●朝鮮戦争 ◆辞
,紡海
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【分断の固定化と対立】
南北の分離独立
1948年8月13日に、今度は李承晩が大韓民国の成立を宣言した。金日成はこれに対抗して自らも9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は単なる境界線ではなく、事実上の「国境」となった。
☆ ヨシフ・スターリン
その後、金日成は李承晩を倒して統一政府を樹立するために、ソ連の指導者で独裁者でもあるヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めていたが、第二次世界大戦で国力が疲弊しているために、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は撤収した。それを受けて北朝鮮は祖国統一民主主義戦線を結成した。その後大韓民国では8月12日にジュネーブ条約調印[5]、11月に国家保安法が成立するなど、着々と国家としての基盤作りが進んでいた。
南北の分離独立
1948年8月13日に、今度は李承晩が大韓民国の成立を宣言した。金日成はこれに対抗して自らも9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は単なる境界線ではなく、事実上の「国境」となった。
その後、金日成は李承晩を倒して統一政府を樹立するために、ソ連の指導者で独裁者でもあるヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めていたが、第二次世界大戦で国力が疲弊しているために、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は撤収した。それを受けて北朝鮮は祖国統一民主主義戦線を結成した。その後大韓民国では8月12日にジュネーブ条約調印[5]、11月に国家保安法が成立するなど、着々と国家としての基盤作りが進んでいた。
同じ頃、地続きの中国大陸では国共内戦の末、ソ連からの支援を受けて戦っていた毛沢東率いる中国共産党が勝利し、10月1日に中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国が成立した。敗北した蒋介石率いる中華民国政府は台湾島に遷都し、その後も中華人民共和国との対立を進めた。なおアメリカは、蒋介石率いる中華民国の国民党政府を抗日戦争から国共内戦に至るまで熱心に支援していたが、内戦の後期になると勝機が見えないと踏んだ上、政府内の共産主義シンパやスパイの影響を受けて援助を縮小していた。
1950年1月12日、アメリカのディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任をもつ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任をもたない」と発言し(「アチソンライン」)、韓国のみを含めなかった。これは、アメリカの国防政策において太平洋の制海権だけは絶対に渡さないという意味であったが、朝鮮半島は地政学上、大陸と海の境界線に位置している関係もあって、判断が難しい地域でもある。金日成はこれを「アメリカによる西側陣営の南半部(韓国)放棄」と一方的に受け取った。
アメリカは同月、韓国との間に米韓軍事協定を結んでいた。これは李承晩の日本への復讐(李は上海臨時政府時代に日本の憲兵隊に逮捕されており、その際拷問を受けた。しかし、後に釈放され、渡米している)に由来する、日本に対する報復的、敵対的行動(竹島領有宣言など)を行い、国家統一、軍の北進を訴える李承晩を押さえ込むもので、韓国の軍事力の大部分はアメリカが請け負い、韓国軍が重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ぐ為、僅かな兵力しか許さないというもので、アメリカは北朝鮮の南進については楽観的で、むしろ韓国が北に攻め込むことを恐れていた。このアメリカの李承晩懐柔政策は、僅か5ヵ月後に大間違いであったことに気付かされる。
【スターリンによる侵攻容認】
これらの状態の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(内容としては、電報の内容を故意に解釈し、「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりしたというもの)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認した。同年5月、中華人民共和国を訪問した金日成は、北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助するという約束を取り付けた。
これらの状態の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(内容としては、電報の内容を故意に解釈し、「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりしたというもの)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認した。同年5月、中華人民共和国を訪問した金日成は、北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助するという約束を取り付けた。
中華人民共和国が北朝鮮を当初から積極的に支援したという見解があるが、実際はソ連の軍事支援が小規模な事がわかったことにより、中華人民共和国内では侵略支援への消極的意見が主流だったという。また、直前になってから侵略計画を知らされた事に不満の声もあった。