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[転載]1452年:ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化した。



●1452年:ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化した。
1637年11月14日にキリスタンにそそのかされた一揆軍は天草苓北町の本渡の戦いで富岡城代の三宅重利を討ち取った。
勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、落城寸前まで追い詰めた。
一揆軍はこれを機に日本国内のキリシタン(16世紀末の最盛期には日本の人口の10%を占めていた)を蜂起させて内乱状態とし、さらにはポルトガルの援軍を期待した。実際、一揆側は日本各地に使者を派遣していた。


ニコラウス5世 (ローマ教皇)   

ニコラウス5世教皇就任 教皇離任 先代 次代 個人情報 本名 出生 死去
第208代 ローマ教皇
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Nicholas V.jpg
1447年3月6日
1455年3月24日
エウゲニウス4世
カリストゥス3世
Tomaso Parentucelli
1397年11月15日
ジェノヴァ共和国サルザーナ
1455年3月24日
教皇領ローマ
その他のニコラウス
ニコラウス5世(Nicholaus V、1397年11月15日 - 1455年3月24日、在位:1447年 - 1455年)は15世紀中期のローマ教皇である。イタリアサルザーナ出身、本名はトマソ・パレントゥチェリ(Tomaso Parentucelli)。最初のルネサンス教皇ともされる。

生涯・業績

ボローニャで学び、フィレンツェで家庭教師をする。人文主義者と交友を深め、その中にはアエネアス・シルウィウス・ピッコローミニ(後の教皇ピウス2世)もいた。

教皇になるとローマの復興に努める。サン・ピエトロ大聖堂に倒壊の危険があったため、人文主義者アルベルティの助言により修復を行った。芸術面ではフラ・アンジェリコをフィレンツェから招き、バチカン宮殿内を装飾させた。また、バチカン図書館を創立している。

1449年バーゼルに残留する公会議主義者らを解散させ、対立教皇フェリクス5世を廃位させた。1450年聖年には余りに多くの巡礼者が押し寄せたため、宿に泊まれず凍死するものや、疫病の蔓延、サンタンジェロ橋で多数の圧死者が出るなど悲惨な光景もみられた。今後の事故を防止するため、橋周辺の密集した家屋は撤去され、サンタンジェロ広場が造られた。在位中の1453年オスマン帝国の攻撃によりコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。

1452年、ポルトガル王アフォンソ5世に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えている。さらに1455年には教皇教書「ロマーヌス・ポンティフェックス英語版」を出し、異教徒の土地と物品を所有する権利をポルトガル王に独占的に認めた。

アフォンソ5世 (ポルトガル王)

   
アフォンソ5世
Afonso V在位 別号 出生 死去 埋葬 配偶者   子女 王家 王朝 父親 母親
ポルトガル王
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AfonsoV-P.jpg
1438年9月13日 - 1481年8月28日
ポルトガル・アルガルヴェ、アフリカ海内海外王
1432年1月15日
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PortugueseFlag1385.svg
ポルトガル王国シントラ宮殿
1481年8月28日
リスボン
 
バターリャ修道院
イザベル・デ・コインブラ
フアナ・ラ・ベルトラネーハ
ジョアン
ジョアナ
ジョアン2世
アヴィス家
アヴィス朝
ドゥアルテ1世
レオノール・デ・アラゴン
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アフォンソ5世ポルトガル語: Afonso V1432年1月15日 - 1481年8月28日)は、ポルトガル(在位:1438年 - 1481年)。ドゥアルテ1世アラゴンフェルナンド1世の娘レオノールの子。アフリカ王: Africano)と呼ばれる。

生涯

父王の急逝により、わずか6歳で即位した。王の遺言によりアフォンソの母后レオノールが摂政となったが、外国人ということで国民に支持されず、コルテス(議会)はドゥアルテ王の弟コインブラ公ペドロ王子を摂政に選んだ。
ペドロ王子は善政を行い、庶出の異母兄バルセロス伯アフォンソを初代ブラガンサ公にした(アフォンソはブラガンサ家の祖となった)。が、コインブラ公に代わり実権の掌握を狙うブラガンサ公は、幼いアフォンソ王に「摂政は王位を狙っている」と吹き込み、王はコインブラ公を敵視するようになった。

1443年、ドゥアルテ1世の弟フェルナンドフェズで獄死した。遺骸は城壁から逆さに吊り下げられた。従者たちは遺骸をもらい受けると、遺骨に塩をふりかけ、壷に入れて埋葬した。アフォンソ5世は捕虜にしたモロッコの貴族たちと交換に、叔父フェルナンド王子の遺骸を取り戻し、1452年バターリャ修道院に埋葬した。

1446年、アフォンソ5世は14歳で親政を始めた。もう一人の叔父エンリケ航海王子の斡旋により、コインブラ公は政治顧問に退き、国政の実権はブラガンサ公とその息子オウレン伯アフォンソへ移った。1448年、コインブラ公の娘で従妹であるイザベルと結婚する。2人の間には夭逝した王子ジョアン(1451年)、列聖された王女ジョアナ(1452年 - 1490年)、王位を継承したジョアン2世の3子が生まれた。

1449年、領地のコインブラの通過をブラガンサ公に認めなかったコインブラ公の措置にアフォンソ5世は怒り、国軍を派遣してコインブラ公を戦死に追い込んだ。

1458年、アフォンソ5世はアルカセル・セゲールを征服した。1474年にはアルジラタンジェを征服した。これにより、モロッコでセウタ他4都市を掌握するアフリカ・ポルトガル帝国を形成、ポルトガル・アルガルヴェ、アフリカ海内海外王を名乗った。
同年、カスティーリャエンリケ4世の死去により、エンリケの異母妹イサベル(後のイサベル1世)とエンリケの長女フアナ・ラ・ベルトラネーハ王女との間に、王位を巡って抗争が起こった。フアナは、妃に先立たれて独身だったアフォンソ5世と婚約し、その救援を求めた。43歳の叔父と14歳の姪との結婚でも、教皇の許可を取得すれば可能だった。

