基地負担軽減の実績、佐喜真氏やや優位か? 翁長氏側の世論誘導警戒 宜野湾市長選告示
米軍普天間飛行場の移設に対する姿勢を最大の争点に、17日、沖縄県宜野湾市長選の戦いの火ぶたが切って落とされた。名護市辺野古への移設を否定しない佐喜真淳氏と、辺野古移設阻止を掲げる志村恵一郎氏との一騎打ちは、現職の強みを生かす佐喜真氏がやや優位とみられているが、予断を許さない展開。佐喜真氏陣営は支持層の引き締めを図ると同時に、志村氏陣営の世論誘導を警戒している。(半沢尚久)
「今回の市長選は沖縄県民と安倍政権の戦いです」
市内の路上ではそう書かれた看板が目立つ。志村氏陣営が設置したもので、辺野古移設をめぐる「政権対沖縄」という構図を選挙戦に持ち込む意図が鮮明だ。
そこでいう「沖縄」は、翁長雄志(おなが・たけし)知事を中心とする保守系の一部と革新政党を融合させた「オール沖縄」の勢力。一昨年の名護市長選と知事選、衆院選小選挙区で連勝した勢いを維持して宜野湾市長選も勝利し、6月の県議選、夏の参院選へとつなげる算段を描く。
志村氏は17日、翁長氏と同じ選挙カーに乗って市内を回り、街頭演説で「翁長知事とともにやっていけるのは私だ」と強調した。
対する佐喜真氏は政権対沖縄という構図に乗るつもりはない。自民党国会議員で17日の出陣式に呼ばれたのは県出身議員のみで、選対幹部は「どのように宜野湾市を発展させるかをひたすら訴えていく」と話す。
佐喜真氏は2つの強み、すなわち、支援態勢と1期4年の実績を1週間の選挙戦で徹底する構えだ。
「組織を挙げて全力で頑張ろう」。13日、佐喜真氏の選対事務所に自民党県連と公明党県本部の幹部、県建設業協会の下地米蔵会長が顔をそろえ、一致結束を確認した。下地会長は、一昨年の知事選にも出馬した下地幹郎衆院議員(おおさか維新の会)の兄だ。
この支援態勢は、菅義偉(すが・よしひで)官房長官が水面下でレールを敷いた。菅氏は昨秋、首相官邸を訪れた下地会長に佐喜真氏支援を要請。名護市長選と知事選で自民党が擁立した候補者を推薦しなかった公明党も、昨年末に菅氏主導で軽減税率について自民党と合意した直後、佐喜真氏の推薦を決めた。
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宜野湾市
歴史・沿革
宜野湾間切
- 16世紀頃浦添間切北部10村、中城間切野嵩村と普天間村、北谷間切安仁屋村から宜野湾間切となる。
宜野湾村
- 1908年(明治41年) 宜野湾間切から宜野湾村になる。
- 1922年(大正11年) 宜野湾村内に軽便鉄道 那覇・嘉手納線が開通。
- 1945年(昭和20年) 宜野湾村嘉数高地で日本軍とアメリカ軍の激しい戦闘が行われる(嘉数の戦い参照)。
- 1958年(昭和33年) 発掘調査で石斧や土器が出土した(大山貝塚)。
- 1960年(昭和35年) 宜野湾村内に米軍ヘリ墜落。
宜野湾市
- 1962年(昭和37年)7月1日市制施行。宜野湾村から宜野湾市になる。
- 1963年(昭和38年)7月 健康都市宣言
- 1967年(昭和42年)6月 市章制定。「ギノ」を図案化したもの。
- 1969年(昭和44年)10月 キャンプ・ブーン一部返還
- 1971年(昭和46年) 普天間高校春の甲子園出場
- 1972年(昭和47年)5月15日沖縄が本土復帰。沖縄県誕生。
- 1974年(昭和49年) キャンプ・ブーン全面返還
- 1975年(昭和50年)12月9日 市花(キク・サンダンカ)制定
- 1976年(昭和51年)3月 キャンプ・マーシー返還
- 1980年(昭和55年) 宜野湾市の普天間基地内で米軍機が墜落。3月18日平和都市宣言
- 1983年(昭和58年)8月 真志喜で埋立事業着工
- 1984年(昭和59年) 嘉数高台公園が整備される
- 1985年(昭和60年) プロ野球横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)が春季キャンプ開始
- 1987年(昭和62年) 沖縄コンベンションセンターが完成
- 1991年(平成3年) 宜野湾市民図書館開館