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[転載]ヤルタ米ソ密約、対日参戦

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独に流れた…ソ連対日参戦のヤルタ密約情報 「小野寺電」に有力証拠
 
Sankei2012.5.11 07:30
 
 第二次大戦末期のヤルタ会談直後、ソ連が対日参戦する密約を結んだとの情報を、スウェーデンの首都ストックホルムにあるドイツ公使館が把握、打電していたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で明らかになった。
 
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ストックホルムでは、陸軍の小野寺信駐在武官がドイツの情報士官と緊密に情報交換しており、武官が得た「ヤルタ密約」情報が士官を通じ、ドイツ側に流れていた可能性が出てきた
 
新たな情報経路の判明はソ連参戦の半年前、大本営に同じ情報を送ったとする小野寺武官の主張を支える有力な根拠になりそうだ。(岡部伸)
 
 
 
1945年1月30日、ストックホルムの日本公使公邸でドイツのフォン・ウッタマン武官(左)、神田襄太郎参事官(右)と談笑する小野寺信陸軍武官(小野寺家提供)
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 中立条約が存在していたソ連に、英米との和平仲介を依頼すべきだと考えた一部政治家や陸軍にとって、ソ連の対日参戦情報は不都合なものだった。
 
小野寺武官が送ったとするソ連参戦情報が軍上層部に届いた形跡がなく、情報が握りつぶされたとすれば、
 
結果として終戦が遅れ、米国の原爆投下やソ連による北方四島の不法占拠などを招いた点で責任はきわめて大きい
 
 秘密文書については、産経新聞がロンドンの公文書館で存在を確認した。
 
ドイツの在ストックホルム公使館がヤルタ会談直後の1945年2月14日に入手した情報として、独外務省が全ての在外公館宛てに発信した電報を英国のブレッチリー・パーク(政府暗号学校)が傍受、解読したものだ。
 
 内容は
 
「英国からの情報で、ソ連は三巨頭会談において対日政策を変更し、参戦を決めた」
 
との趣旨だが、参戦時期は明示されていない。
 
 小野寺武官とストックホルムで連携していたのは、ドイツ軍のカール・ハインツ・クレーマー情報士官だった。
 
 英国立公文書館の所蔵資料によると、英情報局秘密情報部(SIS)は44年12月9日付で、「小野寺とクレーマーは同じ情報を共有して、それぞれ本国に打電している」と分析。
 
 また、産経新聞が一橋大学の加藤哲郎名誉教授から提供を受けた、米国立公文書館所蔵の米中央情報局(CIA)のファイルにも、「小野寺武官がポーランド情報でドイツ諜報部門の事務所を頻繁に訪れている」=CIAの前身である戦略情報局(OSS)の45年2月15日付行動監視メモ=との記録が残っていた。
 
 さらに、CIAファイルには、クレーマー士官が戦後の米側の尋問で、「小野寺から44年秋ごろと45年2、3月ごろの2回、欧州で連合国の有力情報をもらった」と証言していることも分かった(46年3月19日付調書)。
 
 これらの文書は、小野寺武官が入手したと主張する「ヤルタ密約」の情報が、クレーマー士官を経由してドイツ側に流れていた可能性を強くうかがわせる。
 
 一方、大島浩駐独大使は昭和34(1959)年、防衛庁(当時)の聴取に「昭和20年3月ごろか、『ヤルタ会談の結果、ロシアが適当な時期に参戦する』ことを(ドイツの)リッベントロップ外相から聞いた」(防諜ニ関スル回想聴取録)と語っていた。
 
 クレーマー士官はSISの尋問(1945年7月23日)に対し、上司だったドイツ親衛隊情報部のシェレンベルク国外諜報局長に「小野寺情報を報告していた」と答えており、小野寺武官が獲得した「ヤルタ密約」の情報はドイツ政府中枢で検討された末、大島大使に伝わった可能性も見え隠れする。(肩書はいずれも当時)


 □ 大本営 握り潰す?