アフォンソ5世は、この結婚でカスティーリャ・ポルトガルの両国王になれると乗り気になり、王太子ジョアンも同意したので、2万の兵を率いてカスティーリャへ侵攻した。しかしカスティーリャ人と軍の大半は、出自の明らかでないフアナよりも、アラゴン王太子妃となったイサベルを支持していたため、1476年3月のトロの戦いで敗れた。膠着状態に陥った継承戦争のさなか、アフォンソ5世はフランスに赴いてルイ11世の援助を求めたが失敗した。教皇庁からの結婚の許可もついに出なかった。

1477年7月、アルカソヴァ条約により戦争は終結した。条約の内容は次の通りであった。
  1. アフォンソ5世はフアナとの結婚を解消し、カスティーリャ王位請求権を放棄する。
  2. フアナはカスティーリャの王位継承者アストゥリアス公フアン(カトリック両王の長男)と将来結婚するか、あるいは修道院に入るか、半年以内に決める。
  3. ポルトガル王太子ジョアンの長男アフォンソ王子とカスティーリャ王女イサベル(カトリック両王の長女)の婚約。
  4. フアナに味方して戦ったカスティーリャ人に恩赦を与える。

1452年、ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷 ...

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1452年、ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を 与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化した。


大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(イギリス)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、西インドのプランテーション経営に必要な労働力となった(→三角貿易)。
出典奴隷貿易


地域の人的資源が急激に枯渇してしまい、それに伴う奴隷の卸売り価格の上昇、そして需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下により、奴隷貿易は次第に有益とは見なされなくなり縮小に向かった。その後人道的あるいは産業的見地からの反対を受け、1807年にイギリスにて奴隷貿易は禁止された。
ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易(英語版)は、1441年にポルトガル人アントン・ゴンサウヴェス(英語版)が、西サハラ海岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガルのエンリケ航海王子に献上したことに始まる。
1441-48年までに927人の奴隷がポルトガル本国に拉致されたと記録されているが、これらの人々は全てベルベル人で黒人ではない。
1452年、ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化した。

教皇就任1447年3月6日
教皇離任1455年3月24日

1452年、ポルトガル王アフォンソ5世に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えている。
さらに1455年には教皇教書「ロマーヌス・ポンティフェックス」を出し、異教徒の土地と物品を所有する権利をポルトガル王に独占的に認めた。


奴隷を集めてヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人

大航海時代のアフリカの黒人諸王国は相互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。
(中略)
1450年代に入ると(中略)地元勢力が、戦争捕虜や現地の制度下にある奴隷をポルトガル商人に売却するようになった。
その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が現地に要塞/商館/収容所兼用の拠点を置き、現地勢力が集めた奴隷を買い取って収容し、それをさらに船に売り渡すという形式のみとなる。

堕落したカトリックを救済・再建する目的で一五三四年に設立されたイエズス会は、世界の異端者と戦うための軍隊型組織を持つ布教の〃先兵〃として、ポルトガルの支援を受けて常に最果ての地に向かった。
その目標の東端が日本であり、西端がブラジルだった。
日本の場合
16世紀から17世紀にかけての日本は大航海時代を迎えて列強となったポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国から、東南アジアにおける重要な交易相手としてだけでなく植民地維持のための戦略拠点としても重視された。

海に面した各地の諸大名が渡来する外国船から火薬などを調達し、(中略)日本からは輸出品:硫黄、銀、海産物、刀、漆器、そして日本人も奴隷として輸出されていた。

鉄砲や火薬の大きな需要を作り出しただけでなく、教会は宣教事業を大名たちに保証させたし商人は利潤の上がる奴隷売買にまで取引を広げていくことができた。
その結果として、彼らは東アジア地域の奴隷市場の拡大とその移送ルートの確保を見事達成した

ポルトガル商人はイエズス会の宣教師を介して対立する大名間の戦闘には鉄砲などの物資を一方に提供する手法でその軍事的バランスを巧妙に操っていた。
有馬や大村、大友のキリシタン大名がまさにそれである。



1509年にポルトガル遠征隊がマラッカに初めて到着し、当初はポルトガルに交易と商館の建設の許可を与えた。
しかし、インドにおけるポルトガルのイスラム教徒迫害を聞き及んでいたイスラム商人がマームド・シャーにポルトガルの排除を働きかけ、王国は奇襲をかけて60人前後のポルトガル人を殺害し、ポルトガル艦隊は24人の捕虜を残してインドに帰還した。

この知らせを聞いたポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは1511年7月に16隻の艦隊を率いてマラッカに来航し、捕虜の釈放、要塞建設の用地の提供、賠償金の支払いを要求したが、マラッカ側は捕虜の釈放を除いた条件の受け入れに難色を示したため、上陸したポルトガル軍の攻撃を受けた。
マラッカは中国、タイ、ビルマ、あるいは地中海地域より輸入した火砲と自国で生産した鉄砲で応戦するが、マラッカ側は火器の使用法を熟知しておらず、性能もポルトガルのものが勝っていた。
また、国内のジャワ商人と中国商人の中にポルトガルと内通した一派があって統率を欠き、翌8月にマラッカは陥落した。

転載元: マレーシアの環境、歴史、観光


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