ローソク島は、隠岐諸島を構成する島の1つとして数えられる、日本海に存在する無人島である[1]。島の面積は、0.0033km2[2][1]。この島は、鮮新世前期(約500万年前)に噴出して出来た火山岩で形成されている[3]。名前の由来は、ろうそくのような細長い岩の形状、特に夕日が先端に重なった時に灯がともっているように見えるさまから。大山隠岐国立公園の一部に指定されていて[1]、奇岩として観光地となっている。
ローソク島の存在は、隠岐諸島内では古くから知られていた。しかし、島外でも知られるようになったのは第二次世界大戦後に観光地化が進んで以降である。現在では島内で指折りの観光スポットとなっており、島で作られている藻塩炊き式の塩の商品名にも「ローソク島」の名が使われている。その反面、長らく隠岐を代表する景勝地として知られていた白島海岸への遊覧船の客がローソク島観光に吸収されてしまっているとの指摘もある[4]。
以前は個人観光客の依頼に基づきボランティアが案内する形態だったが、2002年(平成14年)からは予約制の有料遊覧船が就航している。岩から20分ほどの距離にある重栖港と福浦港が主な遊覧船の出航地となっており、4月から10月のみ運航されている[5]。
地史・地質
竹島は、現代からおよそ460万年前から250万年前(新生代第三紀の鮮新世)の海底火山活動により誕生した火山島であり[4]、水深約2,000mの海底から噴出した溶岩が硬化したことにより形成された[5]。竹島の火山活動は約250万年前に停止した[7]。当初は1つの島塊であったが、その後の風化と浸食により2つの小島とその周辺の数十の小岩礁の構成となった[8]。
岩石と地質構造の分析結果によると、竹島は単一の火山爆発によって形成されたものではなく、200万年以上の長い期間の断続的爆発と噴火によって形成された[9]。竹島は粗面岩、粗面安山岩、玄武岩質角礫岩、凝灰岩など計8種類の岩石によって構成されている[9]。竹島の下部は主に玄武岩質の集塊岩であり、上部は粗面岩質の集塊岩と凝灰岩が相互層を形成している[9]。岩石の年代は、竹島下部を構成する玄武岩が約460万年前、女島にある火口跡を満たす粗面安山岩が約270万年前であり、島の北西部には約250万年前に貫入した粗面岩が分布している[9]。また火山堆積層が厚く積もった地点があり、断層が2箇所発見されている[9]。
生態系
竹島周辺の海域は対馬暖流と北からのリマン海流の接点であり、魚介藻類が豊富な好漁場である。 竹島は伊豆諸島と並んでニホンアシカ (Zalophus californianus japonicus) の主要な繁殖地の一つであったが、1975年の目撃を最後にそれ以降の目撃例は報告されておらず、ほぼ絶滅したと考えられている。ニホンアシカは日本周辺の海に多く生息していたが、漁獲や駆除、乱獲により各地で絶滅。20世紀初頭には生息地は竹島などの一部地域に狭まり、その後も竹島では乱獲が行われた。絶滅の主たる原因は以上のような乱獲によるものだが、その他気候変動や環境汚染、韓国によって竹島が要塞化されたことや在日米軍の軍事演習実施などの軍事関係も絶滅要因の一つとして指摘されている[13]。
年表
江戸時代
- 1618年(元和4年):伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛らが、幕府から許可を得て“竹島”(現在の鬱陵島)に渡航。
- 1692年(元禄5年):“竹島”(現在の鬱陵島)に出漁した大谷・村川の一行が朝鮮人と遭遇。翌年にも遭遇し、安龍福と朴於屯の2名を米子に連行したのを契機に、日本と朝鮮との間に紛争が発生(竹島一件)。
- 1696年(元禄9年):江戸幕府が“竹島”(現在の鬱陵島)への渡航を禁止。朝鮮の漁民安龍福が、鬱陵島ならびに于山島(韓国では于山島を独島と解釈している)は朝鮮領であると訴えるため、伯耆国へやって来た。
- 1849年(嘉永2年):フランスの捕鯨船 Liancourt 号が竹島(現在の竹島)を発見し、リアンクール島と名付けた(以後、日本では、りゃんこ島、リアンクール岩、リアンコールト列岩とも呼ばれる)。
明治以降
- 1904年(明治37年)
- 1905年(明治38年)
- 1906年(明治39年)
- 4月30日:中井養三郎を代表とする竹島漁猟合資会社の設立許可申請(同年7月2日許可)。
- 大正時代:隠岐五箇村久見在住の橋岡友次郎の後継者である橋岡忠重は、伯父の八幡長四郎、従兄の池田幸一と竹島出漁を毎年繰り返している[124]。
ポツダム宣言受諾後
