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[転載]朝鮮半島の二人■金 日成(キム・イルソン)

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  金 日成 (キム・イルソン)
1912年4月15日1994年7月8日
 
 
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満州において
抗日パルチザン活動に部隊指揮官として参加し、
第二次世界大戦後はソビエト連邦の支持の下、
北朝鮮に朝鮮民主主義人民共和国を建国した。
 
 
間島・三〇事件(間島暴動)が発生する。
 
最初に部隊を率いていた人物の一人は、
金一星(キム・イルソン)という
龍井の大成中学生だった。
 
この暴動は
断続的に翌年の春まで続くが、
襲撃されたのは
電気会社や鉄橋などの日本の施設と、
富裕な朝鮮人・中国人で、
100人を超える犠牲者もすべて朝鮮人・中国人だった。
 
 
1936年の春ころより、
金日成のパルチザン活動が
本格的に始まったとされる。
 
東北抗日聯軍のパルチザン活動の中で、
もっとも注目を集めたとされるのが、
1937年普天堡の戦いだが、
甲山グループの手引きで成功したこの襲撃は、
略奪、拉致、放火を伴い、
東北人民革命軍のころと変わっていない。
 
金日成部隊の兵力補充は、
中国人苦力および朝鮮人農民を徴用し、
村や町を襲撃するたびに人質にとった若者に
訓練を施しては兵士に仕立てた。
 
また食料の調達でもっとも一般的なのは、
人質をとって富裕な朝鮮人に
金を強要する方法だった。
 
求めに応じない場合には、
人質の耳を切り落とすと脅し、
それでも応じない場合には
首をはねるといって
人々を恐怖に陥れた」ということである。
 
金日成のパルチザン活動は、
朝鮮半島で大きく報道されたが、
「おおむねその蛮行、略奪を非難する内容で、
襲われる満州の朝鮮人農民の苦しみに
同情を寄せたものが多かった」状態で、
決して英雄扱いではなかった。
 
 
戦闘、補給困難、脱走、帰順などで、
東北抗日聯軍は消耗していき、
金日成を含んだ残党はソ連領に逃げ込んだ。
 
彼らはソ連の狙撃隊に編入されたが、
対日戦に参加することはなく、
北朝鮮を解放したのはソ連だった。
 
金日成を中心とする満州派パルチザンは
ソ連軍が占領した朝鮮半島北部へ入り、
北朝鮮建国の中核となった
 
解放後の1945年10月14日に、
北朝鮮に進軍したソ連軍は、
金日成を国の指導者として平壌市民に紹介したが、
1920年代に活躍した闘士なら
とっくに銀髪であるはずなのに」
といぶかる者が多かったという。
 
  建国直前  
第二次世界大戦末期に
日本宣戦布告をしたソ連は、
朝鮮北東部から
朝鮮半島を徐々に制圧して行き、
日本の降伏後には、
最終的に北緯38度線以北の朝鮮全域に進駐した。
 
朝鮮総督府統治が終焉した時点で、
朝鮮には朝鮮人による独自の共産党組織があった。
 
 
1946年2月
そこで朝鮮人共産党員の
指導的役割を担っていた金日成を、
朝鮮北部の行政機関である
北朝鮮臨時人民委員会の委員長に任命した。
 
金日成は、
朝鮮の共産主義者の中では少数派に過ぎなかった。
 
しかし、帰国直前に
モスクワで行なわれたスターリンとの会談で、
ソ連が樹立を考えていた
朝鮮の共産党政権の指導者として
認定されたと言われている。
 
 
 
 建国当初~1950年代 朝鮮戦争と共産化 
 
朝鮮民主主義人民共和国は、
1948年9月9日に独立を宣言した。
 
建国当初の北朝鮮は、
まだ金日成への権力集中が果たされておらず、
満洲パルチザン闘争を行っていたとされる
金日成の満州派の他、甲山派南労党派延安派
ソ連派などの勢力に分かれていた。
 
