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[転載]第三清徳丸襲撃事件とは、尖閣諸島海域で操業中の第三清徳丸が中国旗を掲げる2隻のジャンク船に襲撃され、2名が射殺され4名が行方不明になった事件。

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第三清徳丸襲撃事件

   
事件の起きた魚釣島近辺
中華民国の旗
中国のジャンク船(事件の船ではない)
第三清徳丸襲撃事件(だいさんせいとくまるしゅうげきじけん)とは、尖閣諸島海域で操業中の第三清徳丸が中国旗を掲げる2隻のジャンク船に襲撃され、2名が射殺され4名が行方不明になった事件。


概要

  1955年3月2日午後2時頃、尖閣諸島魚釣島西方約2海里の地点で操業中の第三清徳丸に中国旗(中華民国)を掲げた2隻のジャンク船(大安丸・他)が救助を求めたため、曳航しようと接舷したところ、兵隊のような格好をしたもの2名が第三清徳丸に飛び移るやいなや、船長と船員合わせて2名を射殺した。
 残りの船員7名は海に飛び込み、2海里離れた魚釣島まで泳いで逃げようとしたが3名しかたどり着けず、4名は行方不明となった。魚釣島にたどりついた3人は島の裏側で操業していた第一清徳丸に連絡したのち石垣島に難を逃れた。

政府見解

 第22回国会衆議院外務委員会(1955年7月26日)において、第三清徳丸事件に関する細迫外務委員の質問に対し、中川外務相アジア局長は次のように回答している。 「第三清徳丸の件につきましては、実は三月五日に琉球の立法院が決議して、日本政府にもその決議を送るという趣旨のことになっておるようですが、われわれの手元にそれがつきましたのは、ごく最近でございます。約一週間前に南方連絡事務局を通じましてわれわれの手に入りました。
 事件の内容は、ただいまお読みになりましたように、琉球の一番南の方の台湾に近い島、非常に小さな島のようでありますが、その島の領海内で青天白日旗を掲げた小さな軍艦のようでありますが、武裁した船によって――初めはその船が難破しておるということで、こちらの船が救助に行ったところが、向うから入り込んできて、それがかえって鉄砲その他をもって二人が射殺され四人が拉致されてしまった。たしか船も連れていかれたのじゃないかと思いますが、どこかへ行ってしまった、こういう奇々怪々な事件でございます。
 当時その害を受けました人たちがさっそくこれを訴えまして、米軍当局もこれは必ず調査するからという約束をしてくれたのだけれども、その後一向調査が進まぬというようなことから、今の決議のようなことになったようでございます。従ってこれにつきましてはただいま御指摘のように、琉球住民が日本国民であるというようなことにかんがみまして、さっそく事件の概要を米国大使館に知らせまして、さらに調査善処方を要望いたしております。第一次的にはアメリカ当局がこの琉球住民の保護に当るべきでありますので、アメリカ当局に対して日本側の関心を伝えまして、これがさらに徹底的な調査を要望しておいたのでございます。結果につきましてはまだ何ら報告に接しておりません。」

参考文献


図解:戦後における尖閣諸島南小島周辺での鰹節製造。
画:新里 堅進
・1950年代における沖縄漁夫の活躍―主に宮古島を中心として。

戦後の短い時期であるが、尖閣諸島において沖縄漁夫の一部は同諸島の開拓跡地を利用、鰹漁及び鰹節製造に従事した歴史がある。石垣島の漁夫は魚釣島の北西にある石垣跡で、宮古伊良部島漁夫は南小島北西にある石垣跡で、宮古池間島漁夫は魚釣島南側海岸を拠点として、それぞれが鰹漁と節製造を試みた。
冒頭の写真の方々は1950年代にかけて尖閣諸島へ出漁していた宮古漁夫の方々であり、幸い皆さんご健在である。今回、写真の方々他出漁経験のある漁夫の皆さんから当時の状況を聞取った上で、劇画家の新里堅進氏に鰹漁及び鰹節製造の様子を描いて頂いた。
1949年冬から1950年初め頃、宮古伊良部島の漁夫らによって、南小島北西海岸にある石垣跡に鰹節の仮工場が設置された。岩山斜面の麓に石垣跡が見える。

1950年頃より試みられた尖閣諸島における冬期鰹漁及び鰹節製造はそれほど長く続くことはなかった。当初は大漁であった漁獲も直ぐに急減したらしく、50年度以降幾人かの漁業者らが試みるも、単年度の散発的な出漁にとどまっている。


解題―1950年前後の尖閣諸島におけるカツオ漁
○大まかな背景
 終戦後、沖縄県は米軍統治下に置かれた。敗戦と沖縄戦の荒廃により、宮古八重山を含む沖縄諸島の人々は物資の欠乏に喘いでいた。そんな状況の中、戦前から台湾に出稼ぎ渡島していた宮古八重山の漁夫は沖縄に比べ物資が豊かな台湾へと渡り、台湾船に乗ってカツオ釣やカジキ突き漁に従事していた。
 この台湾船に乗り込んだ沖縄漁夫らが尖閣諸島へ主にカジキ突きのため出漁した。だがその後まもなく台湾に国民党が進駐し情勢が不穏になってくると、出稼ぎに来ていた沖縄漁夫の多数は沖縄に戻り、本島、宮古八重山、与那国から同諸島に出漁するようになった。

