念を継承してきたからにほかなりません。近年注目
    されているサスティナビリティ(持続可能性)の概念も、企業理念の継承を通
    して、すでに私たちの事業活動に実践されているのです。当社は連綿と受け
    継がれてきた事業精神の重みを尊重し、その叡知をSMMグループ経営理念、
    SMM環境理念としてまとめ、現代の事業の中に生かしています。

    住友「歴史探訪」
    第1回 京都編 その1  住友の事業精神の源「文殊院旨意書」
    住友家初代政友が晩年、商人の心得を説いた文殊院旨意書は、冒頭文のほか五ヶ条にわたって家業の永続や発展のほか、人間の努力や誠実さを求める内容にもなっている。以下は旨意書の文言です。
    商事は不及言候へ共万事情ニ可被入候
    一、何ニ而もつねのそうばよりやすき物 持来候共根本をしらぬものニ候ハゝ少もかい申間敷候左様之物ハ盗物と可心得候
    一、何たるものにも一やのやともかし申まし又あミかさにてもあつかましく候
    一、人のくちあいせらるましく候
    一、かけあきないせらるましく候
    一、人何やうの事申候共気ミしかくことはあらく申ましく候何様重而具ニ可申候巳上
    冒頭文の「商事は不及言候へ共万事情ニ可被入候」は、「何事も粗略にせず、すべてのことについて心を込めて丁寧慎重に励むように」ということである。この言葉は、現在でも住友の事業精神として受け継がれている。
    五ヶ条では、普段の相場より安いものが持ち込まれても、出所がわからないものは盗品と心得よ。誰であろうと宿を貸したり物を預かったりするな、などの禁止条項が並ぶ。そして最後の項で、他人がどのような(ひどい)こと言っても短気になって言い争うようなことはせずに、繰り返し詳しく説明するように、と人と接する場合の心がけも記されている。
    住友史料館副館長の末岡照啓氏は、旨意書についてこう語った。
    「政友は当時の不穏な社会情勢を的確に把握したうえで、堅実な商売と法令の遵守ということを諭しています。さすが住友初代の事業精神には説得力があります。現代にも十分通じるのではないでしょうか。」

    転載元: 学問の自由のブログ


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