 
1960年代
中国とソ連間で対立が深まった(中ソ対立)。
 
北朝鮮は当初は両国の顔色をうかがっていたが、
キューバ危機の頃より親中に傾いた。
 
これに対してソ連は
経済援助を打ち切る措置をとった。
 
北朝鮮経済に深刻な打撃となった。
今度はソ連に接近した。
 
 
中ソの資金援助を当てにできない状況下で、
北朝鮮は一国社会主義体制を形成して
韓国に対抗する必要に迫られた。
 
こうした中、
1960年代半ばより
北朝鮮は「主体思想」を示し、
「思想における主体、政治における自主、
経済における自立、国防における自衛」の
重要性を唱え、
民族主義的・個人崇拝的な
国家運営へと傾いていった。
 
 
こうして対立姿勢を打ち出すためには
多額の軍事費が必要とされ、
民衆には厳しい負担が課されることになった。
 
 
  1970年代 金正日の台頭  
 
1972年
独立時の憲法では首都はソウルとされたが、
この憲法では平壌となった。
 
金一族による
世襲支配の方針が明確に示される中で
その血統が神格化され、
様々な革命神話を通じて
一族支配の正統化・絶対化が進められた。
 
死去するまで同国の最高指導者の地位にあり、
1948年から1972年までは首相を、
1972年から死去するまで国家主席を務めた。
 
1966年以降は
中央委員会総書記)の地位に、
結党以来一貫して就いていた。
 
 
 
北朝鮮においては「偉大なる首領様」などの
尊称の下に神格化され、崇拝されている。
 
彼の死後1998年に改定された
朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法では
「永遠の主席」とされ、
主席制度は事実上廃止された。
 
 中国共産党入党
金日成が最初に参加した抗日武装団は、
李鐘洛率いる左派の一団だった。
 
金日成は、中国共産党が指導する
抗日パルチザン組織の東北人民革命軍に参加した。
 
 
東北人民革命軍は
中国革命に従事するための組織であったために
朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちだった。
 
 
東北人民革命軍時代の金日成の功績は、
中国人民族派抗日武装団から信頼を得ていた。
 
 
抗日パルチザン活動
1937年6月4日
金日成部隊が普天堡(ポチョンボ)の町に
夜襲をかけた事件(普天堡の戦い)を契機に、
金日成は名を知られるようになった。
 
国境を越えて
朝鮮領内を襲撃して成功した例は稀有だったこと、
それが大きく報道されたこと、
 
日本官憲側が金日成を標的にして
「討伐」のための宣伝を行い
多額の懸賞金をかけるなどしたことが、
金日成を有名にしたともいわれる。
 
しかし北朝鮮の金日成伝では、
他人の業績を
そのまま金日成のものにしてしまっている。
 
その後も金日成部隊は
満州での襲撃、略奪、拉致を行い
満州の警察部隊・前田隊を事実上「全滅」させている。
 
 
 
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ソ連への退却
1940年の秋、
金日成は党上部の許可を得ないまま、
独自の判断で、
生き残っていた直接の上司・魏拯民を置きざりにし、
十数名ほどのわずかな部下とともに
ソビエト連邦沿海州へと逃れた。
 
ソ連に越境した金日成は、
スパイの容疑を受けて
ソ連国境警備隊に一時監禁される。
 
その後周保中が彼の身元を保障して釈放される。
 
1940年12月
ハバロフスク会議を経て、
金日成部隊はソ連極東戦線傘下の
第88特別旅団(旅団長は周保中)に
中国人残存部隊とともに編入され、
金日成は第一大隊長(階級は大尉)となった。
 
彼らはソ連ハバロフスク近郊の野営地で
訓練・教育を受け、
解放後には北朝鮮政府の中核となる。
 
1945年8月
ソ連軍北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領した。
 
金日成はソ連軍第88特別旅団の一員として
帰国を果たした。
 
10月14日
金日成は帰国直前にモスクワに呼ばれ
ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンと会談しており、
ソ連が朝鮮半島北部地域で樹立を計画していた
共産党政権の指導者として認定されていた。
 
平壌でのソ連軍の歓迎集会において、
ソ連当局は
金日成を凱旋者として
華々しく演出し盛り立てようとしていたが、
当時33歳の金日成が
歓迎集会に参集した
民衆の前に姿を現して
ぎこちない演説をはじめると、
民衆のなかから失望の声が上がり、
「彼は『金日成将軍』とは別人ではないか」
と疑い始めた。
 