○冬期カツオ釣り漁の試み
◇漁船:元々は冬期のカジキ突き船だった伊良部島のカジキ突き船かもめ丸が、1949年冬に尖閣諸島周辺にカツオが多く周遊することを確認し、同船をカツオ船に仕立て直して出漁したのが戦後の同諸島におけるカツオ節製造の始まりである。乗組員は17-18名。カツオ竿、タモ網、サバネ、餌取り用の網、餌桶、生簀そう、かまど(一斗缶を切った物)等、ほかカツオ節加工のための作業台(まな板)、鍋釜、カゴ、セイロ等を漁船に積みこみ出漁した。カツオを炊く薪等の燃料は漂着材を使用。食料は芋と魚、他、島に自生する野草、海鳥等を食して過ごしたそうである。
◇餌取り:カツオ釣り漁には活きた餌魚が必須である。餌取りは漁船の船員総出で網漁を行った。陽が上がると同時に開始したそうである。漁夫らの話によると、冬の時期なので海中は大変寒く、皆ぶるぶる震えながら潜った。餌魚はシーラーと呼ばれるキビナゴの一種(ミナミキビナゴ)やムギャ乃至はウフミー(ハタンポ類、テンジクダイ類)当の小魚で、当時はほぼ裸で海に潜って餌魚を網に追い込んだ。島の周辺は沖縄本島や宮古八重山に比べると小魚の棲家となるリーフが少なく、島の周囲を泳ぎ回って取ったが、餌魚の量はいつも少なかったと言う。餌魚採取後島の沖に出てカツオ釣漁を行った。カツオ釣が日の早いうちに終わると、もう一度餌取りする場合もあった(基本は1日に1回だが稀に日に2回)。

○鰹節製造のその後
さて、1950年代にかけて行われたカツオ節製造は途絶えたが、その後も伊良部島からは尖閣へ出漁し、60年代から70年代にかけて主にスマガツオ曳縄漁を行った。同島漁夫の話によると鮮魚の需要のため最近では漁法を竿釣に切り替えたが、この冬期スマカツオ漁は現在でも続いている。1950年頃より60年以上経て、同島で今尚カツオ漁場として受け継がれていることは特記すべきであろう。

○結語
以上述べてきた様に戦後、宮古漁夫らによって試みられた尖閣諸島における鰹節製造であったが、従事した漁夫らの聞取によると、当時同諸島では冬でも真鰹が豊富に回遊していたが、ほどなくしてマガツオの魚群は余り見られなくなったそうであり、戦後の同諸島におけるカツオ節製造は単発的な一過性のものであったと思われる。
1950年代にかけての尖閣諸島におけるカツオ漁及び当時の漁業の様子について、今回多くの方から聞取を得られることが出来た。
戦後1970年代以降、尖閣諸島が領土問題化し同諸島周辺まで出漁する漁夫は50年代に比すると大変に少なくなっている。50年代当時の操業状況及び漁況を知る方がいるというのは大変貴重な生きた情報資源である。
漁夫の方々の記憶の確かな事、丁寧にお話頂いた事。謹んで御礼と感謝申し上げる。尚、聞取者の氏名を以下に記す。
戦前尖閣諸島漁業聞取者リスト(2009-2010)五十音順敬称略
奥原隆治氏、賀数金次郎氏、金城亀吉氏、具志堅用徹氏、国吉真一氏、国吉守夫氏、高江州昇氏、玉城亀一氏、渡真利浩氏、仲間恵義氏、仲地行雄氏、仲間惇氏、長浜一男氏、西里勇氏、発田俊彦(重春)氏、宮良貞光氏、与那嶺正雄氏。

事業成果物名

2012年度「かつおフォーラムin宮古島」にパネル参加及び小冊子作成事業

団体名

事業成果物概要

2012年10月6日に沖縄県宮古島市伊良部町公民館で開催された、「かつおフォーラムin宮古島」にて、1950年前後に宮古諸島の伊良部島池間島より尖閣諸島に出漁し、同諸島魚釣島並びに伊良部島でカツオ節を製造していた人々による聞き取りをまとめた小冊子を会場にて配布すると共に、パネル展示を行わせていただきました。会場にて配布した小冊子「1950年前後の沖縄県宮古諸島漁民による、尖閣諸島における鰹節製造」を成果物として、登録します。



冊子

事業成果物

事業成果物名

「1950年前後の沖縄県宮古諸島漁民による、尖閣諸島における鰹節製造」小冊子PDF

ファイル

形式:PDF 容量:2MB
事業成果物をダウンロードする

転載元: 沖縄県風土記等を読みませんか


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