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)
- 6月:外務省は『Minor Islands Adjacent Japan Proper』という小冊子を作成し竹島を日本の固有領土と明記する。
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)
- 12月29日:竹島を日本の領土として明記したサンフランシスコ平和条約の草案が作られる。
- 1950年(昭和25年)
- 6月8日:韓国は竹島で「遭難漁民慰霊碑」を除幕。
- 1951年(昭和26年)
- 7月6日:SCAPIN-2160が発令、これに伴い SCAPIN-1778 は廃止され、引き続き竹島を爆撃訓練場とし、隠岐および本州西部沿岸住民への事前通知を条件とする。
- 9月9日:サンフランシスコ平和条約に49カ国が署名、竹島は放棄すべき領土に明記されず。
サンフランシスコ平和条約署名後
- 1951年
- 1952年(昭和27年)
- 1月18日:韓国政府が李承晩ラインを一方的に宣言し、マッカーサー・ラインに続いて竹島を自国側の海域に入れる。日本政府は、韓国政府が竹島に「領土権を主張しているように見えるが」認めないと口上書により抗議[128]。
先史・古代
隠岐島後(どうご)の西郷町(現隠岐の島町)津井と五箇村(同)久見には、打製石器の原料としての黒曜石を産出する。紀元前5000年頃に縄文早期前期の遺跡が西郷町津井の近くに宮尾(みやび)遺跡が[1]、久見の近辺に中村湊(なかむらみなと)遺跡がある。これらに遺跡は石器製作跡と推測されている。
サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は広く山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及ぶ。弥生時代後期に水稲栽培が島に入り、島後南部の八尾川下流東岸に月無遺跡が出現する。隠岐には約200基の古墳が分布、八尾川下流に隠岐最大の前方後円墳である平神社古墳(へいじんじゃ、全長47メートル、長さ約8メートルの横穴式石室)がある。
大化の改新以前には億伎国造が設置され、玉若酢命神社宮司家である億岐家が国造家であったと考えられている。646年(大化2年)隠岐駅鈴2個及び隠岐国倉印が西郷町の玉若酢命神社におかれた[2]。隠岐国設置の年代は不明だが、大化改新後全国に国郡が置かれた時から存在したと考えられる。また、当時の木簡には「隠伎国」と記しているものもあり、設置当初にはこの名称が使われていた可能性もある。
隠岐国府は弥生時代から諸島最大の中心地であった島後の八尾川下流に置かれたが、具体的な所在地については下西の台地にあてる甲ノ原説と八尾平野に当てる説がある。国分寺、国分尼寺についても所在地は必ずしも確定的ではない。古代の隠岐国は山陰道7国のうち下国で、都からの行程は上り35日、下り18日と定められていた。
隠岐国府は弥生時代から諸島最大の中心地であった島後の八尾川下流に置かれたが、具体的な所在地については下西の台地にあてる甲ノ原説と八尾平野に当てる説がある。国分寺、国分尼寺についても所在地は必ずしも確定的ではない。古代の隠岐国は山陰道7国のうち下国で、都からの行程は上り35日、下り18日と定められていた。
日本海の孤島隠岐は古代から渤海や新羅との交渉も記録されている。763年には渤海から帰国する日本使節・平群虫麻呂の一行が日本海で遭難して隠岐に漂着し、825年には渤海国使高承祖ら103人、861年には渤海国使李居正ら105人が隠岐国に来着している。日本と新羅との関係が緊張すると隠岐国にも影響があり、869年には隠岐に弩師(弓の軍事教官)が置かれ、870年には出雲、石見、隠岐に新羅に対する警備を固めるよう命令が出された。888年には新羅国人35人が隠岐に漂着、943年には新羅船7隻が寄着するなど現実に新羅との交渉が生じた。
『和名抄』の郡郷
『和名抄』によれば、隠岐国は4郡、12郷に分かれていた。
- 知夫郡 知夫里島及び西ノ島
- 宇良(うら)郷、由良(ゆら)郷、三田(みた)郷
- 海部郡 中ノ島
- 布施郷、海部(あま)郷、佐作(さつくり)郷
- 周吉郡 隠岐島後(どうご)南部
- 賀茂郷、庵可(あむか)郷、新野(にいの)郷
- 穏地郡 隠岐島後北部
- 都麻(つま)郷、河内(かむち)郷、武良(むら)郷
の各郷である。穏地郡は古い時代には役道郡と呼ばれていた。
延喜式内社
- 水若酢神社 穏地郡 隠岐の島町(旧五箇地区)郡、隠