「金日成将軍」は既に1920年代から抗日英雄として、
朝鮮半島北部の住民達の間で
伝説的な存在になっていたため、
「金日成将軍」が白髪の老将軍だと思い込んでいた人々も多かった。
 
ところが、実際に現れた「金日成将軍」は
長い活動歴の持ち主にしては
余りに年齢が若過ぎたので、
出迎えた民衆は驚いたのである。
 
金日成が偽者ではないか
と疑う声が多く挙がった。
 
指導者へ
 
ソ連占領下の朝鮮半島北部では、
暫定統治機関として
1946年2月8日
北朝鮮臨時人民委員会が成立し、
金日成がソ連軍政当局の後押しを受けて、
委員長に就任した。
 
金日成はソ連当局の支援を受けて
北朝鮮の指導者となっていったが、
金日成派は
圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。
 
1948年
アメリカ占領下の南朝鮮で単独選挙が実施され、
大韓民国が成立すると、ソ連占領下の北朝鮮でも
国家樹立への動きが高まり9月9日
朝鮮民主主義人民共和国が建国され、
金日成は首相に就任した。
 
さらに
1949年6月30日
中央委員会委員長(総書記)に選出された。
 
 
 
 
  朝鮮戦争  
 
1950年6月25日
北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻し、
朝鮮戦争が始まった。
 
 
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当初、北朝鮮軍が
朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、
朝鮮人民軍は侵攻した地域で
民衆に対し虐殺・粛清などを行ったため、
民衆からの広範な支持は得られず
期待したような
民衆による南北統一の蜂起は起きなかった。
 
 
開戦直後の7月4日
朝鮮人民軍最高司令官に就任していた金日成は、
自分の家族を疎開させた。
 
10月11日に平壌を脱出し、通化に事実上亡命した。
 
10月25日
中国が参戦し、中国人民志願軍を派兵してきたことによってアメリカ軍を押し戻した。
 
同年6月には休戦が成立し、平壌に帰還した。
 
 
  反満州派の粛清  
 
■粛清(しゅくせい)■
組織の一体性・純粋性を保つため、
組織内から異分子人物・勢力を排除すること。
金日成派は
満州派とも呼ばれる
満州抗日パルチザン出身者たちである。
 
抗日パルチザンとは、
日本の支配地域で行われた
主に共産党系の非正規軍を指すが
匪賊と変わらない。
 
匪賊(ひぞく)とは、
「集団をなして、
掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す。
 
 
 
 
日成と満州派は国内派全ての粛清を開始した。
朝鮮戦争休戦直後には有力者を逮捕・処刑した。
この頃までに満州派の中からも
金策の変死事件が起き 粛清が行われた
 
 
 
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満州派内部の粛清(しゅくせい)独裁体制の確立
 
1969年以降
満州派内部においても、金昌奉、許鳳学、崔光
石山、金光侠らが粛清された。
 
1972年
憲法が改正され粛清が展開され、
金日成の後妻の金聖愛(姿を消す)
実弟の金英柱1975年に失脚、1993年に復帰)
叔父の娘婿(義従兄弟)の楊亨燮(1978年に復帰)など身内にも失脚者が出た。
 
1977年
国家副主席 金東奎が追放。
金日成はスターリン型の政治手法を用いて、
政治的ライバルを次々と葬った。
 
金日成は国家主席に就任し
軍の最高権力を掌握し、独裁体制を確立した。
 
 
統一は武力行使によらない
平和的方法を取ることなどを
南北共同声明」として発表したが
北朝鮮側から一方的に中断してしまった。
 
 
1991年9月17日
韓国と共に、国際連合に同時加盟する。
 
1992年1月30日
金日成は国際原子力機関(IAEA)の
核査察協定に調印したが、
早くも翌年3月には
核拡散防止条約(NPT)を脱退した。
 
1994年3月
IAEAまで脱退して査察拒否を表明したため、
核開発疑惑が強まった。
 
 
死去
 
金日成は1994年7月8日午前2時に死去した。
死因は執務中の過労による心筋梗塞と報じた。
 
葬儀国葬として首都平壌で執り行われた。
 
その後遺体はエンバーミングが施され
錦繍山記念宮殿に安置されている。
 
 
 
 
 
 

転載元: RCボトル潜水艦/RC潜水艦/RC艦艇/水生ロボット


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