元ソ連課長「入手」と記述

 米英ソ三国首脳が昭和20(1945)年2月4~11日、クリミア半島のヤルタに集い、南樺太返還、千島列島引き渡しなどを条件にソ連がドイツ降伏3カ月後に対日参戦することを約束した「ヤルタ密約」。
 
ストックホルム駐在武官だった小野寺信氏が会談直後にキャッチし、発信したとされるソ連参戦情報は大本営や政府上層部に届いた形跡がなく、終戦に向けた当時の日本の動きをめぐる大きな謎として残されてきた。
 
 小野寺氏は、終戦時のソ連大使だった佐藤尚武氏が昭和58(1983)年に発表した「回顧八十年」で、本国に打電した情報が上層部に伝達されていなかったことを知った。
 
そして3年後に母校・仙台幼年学校の会報「山紫に水清き」に、
 
「ストックホルム陸軍武官として、特別にロンドンを経た情報網によって、このヤルタ会談の中の米ソ密約の情報を獲得し、即刻東京へ報告した」
 
と書いた。
 
 小野寺氏の妻、百合子さんもその後、産経新聞の取材や自著を通じて、「ヤルタ密約」の情報はヤルタ会談終了直後の45年2月半ば、夫の武官仲間だったポーランド人、ブルジェスクウィンスキー氏から「英国のポーランド亡命政府から入った情報」としてもたらされ、夫の依頼で特別暗号を組んで参謀本部次長(秦彦三郎中将)宛てに打電したと証言し、「機密電の行方」を追い続けた。
 
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 しかし、この機密電を見たり、接したりしたという軍の元高官は現れなかった。
 
 平成元(1989)年になって、参謀本部情報部の情報将校だった堀栄三氏が「大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇」を著し、「ヤルタ会談で、スターリンは『ドイツ降伏後三カ月で対日攻勢に出る』と明言したことは、スウェーデン駐在の小野寺武官の『ブ情報』の電報にもあったが、実際にはこの電報は、どうも大本営作戦課で握り潰されていたようだ」と明らかにした。
 
堀氏がいう「ブ情報」の「ブ」は、百合子さんが指摘したブルジェスクウィンスキー氏を指すとみられる。
 
 一方、小野寺氏が佐藤元ソ連大使の回顧録により「機密電の行方不明」に気づく9年前の昭和49(1974)年、大本営参謀本部ソ連課長を務めた林三郎氏が回想録「関東軍と極東ソ連軍」の中で、
 
「彼(スターリン)は同会談(ヤルタ会談)において、ドイツ降伏3ヶ月後に対日参戦する旨を約束したとの情報を、わが参謀本部は本会談の直後ごろに入手した
 
と記していた。
 
この記述は最近まで関係者の間でほとんど知られず、改めて「小野寺氏の機密電」との関係で注目されている。
 
(岡部伸)
 
抹殺された不都合な真実

 ≪ゾルゲ事件などの国際情報戦を研究する加藤哲郎一橋大名誉教授の話≫
 
 「英米のアーカイブ資料の信頼性は高く、ヤルタ密約情報が小野寺からクレーマーに渡っていたことがうかがえる。実際の電報は見つかっていないものの、これで(ヤルタ密約の内容を入手して打電したという)小野寺証言の信憑性はきわめて高くなった。
 
小野寺電が届いていたとなると、受け取った参謀本部、とりわけソ連情報分析を行っていた関係者がどう対応したかが問題となる。
 
ヤルタ会談が行われたころから政府、軍部をあげて密かに始まったソ連を仲介とする和平工作の大きな動きのなかで、不都合な真実だった小野寺のスクープ電報が抹殺され、握りつぶされたと考えられる」

 
終戦の遅れ 統帥部に責任

 ≪インテリジェンス分野に詳しい手嶋龍一慶応大学大学院教授の話≫
 
 「ヤルタ密約を亡命ポーランド政府から極秘に入手し、大本営に打電したとされる小野寺信駐在武官の証言が裏付けられることになった。大本営が小野寺電を受け取った記録が見当たらず、関係者の間で大きな謎とされてきたが、現代史の空白がまたひとつ埋められることになった。
 
ソ連を仲介者に終戦工作を進めていた陸軍が意図的に小野寺電を握りつぶした可能性が高くなった。
 
もし1945年2月半ばにソ連の対日参戦の密約が明らかになっていれば、英米直接和平派の発言力が増し、終戦が早まったかもしれない。
 
終戦が遅れ、原爆投下、ソ連参戦と北方領土占拠を招いてしまった統帥部の責任が改めて問われることになろう」
 

転載元: 時の旅人Yoshipyuta


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